江戸時代の遠野には、三ヶ寺として称される妙泉寺、東善寺、善応寺があったのはご存知のことと思うのだが、これらに続いて、よく登場するのは「成就院」である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e5/1d808df6671fac5a3f5ccb0bb6e86824.jpg)
明治初年の地図では、鍋倉山の西側、現多賀神社の隣りとなっている。
●自証山成就院世代由緒書上●
真言宗南部閉伊郡遠野自在山東善寺末寺自証山成就院世代由緒書上
一 当寺領 高弐拾石 八戸家中新田小十郎先祖数代寄附也
当寺之開基由緒旧記等 八戸在院之比焼亡故 世代由緒不知
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6e/952d457c225858d0b77d984ee7a985e5.jpg)
(多賀神社に向って右側山中に在った由)
一 中興 空雅 承応三年(1654)四月朔日寂
新田義実寄附寺領即弐拾石
南部氏が八戸から遠野へ来たのが寛永4年(1627)であることから、遠野へ来た成就院初代となる。
また、新田義実は、遠野南部氏初代直義公の弟であり、実質的には遠野領の主でもある。
一 二世 快秀 俗姓金浜何某 明暦丙申年七月 同所東善寺江渉住ス
金浜一族の出身。金浜氏は八戸時代には80石持であったが、遠野へは村替えと同時に来たのでは
なく、少し遅れて来たのではないかと思われる。寛永11年以降に取立てられ、横田、来内廻りに20
石を給す。後に東善寺住職となる。
一 三世 快養 元禄五(1692)甲申天七月廿日寂ス
一 四世 宥真 元禄五申ノ十二月十二日 自花巻白山寺移住当寺 十一年移院 同所善応寺江出所
花巻松田氏何某
三世快養の出自は不明だが、四世は、花巻白山寺から成就院に移り、元禄11年に善応寺へ移っ
たとあるが、善応寺由緒では、花巻松田何某之子で、元禄13年に移ったとある。八戸からの東善
寺は別としても、阿曽沼氏時代からの善応寺も南部氏配下の人物により営まれ始めたのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/17/2e8e23b00266834b8b0a6f7bf464e20a.jpg)
(遠野行政センター裏、成就院跡と思われる地域を望む)
一 五世 宥順 元禄十一年(1698)寅八月 自盛岡普門院移院当寺
正徳元年(1711)卯七月 同所善応寺江移 住俗姓盛岡古木氏何某
盛岡普門院から成就院に移り、後に善応寺の住職となった。
一 六世 宥専 正徳元年秋移住于当寺 同六年三月廿一日寂ス 俗姓盛岡下斗米平助弟
先代に続いて盛岡南部家臣縁の人物。
一 七世 宥周 享保十二年(1727)未ノ十二月二日寂 出所盛岡宮沢定右エ門二男
先代に続いて盛岡南部家臣縁の人物。
一 八世 宥全 享保十二年申ノ三月廿七日現在 俗姓遠野家中菊池氏
延享第三(1746)寅五月八日 同所師跡妙泉寺江移住
遠野村替え後現地採用の菊池氏出身でありながら、後に妙泉寺56代住職となる。
一 九世 宥栄 延享三年寅ノ五月廿八日住院 宝暦十二壬午八月十七日 同所善応寺江移
どこの人物かは出自不明。
一 十世 宥仙 宝暦十二壬午八月 当寺江住院 明和七年寅ノ四月廿四日 善応寺江移転
出自不明なるも、先代同様に善応寺住職となっている。
一 十一世 宥慶 明和七年(1770)寅ノ四月入院 安永三年(1774)ノ四月十日 同所善応寺江移転
また、また、善応寺住職となる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/08/c04ed2468186293fa38d83ef63cfb125.jpg)
(遠野行政センター裏手にある社)
一 十二世 宥訓 享和二(1802)亥ノ十月 師跡妙泉寺蒙嫡僧成
文化二(1805)丑四月二日 被遣寺職移転ト成也
57代妙泉寺住職となる。
一 十三世 宥昶 文化二丑四月六日入院ス 文化八年未師跡妙泉寺蒙看守移転ス 其後且東善寺懸持ス
58代妙泉寺住職となり、東善寺も兼務している。
一 十四世 宥賢 同所妙泉寺弟子 文化十四丙丑十二月十二日 任師跡住院
