「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2016 遠野市郷土芸能共演会後編

2016-11-28 15:11:43 | 郷土芸能

サブタイトル「遠野人は皆、芸能人」と謳っている郷土芸能共演会ですが、

その遠野人、出るのは好きでも、観るのは得意ではないようで、毎年、客入りが気になります。笑

さて、共演会の後半

 

大工町の遠野太神楽さんです。

パンフレットとアナウンスによる今回の紹介は私的には感動でした。笑

以前は「幕末頃、おかめ倉松という踊りの名人が始めた」という紹介でしたが、今回は、

寛永4年(1627)八戸南部氏が遠野に移封した際、それに伴ってやってきた「てんや与平治」によって始まると

遠野古事記に記されており、その後、いわゆる遠野の町中で芸達者な若者たちによって演じられたり、

(盛岡や花巻のてんやの仲間たちによって演じられることもあり、)

安政3年(1856)には、神道佐々木大和守に引き継がれ、現在は大工町の皆さんが中心に演じる。

といった内容で、全て残されている文章と一致しています。

 

遠野太神楽では、唄が入り、おかめが舞いますが、これがなんとも良いもの。

 

釜石の大神楽にもおかめが登場します。これは唐丹町の伊勢神楽ですが、

同じ釜石の南部藩壽松院年行司支配太神楽にもおかめが附いていました。

釜石のおかめが単独で舞う姿は確認していませんが、遠野では幕末の頃に「おかめ倉松」によって

おかめ舞に特化したものが出来たのかもしれません。

 

神楽、シシ踊り、剣舞、太神楽・・・気になり始めたら大変なことになってしまいます。笑

 

八幡神楽さんの岩戸開き

 

鳥舞

 

附馬牛町 張山しし踊りさん

 

柱がかり

開演前に東禅寺しし踊りの方とお話をさせて頂いたのですが、気になることが出てきました。

附馬牛町のシシ踊りで中太鼓(両手に飾りの着いた棒を持って踊る)があるのは上柳獅子踊りだけで、

他では、小友町の長野獅子踊りと鷹鳥屋獅子踊りには無く、

同じ山谷獅子踊りでは棒ではなく、扇子を片手に持って踊る(刀無し)ものを中太鼓としているようです。

どの団体も持っていると思っていましたが、いつから、こうなったのか気になります。笑

 

ちなみに、この女の子たちが中太鼓です。

 

最後は下郷さんさ踊りさん

 

共演会終盤に、盛岡からカメラ片手に、まっとさんとその知人の方がいらっしゃっていましたが、

盛岡のさんさ踊りとはまた違った味わいの、景気が良い下郷さんさを見に来たようです。

お二人のように、市外から見に来られる伝統芸能ファンが増えることを期待しつつ、共演会は幕となります。

 

 

 

 

 


2016 遠野市郷土芸能共演会前編

2016-11-27 22:04:34 | 郷土芸能

寒かった勤労感謝の日に青笹で貰ったと思われる風邪?

その後、鼻水ちょろちょろ、という事で、金、土曜日と大人しくしていましたが、

今日は、日曜日

健康を考えて、外での板沢しし踊りさんの踊り納めは遠慮して、屋内開催の共演会へ 笑

 

開場時間を確認しないで現地へ行くと、30分近く早かったようです。

お陰様で、アナウンスのリハーサルを聞くことができました。笑

 

主催者代表の挨拶から始まり、トップは鷹鳥屋甚句踊り保存会さん

大正14年頃、お隣り江刺区の後藤春治という師匠を招いて、小黒沢集落の若者たちが習い覚えて始まった

と、パンフレットには紹介されていました。

今日は、「からかさ甚句踊り」が披露されました。

 

続いて、附馬牛町 東禅寺しし踊りさん

 

