「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

2009 砥森神社例大祭 其の参

2009-09-30 23:13:40 | 郷土芸能

 粗町南部ばやしの一行から別れ、町内のメインストリートを歩き出すと、音が

 

鹿込神楽の門付けに出会う

 

とても、なつかしさを感じる

 

祭りの行列から離れて、こうして門付けを行う風景は、子供の頃の遠野の祭りそのもの

 

夜遅くまで遠くから笛や太鼓の音が聞こえていた・・・・

 

通りの中間辺りに並ぶ出店

 

この数をみると二日間とも、夜は賑わうのだろう

 

そして

 

通りの奥からは

 

下郷さんさの軽快な音が聞こえる

 

一本道を踊り歩く

 

遠野のまつりにも参加するようになって知名度急上昇

元気のもらえる踊りと歌

 

遠野市内には現在土渕町の山口さんさが残るのみ

上郷町平野原、青笹町中沢、綾織町砂子沢、宮守町上宮守・達曽部にもあったようだ

 

現在は宮守中学校でも踊られているとか

 

半袖でもいいくらい良い天気に恵まれた遠野郷9月最後の祭りであった


2009 砥森神社例大祭 其の弐

2009-09-29 23:52:13 | 郷土芸能

神事が終わると、例年どおり?の場所へ門付け

 

昨年、粗町南部ばやしで揃えたという明笛

この笛、私の持っている物と同じ

 

黄金色の風景を歩く

 

mm1の中を踊りながら進む。

 

宮守の道の駅にて昼食となる。国道の向かいでは、馳掛けに精を出す農夫ひとり

 

この間に神楽やさんさの一行を見たいと思い、町内を走るが姿は見えず。

おそらく、それぞれ、毎年所定の場所で同じように昼食をとっているのだろう。

午後の最初はmm1向かいのコンビニ、そして

消防署・・・・この日は、あの方はいないようだった

 

前日寄った宮守支所を通過し、誰もいない宮守ホール駐車場

なぜ、ここで舞うのかと思えば、隣にある公営住宅の方々へお見せするためだと後で気づく。

 

この間、南部ばやしの演目で云うところの「通り踊り」だけを行う。

 

次の場所へ移動している最中は、「帰り」がスピーカーから流れる。

ここ宮守の南部ばやしには「帰り」が消えていたことを思い出す。わずかに一人の笛吹さんが知っているだけだという。大正時代に遠野仲町から伝えられ、一時途絶え、遠野の尺八の師匠だったという菅田氏から再び曲の指導を受けて復活したという。

 

この辺りから、私の素性を知っている笛吹さんが、笛を渡してくれ、微妙に違う曲に音を探りながら、一緒に吹く。

 

吹きながら歩くと先週のまつりの続きをやっているような錯覚におちいる。

 

それにしてもよく歩く。

 

わずかな休憩

 

老人ホームにて

「通り」と「うさぎ」が披露される。「うさぎ」は踊り自体が、かなり簡略化されているように見える。

 

以前にも何度かふれているが、綾織・小友・宮守には演目としての「うさぎ」が残っているが、遠野では、消えている。

というのも、遠野の場合、正式な踊りとして認められていないようで、あくまで、余興芸としての位置づけ

しかし、その余興も今知っている方々が伝えておかないと永遠に復活できないだろう。

 

2時間歩いた子供たちが、やっと、休憩

 

まだ、まだ、続くようであったが、タイムオーバーとなり、この場を後にする。

参加させて頂いた粗町南部ばやしの皆さんに感謝。


2009 砥森神社例大祭 其の壱

2009-09-28 22:54:01 | 郷土芸能

 今年は松崎元八幡神社例祭と重なり、二日目から参上。この神社の情報はこちら。出向くと既に御神輿が戻されている。

 

 いつもと違う雰囲気。ゴンゲンさまに確認すると参加する子供たちの行事等の都合とのこと。しかし、三々五々集まってくる人たちの話を総合すると、例年の二日目と同じような行程で門付けをして歩くと聞き、一安心。

 境内を散策していると側にある寄梨踏切からカマー通過の音が聞こえ、TVでやっているローカル線をデジる番組よろしく、真似してみる。

 

 

私の次にやってきたこの子の手には明笛。南部ばやしに参加する笛の新人。

 

やっと祭りらしくなる

 

鹿込神楽の奉納

 

この日は女性中心

 

そして、神事

 

中学生の御輿

 

粡町南部ばやし

 

下郷さんさ踊り

 

 

それぞれ、神事が終わると、例年のように門付けへ。

 