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/10/fe8da0cf84df7419d6d022e9cfea5e2c.jpg)
(鍋倉山の道路から成就院近辺を見下ろすも、杉林となっており、どこなのか不明)
成就院由緒書上は、ここまでの記載で終わっているのだが、妙泉寺継図と(変換可能な漢字無し)兼記には次のようにある。
五十九世 宥賢 文政年中 受師跡従成就院住職
嘉永6年(1853)和州豊山長谷寺在嶺罷有処 上席昇進付 辞職退 後住附弟宥応願之通被申付
且安政四年(1857)命依江戸市ケ谷薬王寺江移転 同五年十月九日 遷化
市谷薬王寺は今はなく、地名として市谷薬王寺町として残る。(自衛隊市谷駐屯地の北側)
成就院最後の住職が誰であったのか、また、文明開花の後にどのような末路を送ったのか、今は定かではない。
慶応4年・明治元年(1868)の遠野南部家御支配帳には、妙泉寺200石、東善寺100石、善応寺95石とあるも成就院は記載されていない。あくまで新田家持分からの拝領20石であったのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/9b/57cacc91e0ee7fc889267a106a7988a7.jpg)
(遠野行政センター裏から元町通りを望む)
かつては、新田小十郎屋敷から成就院を経て坂を下ると、そこには、諸氏の屋敷が連なっていた。元の合同庁舎(現遠野行政センター)の敷地には、福田平八郎、是川彦右エ門、新田条右エ門の屋敷があり、現在駐車場(写真左手)となっているところは、橘勤右エ門の屋敷であった。
私事ながら、この中の「橘」姓に親戚がいるのだが、近年まで善明寺の檀家であった。その本家筋が花巻に菩提寺を移しているため、現在は、遠野に墓所はなく、この苗字も遠野から消えた。慶応4年の御支配帳には、橘廉次郎15石内10石現米、橘省助10石但し現米外壱人扶持、部屋住之覚として橘省助嫡子佐喜治の三名が載っている。明治初年の地図には、勤右エ門の他に善兵衛、又左エ門、又兵衛、伊五郎と5件あり、どの家の系譜に該当するのか定かではない。いずれにしても、八戸時代からの橘甚五郎につながる一族だと考えられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e5/1d808df6671fac5a3f5ccb0bb6e86824.jpg)
明治初年の地図では、鍋倉山の西側、現多賀神社の隣りとなっている。
●自証山成就院世代由緒書上●
真言宗南部閉伊郡遠野自在山東善寺末寺自証山成就院世代由緒書上
一 当寺領 高弐拾石 八戸家中新田小十郎先祖数代寄附也
当寺之開基由緒旧記等 八戸在院之比焼亡故 世代由緒不知
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6e/952d457c225858d0b77d984ee7a985e5.jpg)
(多賀神社に向って右側山中に在った由)
一 中興 空雅 承応三年(1654)四月朔日寂
新田義実寄附寺領即弐拾石
南部氏が八戸から遠野へ来たのが寛永4年(1627)であることから、遠野へ来た成就院初代となる。
また、新田義実は、遠野南部氏初代直義公の弟であり、実質的には遠野領の主でもある。
一 二世 快秀 俗姓金浜何某 明暦丙申年七月 同所東善寺江渉住ス
金浜一族の出身。金浜氏は八戸時代には80石持であったが、遠野へは村替えと同時に来たのでは
なく、少し遅れて来たのではないかと思われる。寛永11年以降に取立てられ、横田、来内廻りに20
石を給す。後に東善寺住職となる。
一 三世 快養 元禄五(1692)甲申天七月廿日寂ス
一 四世 宥真 元禄五申ノ十二月十二日 自花巻白山寺移住当寺 十一年移院 同所善応寺江出所
花巻松田氏何某
三世快養の出自は不明だが、四世は、花巻白山寺から成就院に移り、元禄11年に善応寺へ移っ
たとあるが、善応寺由緒では、花巻松田何某之子で、元禄13年に移ったとある。八戸からの東善