メイン演目は、雌じし狂い

これは、一匹の雌じしをめぐって雄じし二匹が取り合いをする演目ですが、

三匹獅子舞・シシ踊りで、ネット確認すると「雌獅子狂い」と「雌獅子隠し」という名前に分かれ、

似たようなあらすじの演目になっているようです。

(ちなみに遠野では「めじしぐるい」と書いて「めじしぐれ」と呼ぶことが多いようです。汗)

演目名による三匹獅子舞・シシ踊りの傾向分析も面白いかもしれません。

 

土淵町 似田貝神楽さん

パンフレットに「遠野物語」にでてくる「五日市神楽」が現在の似田貝神楽だと考えられる

と載っていたので、帰ってから確認すると、「遠野物語110話」

新張にある八幡神社の神楽組のゲンゲン様と五日市の神楽組のゴンゲン様が争い、

八幡神社のゴンゲン様は片耳を失った・・・とありました。

 

奇しくも、演目は「八幡舞」

 

山の神舞

演じて間もなく、踊り手に、ちょっとしたハプニング発生で、その後、集中して撮影できず・・・でした。

 

前半最後は、和太鼓集団和會さん

聞きなれない団体だと思う方も多いと思います。

北上市口内にある明神太鼓さんから教わり、2013年に宮守町の若者たちによって結成された団体です。

今年の砥森神社例祭や「躍進みやもり祭」に出演しています。

ここで、とりあず前編の終了ですが、

その間に、遠野ぶれんど郷土芸能班のksuzさんとエントランスホールで販売していたおにぎりを頬張るも、

むせて、ホールに響き渡るように咳き込み・・・

「どごの爺様だべ!」と白い目で見られる前に席に戻りました。笑

 

 

 


2016 青笹しし踊り 踊り納め

2016-11-24 00:58:50 | 郷土芸能

日中の最高気温が3℃以下だったようで、昨日は寒い一日でした。

おかげ様で、くしゃみ・鼻水が・・・

 

勤労感謝の日は、青笹しし踊りさんの踊り納め

(板沢しし踊りさんは今度の日曜日との情報あり)

例年は午前中から動き始めるのですが、今年は午後からでした。

青笹しし踊り縁の踊り嘉兵ヱの墓前に線香をあげ、踊りの披露

 

その後、移動して今年の踊り納めの場所は青笹町中沢にある月山深山宮

この神社の詳細はこちら

 

墓参りの後、真っ直ぐこちらへ来るとお聞きしたのに、待つこと30分

ダウンのベストに皮ジャン、そしてマフラーと準冬仕様で出撃したのに、寒い事この上無し

風と一緒に雪もちらつく午後となりました。

 

御多分に漏れず、この神社も結構な上りなので、太鼓を叩きながらでは、ご覧の表情となります。笑

 

神社に礼を尽くし、

 

恒例によりまして、三周です。

 

画像とは無関係ですが、この日は山形から二人のカメラマンもお出でになっていましたが、

このような処で踊る情報をどうやって得るんでしょう。

 

踊り納めから話題が少しはずれますが、検断勤方記という江戸時代に記された

遠野の検断(町内取り締まりの役)の日記がありますが、その読み下し文の第14には、

六日町にある現在の伊勢両宮神社の神輿巡行祭礼の行列の覚書があります。

そこには、芸能に通じるものとして、大神楽、木馬乗り、神楽と最後の方に鹿踊が出てきます。

この文は天明7年(1787)のもので、お神明さんの例祭そのものを記すということではなく、

五町神輿巡行の始まりが、宝暦4年(1754)とあります。

 

また同文の第16には神明八幡御祭禮江太神楽相勤候事 附り鹿踊之事 には、

上記の例祭には新町と六日町から鹿踊を出すのが古くからの例で、

昔は町方に鹿踊の心得のある者たちがいて興行し、その他に数か所の村方からも希望があり、

最初に願い出たところには、鹿と鹿幕を貸すが、それも古くなった場合には

上様(遠野領主を指すと思われる)から新調して頂いていた。

その後に願い出たところは、其々が用意して寄進踊りをするように・・・とあります。

これらから、遠野のしし踊りの幕やしし頭の中には、遠野領主から借りていた物と

其々が揃えていた物があるということがわかります。

紋の入った幕を拝領したという言伝えの元が、ここにあるのでしょう。

 

