今年一度も観ていない青笹しし踊りを拝見しに六神石神社例大祭へ
小雨模様の中、御神輿の後を
地元中沢の若者たちの他、市内県外の有志も参加
ここには、六角牛山に縁ある地域のしし踊りが奉納される
●細越獅子踊り●
板沢しし踊りの分家である火尻しし踊り(現在中断)から習い、
昭和8年より始まる。
●板沢しし踊り●
伝襲古文書には弘化3年(1846)南部公の屋敷で踊ったことが記されている。
また、明治には菊池田五助が駒木鹿子踊りを習い、若者たちに広めたとも云われる。
●佐比内鹿踊り●
南部公の城屋敷で踊ったとの口伝があることから古くからあったと考えられている。明治20年駒木鹿子踊りから改めて伝授され、
明治28年に本家である駒木から違鎌のたてもの(しし頭の飾り)を貰い受ける。
また、同じ上郷町の暮坪では大正時代までは佐比内鹿踊りの一員であったが、
昭和2年分派し、現在は、元の佐比内鹿踊りに統一した形となる。
●青笹しし踊り●
糠前しし踊り、中沢しし踊り、中下しし踊りの三団体が昭和40年に統合され、青笹しし踊りとなる。
寛政3年(1791)新田市良右エ門とその門弟佐々木治良八、七良、伝八らによって、遠野の諸村に伝えられたという巻物があったと云われる。
また、享保15年(1730)に亡くなった踊り嘉兵エは糠前しし踊りの基礎を築いたとされる。国指定無形民俗文化財
以上「遠野郷青笹しし踊り」より
遠野旧事記には、鹿踊りは昔から遠野に有ったものではなく、何十年前かは知らないが、駒木村海上の角助が熊野参詣に行った時に京都の辻で踊っていたものを習い覚えて、駒木で踊られるようになり、やがて他村でも踊られるようになったと記されている。
また、同書には、剣舞踊りは、元禄のはじめ頃、気仙で流行っていたものを細越村、佐比内村の若者が習って踊り始めたものとも記される。
上郷系しし踊りには、駒木しし踊りをルーツとする伝承がありながら、ここ六神石神社に奉納されるしし踊りはテンポが似ており、
ここでの交流によって変化してきているのではないかと感じる。
一方、早池峯系や土淵、元祖駒木はゆったりしたテンポが特徴で、大きな所作で踊ることが必要とされ、ある意味では難しい踊りである。
八幡宮例大祭を除いては同じ場所で踊ることはなかったであろう。
この日も、しし12人一組とされる遠野のしし踊りであるが、それを観ることは適わなかった。
雨が強くなったお昼過ぎ、神社を後にする。
中村のお堂も今日明日を過ぎると稲刈りとなる。
変わらず、続けられる祭りに感謝。
そして
拙ブログ「遠野」なんだり・かんだりも三周年となりました。
「まがって」見て頂いている皆様に感謝申し上げます。