神楽もさんさも車での移動で、南部ばやしは徒歩とのことから、一緒に歩くこととなる。

 

(この日、練習のつもりでKsuzuさんから譲られた単○○を初めて使う。)

 

つづく


2009 松崎元八幡神社例祭

2009-09-27 23:38:06 | 八幡

 後鳥羽天皇文治年中源頼朝阿曽沼廣綱ニ遠野郷ヲ賜ヒ建保年中其次子親綱移リテ薬師城ニ居リシ時勧請シテ城ノ東北ナル宮代山ニ鎮座シ奉リ其後南部利直ノ所領ニ属シ南部直栄(遠野)陸奥ノ八戸ヨリ転封セラレ領内巡検ノ際社領拾石ヲ奉納シ氏神ト定メ崇敬最モ深厚ナリシガ・・・・・と遠野郷八幡宮の由緒の一つに記されるとおり、この地を治めてきた歴代の領主によって信仰されてきた神社である。

 

26日(土)例祭

 

お昼少し前、神事

 

八幡神楽による岩戸開き

 

鶏舞い・権現舞い そして ・・・

 

北小薬研太鼓の子供たち・・・出番を前に

 

私もPTAとしての立場では最後

 

北小出身者もいる遠中吹奏楽部の演奏

遠野ブンレンド写真班のひとりもこのクラブのOBとのこと

 

そして、フラガールズ!

 

地元、横田田植え踊りの重鎮

 

今年もこの運営は東洋大学の学生さんが頑張っていた。感謝です!

 

さて、次回は

こちら


2009 六神石神社例大祭

2009-09-24 17:21:40 | 郷土芸能

今年一度も観ていない青笹しし踊りを拝見しに六神石神社例大祭へ

 

小雨模様の中、御神輿の後を

 

地元中沢の若者たちの他、市内県外の有志も参加

 

ここには、六角牛山に縁ある地域のしし踊りが奉納される

 

●細越獅子踊り●

 板沢しし踊りの分家である火尻しし踊り(現在中断)から習い、

昭和8年より始まる。

●板沢しし踊り●

 伝襲古文書には弘化3年(1846)南部公の屋敷で踊ったことが記されている。

また、明治には菊池田五助が駒木鹿子踊りを習い、若者たちに広めたとも云われる。

 

●佐比内鹿踊り●

南部公の城屋敷で踊ったとの口伝があることから古くからあったと考えられている。明治20年駒木鹿子踊りから改めて伝授され、

明治28年に本家である駒木から違鎌のたてもの(しし頭の飾り)を貰い受ける。

 また、同じ上郷町の暮坪では大正時代までは佐比内鹿踊りの一員であったが、

昭和2年分派し、現在は、元の佐比内鹿踊りに統一した形となる。

 

 

●青笹しし踊り●

 糠前しし踊り、中沢しし踊り、中下しし踊りの三団体が昭和40年に統合され、青笹しし踊りとなる。

 寛政3年(1791)新田市良右エ門とその門弟佐々木治良八、七良、伝八らによって、遠野の諸村に伝えられたという巻物があったと云われる。

また、享保15年(1730)に亡くなった踊り嘉兵エは糠前しし踊りの基礎を築いたとされる。国指定無形民俗文化財

以上「遠野郷青笹しし踊り」より

 

 

 遠野旧事記には、鹿踊りは昔から遠野に有ったものではなく、何十年前かは知らないが、駒木村海上の角助が熊野参詣に行った時に京都の辻で踊っていたものを習い覚えて、駒木で踊られるようになり、やがて他村でも踊られるようになったと記されている。

 

 また、同書には、剣舞踊りは、元禄のはじめ頃、気仙で流行っていたものを細越村、佐比内村の若者が習って踊り始めたものとも記される。

 

  上郷系しし踊りには、駒木しし踊りをルーツとする伝承がありながら、ここ六神石神社に奉納されるしし踊りはテンポが似ており、

ここでの交流によって変化してきているのではないかと感じる。

 

 一方、早池峯系や土淵、元祖駒木はゆったりしたテンポが特徴で、大きな所作で踊ることが必要とされ、ある意味では難しい踊りである。

八幡宮例大祭を除いては同じ場所で踊ることはなかったであろう。

  この日も、しし12人一組とされる遠野のしし踊りであるが、それを観ることは適わなかった。

雨が強くなったお昼過ぎ、神社を後にする。

中村のお堂も今日明日を過ぎると稲刈りとなる。

変わらず、続けられる祭りに感謝。

 

そして

 

拙ブログ「遠野」なんだり・かんだりも三周年となりました。

「まがって」見て頂いている皆様に感謝申し上げます。