「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

小原樗山 光林寺

2009-12-30 15:02:57 | 寺院

今年最後は、小原樗山

 

花巻市石鳥谷町

 

 

二度目の訪問

 

なかなかの由緒である

 

門構え

 

本堂正面

 

入母屋に唐破風の屋根

 

そして、お馴染みの柱の模様と獅子

 

左の獅子

 

得意とした龍

 

時宗の鐘

 

寺院持ち神社としての熊野さん

 

 この他にも江戸時代には、松島明神・若宮八幡・弁財天堂・稲荷明神・月山権現・山王権現・貴船明神・地蔵十王堂・御子守観音堂と沢山の神社が祀られていたことが、御領分社堂には記されている。

 

写真を撮っている時に何かの気配に驚くと、一遍上人の像だった

 

境内の巨木。塀の柱間隔が約1.8mであることを考えると何ともすごい。

 

小原樗山を知らなければ決して訪れることはなかったであろう

お寺さんを紹介して今年の閉めとさせて頂く。

 

それでは良いお年を!


2009中学校地区冬休み行事

2009-12-27 15:34:36 | 地域

12月最終日曜日、私の住む地域の中学生冬休み行事を行なう。

 

奉仕活動としての自治会館清掃

 

中だけでなく、外の窓もきれいに

 

子供達はサボるのかと思いきや、それぞれが気が付いた場所の掃除を一生懸命行なう姿に、少しは大人になったと感じる

 

地区の重鎮の方は、新しい年を迎える準備

 

掃除の後は、場所を移動

中学生が建物に入るなり、「狭い!こんなに狭かったかなあ~?」

来春で解体される小学校の体育館

 

地区の多くの子供達は、この小学校の卒業生

最後の思い出に親も一緒に軽く?スポーツ

 

 

私もここの卒業生

 

 遠野東小学校に入学、遠野(西)小学校と合併、そして新設された遠野北小学校の卒業という歩みとなるが、この校舎が工事中ということで、実際に学んだことはない。(意識としては、現遠野小学校の卒業生)

 しかし、上の子がお世話になり、下の子ももうすぐ卒業ということで、PTAとして沢山の思い出が残る。

 

 

 今の六年生には新しい建物で卒業させたいと工事を進めているようだが、卒業する者には、古くても慣れ親しんだ場所のほうが、思い出深い式となるのではと経験上思うのだが。

 

 

お昼は、またまた、場所を移動し、ジンギスカン

 

卒業を控えた三年生には、地区PTAから記念品が贈られ、

子供達から今後の抱負を語ってもらう。

また、食事中のPTAの席からは、地域活動とPTAの役割について

本音も聞かれ、穏やかな半日となった。

 

 


大迫銭座

2009-12-23 16:30:09 | 歴史

 とある日のこと。大迫町外川目の八木巻神楽の舞い納めを見ようと出かけたのだが、時間も場所も確認していなかったため、願い叶わず。

 しかし、今まで足を踏み入れたこともない地域へ行けたことと、道沿いにあった様々な物にお目にかかれ、それはそれで満足。

 

道沿いにあったもの

 

隣り町とはいえ、知らなかった・・・・・

 

国道396号線を盛岡方面に向い、宮守町達曽部の北西にある集落

 

絵地図と現地を見比べても建物の配置具合がよくわからない

 

ただ、この山神が地図にある山の神と同一のものだろうと想像する

 

この銭座、遠野と無関係とはいえない

 

【遠野物語拾遺第236話】

 青笹村字中沢の瀬内という処に、兄弟七人ばかりの家があった。そのうちに他国に出歩いて終わりの知れない者が三人ある。総領も江戸のあたりを流れ歩いていたが、後に帰って来て佐比内の赤沢山で、大迫銭の贋金を吹いて、一夜のうちに富裕になったという話が残っている。

 この大迫銭の本物?が上の場所で造られていたということになる。

 

 

今日の遠野・・・・・市内を巡回したが、どこにも贋金造りに勤しむ者なし


2009 師走半ば

2009-12-19 18:13:16 | 景色

「さごみの木」を見つけに、附馬牛まで

 

 

松崎の山々は白髪交じりの風景

 

 

寒い中雪かきにいそしむ「さごみの木」・・・・さん・・・・発見!

 

お父様が亡くなられ、お母様一人、健康上の問題も重なり、戻ってこられたとのこと。

週末には、また東京へ行き最後の後始末をしてくるとか。

 落ち着いた春以降に遠野ブレンドデビューかな?

 

 

天気が良いのに風が強く、本当の冬を実感中

 

 

こんなに寒いのに水遊びに興じる方々

 

 

鳥インフルエンザ騒動以来、どこに白鳥がいるのか読みにくい。

 

きっと、彼らも「住みにくい世の中になったなあ~」と思っているのだろう。

 

 

笛吹版定点観察地域・・・・すっかり冬山

 

 

いつものお堂

 

 

タオルの「ほっ被り」と軍手そして黒い長靴・・・・冬の正式な服装

 

忘れかけていた冬らしい冬に覚悟が必要かもしれない。


棟札からみえる歴史

2009-12-17 19:17:29 | 寺院

 上郷町に2か所あるお寺さんのうちのひとつ曹洞宗滴水山曹源寺。

境内にある石碑にある由緒をみると次のように記されている。

 

 当寺は天正2年(1574)遠野統治の阿曽沼広長の臣板沢平蔵(泰之進)の開基と伝えられ、土渕町常堅寺三世雪翁恕積和尚(慶長10年)(1605示寂)の開山である。創建時、板沢舘のあった山峡の一角に建立され、山の処所から清水が湧出するので、山号を滴水山と称している。

