上郷町に2か所あるお寺さんのうちのひとつ曹洞宗滴水山曹源寺。
境内にある石碑にある由緒をみると次のように記されている。
当寺は天正2年(1574)遠野統治の阿曽沼広長の臣板沢平蔵(泰之進)の開基と伝えられ、土渕町常堅寺三世雪翁恕積和尚(慶長10年)(1605示寂)の開山である。創建時、板沢舘のあった山峡の一角に建立され、山の処所から清水が湧出するので、山号を滴水山と称している。
沿革に二世和尚(元和9年)(1623示寂)と三世和尚入寺(天和3年)(1683)までの60年間に阿曽沼氏と一族鱒沢左馬助の抗争、主家没落と世相混乱の時期に無住空白の時代があり、後世狢堂の物語(遠野物語拾遺187話)が生まれた由緒となっている。
安永、宝暦の時代、二度にわたり野火のために堂宇焼失、八世代(文化年間)山腹より現在地に伽藍復興、四百有余年の法灯を継承している。
平成2年(1990)秋彼岸 滴水山
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よく知られている天正20年(1592)の「南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事」には、板沢 山城破脚 淺沼藤次郎持分として掲載されており、曹源寺開山からわずか18年で、開基大檀那である菊池平蔵こと板沢氏が滅ぶ。
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板沢は猫川と早瀬川との間に開けた地域で、板沢しし踊りの重鎮の方々が住む。地元以外の人たちには、平倉と板沢の境がわかりにくく、平倉神楽の里にあるのが曹源寺だと思っているのは私だけではないだろう。(たぶん?)
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本日の本題は建物。
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前回の花巻安野稲荷神社で紹介した南館喜六が曹源寺本堂の棟梁でもある。
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以前に訪問した際に、本堂再建に関する資料をご住職さまより拝見させて頂いており、その資料に大正5年、大工棟梁稗貫郡里川口、南館喜六とあった。そして、今回、前回見られなかった当時の棟札を確認。
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明治30年、現在の本堂再建の棟札
上の札は、おそらく上棟時のものなのだろう。前回確認した大正5年の資料には内部の造作として、欄間・襖・障子・須弥壇・前机・位牌堂造作に対する大工の人工と賃金が記されており、また、別の資料には大正6年12月26日南館喜六の代理及川伊勢松に、欄間等の見積もりをさせたとある。
明治30年前後から工事が始まり、完成までかなりの年月を要していることがわかる。全体工事費の概算をつかみながら、尚且つ、進捗状況にあわせて、翌年に必要となる材料や資金調達を世話役の方々と相談しながら進められたのだろう。
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保管されている他の棟札は、古い順に
寛保2年(1745)棟梁細越善七(本堂再興?)2枚同一の札あり
天明8年(1788)棟梁平野原清助、平倉重蔵(本堂再興?)
天保2年(1831)白山妙理大権現 再興六角牛大権現
寛保と明治の棟札にある細越氏は遠野大工に名前が残る細越氏だと思われる。(明治33年の士族名簿には、①細越忠治、徳治、②細越忠兵衛、重吉の二家が見えるが札の名前と一致しないが縁者か?)
この細越氏、上郷のお寺の工事に携わるからには、上郷町細越と何か関係があるのではないかと、またもや想像。少なくとも、八戸の細越ではないと。
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境内にある白山大権現
神仏分離令以前の寺院には、境内に仏教としての本堂と神社が一緒に祀られていたようだが、遠野の曹洞宗では、白山大権現や早地峰大権現が多かったようだ。御領分社堂には、曹源寺ぶんとして「早地峰大権現 一尺二寸四面板ふき 由緒・年代共ニ不相知」とある。
曹洞宗と白山神社については永平寺でもわかるように深いつながりがあったことは理解できるが、ここで?と思ったのが、宝暦13年(1763)には早地峰大権現であったものが、天保2年には六角牛大権現に変わっていることである。理由はわからない。
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高橋勘次郎を師匠とする南館喜六と福泉寺で御馴染みの小原樗山。
獅子を見ると二人の違いがよくわかる。
曹源寺の壇家として上郷は勿論のこと、棟札には青笹町中沢の方々が多く見られる。青笹には同じ曹洞宗喜清院があるが、天正17年(1589)の開基となり、曹源寺の後になる。では、中沢以外の青笹の方々はそれまで、どこの壇家となっていたのだろう?町に移動した禅応寺だったのか?また、阿曽沼以後、南部氏までの興廃した時代に仏持ちの家がその役割を担ったと遠野古事記にあるような状況だったのだろうか?
その中沢のこと
皆さん御馴染みの中村の荒神さまについて以前ふれたが、その中の常堅寺の和尚様について。
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中沢から常堅寺の和尚様になられたのが拈笑和尚と記したが、今回お見せ頂いた資料と手持ちの資料をあらためて確認すると
報恩寺末寺諸留には 曹源寺ぶんとして
笑山 三十 天保5年(1834)閉伊郡土渕村常堅寺へ移転
とあり、曹源寺ご住職調べとして、中沢建前産也とある。
また、常堅寺ぶんには、
天保14年閏9月病死 笑山 三十六
先住拈笑隠居仕同郡板沢村曹源寺住右僧天保5年12月入院
とあり、中村出身の「拈笑」が常堅寺の住職となったとされていたのは、建前出身の「笑山」と訂正される。しかし、荒神さまの家に語り継がれてきたことを考えると、かつてこの家と建前とは何らかの姻戚関係でもあったのかもしれない。
棟札ひとつから様々な人間模様と歴史が垣間見える今回であったが、突然の訪問に快く応対して頂いた曹源寺のご住職と副住職さまには感謝申し上げる次第です。