●砥森神社●
宮守町下宮守、法華寺の東南奥。往昔、征夷の進軍がこの地方に及んだ折、神社の山頂(砥森山)に祠を建て明神を祀ったのが始まりと云う。砥森山頂には、源義家が奉納したと云われる5.5mの宝剣があり、東和町田瀬、宮守町柏木平、下郷とここ下宮守に礼拝所があったとされ、現在、田瀬とここ下宮守に砥森神社がある。この関係は、早池峰山と各登り口の神社と同様である。
私がいつも参考としている「修験者霞職の史的研究」の資料編を覘くと(以前から気にはしていたが)砥森神社の名前は見つからない。江戸時代に藩に提出している各地域の社寺のほとんどが掲載されているにも関わらずである。、昭和初期までは、村社としての格付けがある神社でもあるのに。考えられることは、修験者の祈祷所としての位置づけだったのではないかということ。下宮守には、本山派の千手院と羽黒派の常学院、常楽院、浄福院、菊本坊などの修験者がいた事がわかるが、いずれのものであったのか、又は、それ以外のものであったのか現在のところ不明である。
9月29日が例祭日。所用にて宮守の方と連絡をとるとお祭のため、3時過ぎに来てほしいとのこと。砥森神社の例大祭だとピンときて、早めに出発。すでに、神社からお神輿が出た後。
坂道を腰を曲げたおじいさんがやってくる。もしや、すでに終わったか?
米内光政の筆による掲額を振り返りつつ、旧町内へと向う。
道の駅宮守からJAのある通りへと向うと交通規制となっており、西側からJR宮守駅方面へ行くと、やっていました。(なぜか、祭りの半纏を見ると心が弾む。)
この日、お神輿は、このお宅泊まりになる由。神輿は、このお宅と通りの上の方にあるお宅とを一年おきに泊まられるとのこと。
宮守町下宮守、法華寺の東南奥。往昔、征夷の進軍がこの地方に及んだ折、神社の山頂(砥森山)に祠を建て明神を祀ったのが始まりと云う。砥森山頂には、源義家が奉納したと云われる5.5mの宝剣があり、東和町田瀬、宮守町柏木平、下郷とここ下宮守に礼拝所があったとされ、現在、田瀬とここ下宮守に砥森神社がある。この関係は、早池峰山と各登り口の神社と同様である。
私がいつも参考としている「修験者霞職の史的研究」の資料編を覘くと(以前から気にはしていたが)砥森神社の名前は見つからない。江戸時代に藩に提出している各地域の社寺のほとんどが掲載されているにも関わらずである。、昭和初期までは、村社としての格付けがある神社でもあるのに。考えられることは、修験者の祈祷所としての位置づけだったのではないかということ。下宮守には、本山派の千手院と羽黒派の常学院、常楽院、浄福院、菊本坊などの修験者がいた事がわかるが、いずれのものであったのか、又は、それ以外のものであったのか現在のところ不明である。
9月29日が例祭日。所用にて宮守の方と連絡をとるとお祭のため、3時過ぎに来てほしいとのこと。砥森神社の例大祭だとピンときて、早めに出発。すでに、神社からお神輿が出た後。
坂道を腰を曲げたおじいさんがやってくる。もしや、すでに終わったか?
米内光政の筆による掲額を振り返りつつ、旧町内へと向う。
道の駅宮守からJAのある通りへと向うと交通規制となっており、西側からJR宮守駅方面へ行くと、やっていました。(なぜか、祭りの半纏を見ると心が弾む。)
この日、お神輿は、このお宅泊まりになる由。神輿は、このお宅と通りの上の方にあるお宅とを一年おきに泊まられるとのこと。