ところで最近気になっているのが、剣舞とシシ踊りのこと。

仙台周辺には八幡堂踊大将から、剣舞とシシ踊りを伝授されたという言伝えを持つ郷土芸能が複数あり、

その通りにひとつの団体が両方を演じています。

シシ踊りは、幕踊り系と同じように前幕が大きく、その内側に隠すように太鼓を叩きながら舞い、

剣舞は、県内に残る念仏系の剣舞に似ているように感じます。

その二つを同じ団体が演じるものが、県内では田野畑村の菅窪にありますが、では、他はどうでしょう?

ちなみに、剣舞と呼ばれるものは、仙台周辺から現在の岩手県に集中しています。

 

HP「いわての文化情報大辞典」にある郷土芸能の資料を基に見ると

葛巻町、久慈市は剣舞だけ、大槌町と釜石市はシシ踊りだけという地域もありますが、

その他では、同じ集落ではありませんが、周辺地域に剣舞とシシ踊りが伝承されています。

ちなみに遠野には現在、剣舞はありませんが、元禄の初め頃に気仙で流行っていたものを

上郷の若者たちが習得して始めたが、段々に廃れ、在郷には、シシ踊りだけが残ったとあります。

江刺区では剣舞とシシ踊りがそれぞれ15団体あったのに対し、その隣の北上市では、口内鹿踊だけ、

剣舞は明治・大正期に始まった鬼剣舞という特殊性が見られます。

もしかすると「鬼」と付ける前にも「剣舞」があったのではないでしょうか?

それも無かったとすれば、平地で藩境にまたがる地域性に起因するのか、

それ以前の和賀一揆に何かあるのではと想像してます。

 

ここまで書いて、何が言いたいの?という事になりますが、

遠野にも伝承されていたはずの、剣舞はどこに行ったのだろう?という事で、

ずばり、私は、現在のシシ踊りの太刀ふりと手踊りに変化したのものだと考えています。

 

だから、どうなんだ!ということもありませんが・・・笑

話を踊り納めに戻して、

この日は、ロンドン公演に行った方々の参加が少なかったようですが、話によると夜の納会には出席するはずとのこと。

寒い踊り納めを「ずるしたなあ」と一人思う笛吹です。笑

 

我慢強い人も、やはり、寒いものは寒い!ようで・・・笑

 

遠野三山も雪を頂き、いつ里に積もるのか、そればかりが気になる季節となりました。

 


会津路の旅 後半

2016-11-22 01:04:10 | 民俗

「わげしたず」が何時に布団に入ったのか、わかりませんでしたが、

ぐっすり眠った歳寄り部屋の朝は早いものです。

起きた同室の方々から、開口一番、「いや、いや、夕べは、すげがった~!」

いびきも歯ぎしりも、人に負けたことが無い私への賛辞の言葉です。笑

 

同室の皆さんが朝風呂に行っている間、少しだけ覗いた青空に誘われ、お散歩カメラ

如何にも温泉街といった風情を楽しみました。

朝ご飯は食べない派だという一人を残し、ゆっくり朝食を食べ、チェックアウト

お見送りには、チェックインの時から担当してくれた小林さんたちが手を振ってくれる中、出発

芦ノ牧温泉 大川荘 事前情報以上に従業員の方々のおもてなしの心が伝わる良い宿でした。

 

朝一番、向かった先は、今回の研修でメインとなる大内宿

重要伝統的建造物群保存地区です。

バイパスが通る際、保存と開発で意見が二分し、紆余曲折しながら保存の道を選んだ集落

例え開発の道を選んでも、一時の近代化は謳歌できても、長いスパンでの存続は難しかったのではないでしょうか。

遠野でも良く云われます。「もっと新しい、〇〇があるような町がいい」と。

〇〇とは地方の主要都市には、ありがちな有名チェーン店のようなもの。

新しいものを求めるということは、競争原理の元、常に新しいものを造り続けなければなりません。

よどみ無く、発展し続けることが可能なら、シャッター街なんて生まれることはないのでしょうね!