 沿革に二世和尚(元和9年)(1623示寂)と三世和尚入寺(天和3年)(1683)までの60年間に阿曽沼氏と一族鱒沢左馬助の抗争、主家没落と世相混乱の時期に無住空白の時代があり、後世狢堂の物語(遠野物語拾遺187話)が生まれた由緒となっている。

 安永、宝暦の時代、二度にわたり野火のために堂宇焼失、八世代(文化年間)山腹より現在地に伽藍復興、四百有余年の法灯を継承している。

  平成2年(1990)秋彼岸 滴水山

 

 

 

 よく知られている天正20年(1592)の「南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事」には、板沢 山城破脚  淺沼藤次郎持分として掲載されており、曹源寺開山からわずか18年で、開基大檀那である菊池平蔵こと板沢氏が滅ぶ。

 

 

板沢は猫川と早瀬川との間に開けた地域で、板沢しし踊りの重鎮の方々が住む。地元以外の人たちには、平倉と板沢の境がわかりにくく、平倉神楽の里にあるのが曹源寺だと思っているのは私だけではないだろう。(たぶん?)

 

 

本日の本題は建物。

 

前回の花巻安野稲荷神社で紹介した南館喜六が曹源寺本堂の棟梁でもある。

 

 

 以前に訪問した際に、本堂再建に関する資料をご住職さまより拝見させて頂いており、その資料に大正5年、大工棟梁稗貫郡里川口、南館喜六とあった。そして、今回、前回見られなかった当時の棟札を確認。

 

明治30年、現在の本堂再建の棟札

 

 上の札は、おそらく上棟時のものなのだろう。前回確認した大正5年の資料には内部の造作として、欄間・襖・障子・須弥壇・前机・位牌堂造作に対する大工の人工と賃金が記されており、また、別の資料には大正6年12月26日南館喜六の代理及川伊勢松に、欄間等の見積もりをさせたとある。

 明治30年前後から工事が始まり、完成までかなりの年月を要していることがわかる。全体工事費の概算をつかみながら、尚且つ、進捗状況にあわせて、翌年に必要となる材料や資金調達を世話役の方々と相談しながら進められたのだろう。

 

 保管されている他の棟札は、古い順に

 寛保2年(1745)棟梁細越善七(本堂再興?)2枚同一の札あり

 天明8年(1788)棟梁平野原清助、平倉重蔵(本堂再興?)

 天保2年(1831)白山妙理大権現 再興六角牛大権現

 

 寛保と明治の棟札にある細越氏は遠野大工に名前が残る細越氏だと思われる。(明治33年の士族名簿には、①細越忠治、徳治、②細越忠兵衛、重吉の二家が見えるが札の名前と一致しないが縁者か?)

 この細越氏、上郷のお寺の工事に携わるからには、上郷町細越と何か関係があるのではないかと、またもや想像。少なくとも、八戸の細越ではないと。

 

境内にある白山大権現

 

 神仏分離令以前の寺院には、境内に仏教としての本堂と神社が一緒に祀られていたようだが、遠野の曹洞宗では、白山大権現や早地峰大権現が多かったようだ。御領分社堂には、曹源寺ぶんとして「早地峰大権現 一尺二寸四面板ふき 由緒・年代共ニ不相知」とある。

 曹洞宗と白山神社については永平寺でもわかるように深いつながりがあったことは理解できるが、ここで?と思ったのが、宝暦13年(1763)には早地峰大権現であったものが、天保2年には六角牛大権現に変わっていることである。理由はわからない。

 

高橋勘次郎を師匠とする南館喜六と福泉寺で御馴染みの小原樗山。

獅子を見ると二人の違いがよくわかる。

 

 

 曹源寺の壇家として上郷は勿論のこと、棟札には青笹町中沢の方々が多く見られる。青笹には同じ曹洞宗喜清院があるが、天正17年(1589)の開基となり、曹源寺の後になる。では、中沢以外の青笹の方々はそれまで、どこの壇家となっていたのだろう?町に移動した禅応寺だったのか?また、阿曽沼以後、南部氏までの興廃した時代に仏持ちの家がその役割を担ったと遠野古事記にあるような状況だったのだろうか?

 その中沢のこと

 

皆さん御馴染みの中村の荒神さまについて以前ふれたが、その中の常堅寺の和尚様について。

 

 

 中沢から常堅寺の和尚様になられたのが拈笑和尚と記したが、今回お見せ頂いた資料と手持ちの資料をあらためて確認すると

 報恩寺末寺諸留には 曹源寺ぶんとして

 笑山 三十 天保5年(1834)閉伊郡土渕村常堅寺へ移転

 とあり、曹源寺ご住職調べとして、中沢建前産也とある。

 また、常堅寺ぶんには、

 天保14年閏9月病死 笑山 三十六

 先住拈笑隠居仕同郡板沢村曹源寺住右僧天保5年12月入院

 

 とあり、中村出身の「拈笑」が常堅寺の住職となったとされていたのは、建前出身の「笑山」と訂正される。しかし、荒神さまの家に語り継がれてきたことを考えると、かつてこの家と建前とは何らかの姻戚関係でもあったのかもしれない。

 

 棟札ひとつから様々な人間模様と歴史が垣間見える今回であったが、突然の訪問に快く応対して頂いた曹源寺のご住職と副住職さまには感謝申し上げる次第です。