 

この風景、遠野人なら、珍しくないだろうと云われれば、それまでですが、

シーズンオフ間近の朝早い時間にも関わらず、次々と観光客がやってくるのには驚きです。

帰り際の駐車場を見ると、一日かかっても、こんなに遠野には来ないだろうと思うほど。

 

さて、メインとなる研修場所は、この集落の山中にあるカヤの保管倉庫です。笑

上が建物用で、下は集落の行事で使うもののようです。

ここ大内宿には、相当数のカヤ葺き屋根の建物が残されていますが、

この屋根のメンテナンスを行っているのは、集落の方々。

ちょうど、この日は、カヤの刈り取りの日で、話をお聞きすることが出来ました。

屋根葺き材には、カヤとヨシがあり、大内宿も遠野もカヤが主流

腕や材料が悪いから、すぐ、葺き替えをしなければならないんだ!と陰口をいう人もいますが、

定期的なメンテナンス無しには到底、維持できないことを理解していない言葉です。

大内宿では、刈り取りからカヤ葺きまで住民の手で行われるので、技術に文句をいう人はいないようですが。

ちょっと、辛口になりましたが、ここでも「おもてなしの心」が人を呼ぶということが良くわかる研修となりました。

 

なんだか、笛吹さんらしくない旅だと思う方がいると困るので・・・

大内宿を後にした一行は、前日と同じ会津若松市内へ戻り、定番の飯盛山へ

泡の出ない水を飲んだ「わげしたず」は、200段弱の階段を、

泡の出る水を飲んだ「としょり」は、お金を払ってエスカレーターで・・・笑

 

ガイドさんの説明を受けながら、白虎隊のお墓をお詣り

かつて、勤めていた仙台では、上司の奥さんが会津若松出身で、

伊達藩の男との結婚に反対されたという話を思い出しました。昭和の話です。

幕末の戊辰戦争の傷が深く残っている地域でもあります。

 

 飯盛山で、もうひとつ有名なのは、旧正宗寺 円通三匝堂 「通称 さざえ堂」 国重文

神仏分離令によって廃仏となった建物です。

 

このそばには、宇賀神という神社があり、白虎隊士が祀られていますが、

気になったのが、またまた、家紋 笑

左は、会津藩松平氏の会津三葵紋、右は竪三引両紋

この竪三引両紋は、さざえ堂の屋根にもありましたが、ガイドの方もわからないようで、

帰って来てから調べると、飯盛山の持ち主 飯盛家の家紋のようです。

飯盛家は、白虎隊士の亡骸を埋葬し、後に墓守を託された家でもあるようです。

 

見学最後は、さざえ堂下を流れる水路

猪苗代湖の水を会津若松まで引くために作られた隧道です。

白虎隊は、この隧道を通って若松へ入り、この飯盛山から見えた燃え盛る武家屋敷を城炎上と勘違いして

自刃するに至り、白虎隊の悲劇として現在に語り継がれることになります。

 今回の会津の旅、幕末の歴史を振り返り、おもてなしの心を感じ、郷土芸能にも少しだけ触れるものとなりました。笑

 

 

 

 

 


会津路の旅

2016-11-21 11:29:08 | 歴史

先週末は、本業でお世話になっている某職能団体の研修旅行で、県外へ。

 

予報通りの雨、何度もトイレ休憩をしながら向かったのは福島県会津若松市

 

 

 三度目の会津ですが、人の記憶というものは曖昧なものです。

それもそのはずで、最初が36年前、前回が28年前、参加した若者たちが生まれる前のことです。笑

 

ここ会津藩校、日新館も前回訪れた当時は新しい建物でしたが、

今では、江戸時代から建っているような錯覚さえします。

会津若松の歴史をざっとおさらいすると、江戸時代以前は葦名氏の領地として東北最大の都市であり、

伊達政宗より葦名氏が滅ぼされると、秀吉の命により蒲生氏郷が入部、上杉景勝らを経て

その後、徳川二代秀忠の子、保科氏が治め、会津藩として幕末をむかえます。

外様大名の力を利用して、東北の要として普代が治める地域ということになります。

 

次の場所は、少し離れたこちら

喜多方も前回訪問時とは、かなり変わった印象。

遠野もそうですが、2、30年前と比べて同じだったら、それこそびっくりです。

天気が良かったら、町中ではなく、新宮熊野の長床という処に、一人でタクシーで行く予定でしたが、

 

無理せず、皆さんに従い、名物を・・・

同行した最長老が28年前に一緒に食べた店を覚えていたので、今朝確認したところ

老舗のまこと食堂さんでした。が、今回は、別な店。

これまで食べた醤油味のものではなく、醤油味に背あぶらと玉ねぎのみじんぎりプラスのものでしたが、

かなりこってりに見えますが、それほどでもなく、今まででは、一番おいしいと思いました。笑

喜多方も蔵の町から、ラーメンの町といったイメージが強くなっていますが、

これも滞在時間を長くとってほしいということから出来た発想だったと記憶してます。

記憶と云えば、36年前と28年前に来たと始めに記しましたが、もう一回、来ているような・・・

間違いなく、別な店でラーメンを食べていますが、それがいつだったか記憶がありません。笑

 

喜多方ラーメンを食べるだけに立ち寄った喜多方(二軒はしごした強者も)を後にし、また、会津若松市内へ戻ります。

会津武家屋敷・・・会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に再建された建物群

(職業上、建物に興味のない人もおりましたが、)

西郷頼母は戊辰戦争で名の知られる人物ですが、西郷家は、九州の西郷隆盛と同系の菊池一族の末裔です。

家紋は鷹の羽と並び九曜紋ですが、

屋敷には九曜紋の幕があり、並び九曜紋の他に一般的な九曜も使っていたのかもしれません。

伊達氏、南部氏をはじめ、九曜紋は多くの武家が使用する家紋ですが、

伊達氏の九曜紋は、細川忠興に所望して譲り受けたものだという話があります。

星を図案化したものが基本で、妙見信仰とも結びつき、供養にもつながる家紋です。

 

紅葉は終盤でしたが、まだ、残っている紅や黄色が雨に濡れ、深みを増して、なかなかいい感じです。

 

会津くらしの展示館にあった彼岸獅子

新政府軍に包囲された鶴ヶ城に援軍として入場したのがこの獅子

福島県は、関東同様に、この三匹獅子舞系の郷土芸能が多く残っている地域でもあり、

明確に伊達藩北部と南部藩の中・南部地域のものとは異なります。

(ここまで来ても、まだ、郷土芸能から離れられない笛吹です 笑)

 

説明して頂きながら、武家屋敷を見学している間に、暗くなってきました。

車窓から鶴ヶ城を遠くに見ながら、ひと眠りすると宿に到着。

ロビーでは三味線の生演奏の出迎えがあり、ひとっ風呂浴びて、

 

夕食です 笑

お酒の入った宴席では、あまり食べずに終わるのですが、今回は量も質もほど良く、完食でした!

 

「わげしたず(若い人たち)」の希望で、館内での二次会へ 笑

代行の心配もないので、がっちり!といきたいところですが、参加者の上から二番目のとしょり(歳寄り)、

ほど良い時間にお暇し、ゆっくり温泉に浸って、眠りましたとさ! どんどはれ