寺は別としても、阿曽沼氏時代からの善応寺も南部氏配下の人物により営まれ始めたのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/17/2e8e23b00266834b8b0a6f7bf464e20a.jpg)
(遠野行政センター裏、成就院跡と思われる地域を望む)
一 五世 宥順 元禄十一年(1698)寅八月 自盛岡普門院移院当寺
正徳元年(1711)卯七月 同所善応寺江移 住俗姓盛岡古木氏何某
盛岡普門院から成就院に移り、後に善応寺の住職となった。
一 六世 宥専 正徳元年秋移住于当寺 同六年三月廿一日寂ス 俗姓盛岡下斗米平助弟
先代に続いて盛岡南部家臣縁の人物。
一 七世 宥周 享保十二年(1727)未ノ十二月二日寂 出所盛岡宮沢定右エ門二男
先代に続いて盛岡南部家臣縁の人物。
一 八世 宥全 享保十二年申ノ三月廿七日現在 俗姓遠野家中菊池氏
延享第三(1746)寅五月八日 同所師跡妙泉寺江移住
遠野村替え後現地採用の菊池氏出身でありながら、後に妙泉寺56代住職となる。
一 九世 宥栄 延享三年寅ノ五月廿八日住院 宝暦十二壬午八月十七日 同所善応寺江移
どこの人物かは出自不明。
一 十世 宥仙 宝暦十二壬午八月 当寺江住院 明和七年寅ノ四月廿四日 善応寺江移転
出自不明なるも、先代同様に善応寺住職となっている。
一 十一世 宥慶 明和七年(1770)寅ノ四月入院 安永三年(1774)ノ四月十日 同所善応寺江移転
また、また、善応寺住職となる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/08/c04ed2468186293fa38d83ef63cfb125.jpg)
(遠野行政センター裏手にある社)
一 十二世 宥訓 享和二(1802)亥ノ十月 師跡妙泉寺蒙嫡僧成
文化二(1805)丑四月二日 被遣寺職移転ト成也
57代妙泉寺住職となる。
一 十三世 宥昶 文化二丑四月六日入院ス 文化八年未師跡妙泉寺蒙看守移転ス 其後且東善寺懸持ス
58代妙泉寺住職となり、東善寺も兼務している。
一 十四世 宥賢 同所妙泉寺弟子 文化十四丙丑十二月十二日 任師跡住院
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/10/fe8da0cf84df7419d6d022e9cfea5e2c.jpg)
(鍋倉山の道路から成就院近辺を見下ろすも、杉林となっており、どこなのか不明)
成就院由緒書上は、ここまでの記載で終わっているのだが、妙泉寺継図と(変換可能な漢字無し)兼記には次のようにある。
五十九世 宥賢 文政年中 受師跡従成就院住職
嘉永6年(1853)和州豊山長谷寺在嶺罷有処 上席昇進付 辞職退 後住附弟宥応願之通被申付
且安政四年(1857)命依江戸市ケ谷薬王寺江移転 同五年十月九日 遷化
市谷薬王寺は今はなく、地名として市谷薬王寺町として残る。(自衛隊市谷駐屯地の北側)
成就院最後の住職が誰であったのか、また、文明開花の後にどのような末路を送ったのか、今は定かではない。
慶応4年・明治元年(1868)の遠野南部家御支配帳には、妙泉寺200石、東善寺100石、善応寺95石とあるも成就院は記載されていない。あくまで新田家持分からの拝領20石であったのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/9b/57cacc91e0ee7fc889267a106a7988a7.jpg)
(遠野行政センター裏から元町通りを望む)
かつては、新田小十郎屋敷から成就院を経て坂を下ると、そこには、諸氏の屋敷が連なっていた。元の合同庁舎(現遠野行政センター)の敷地には、福田平八郎、是川彦右エ門、新田条右エ門の屋敷があり、現在駐車場(写真左手)となっているところは、橘勤右エ門の屋敷であった。
私事ながら、この中の「橘」姓に親戚がいるのだが、近年まで善明寺の檀家であった。その本家筋が花巻に菩提寺を移しているため、現在は、遠野に墓所はなく、この苗字も遠野から消えた。慶応4年の御支配帳には、橘廉次郎15石内10石現米、橘省助10石但し現米外壱人扶持、部屋住之覚として橘省助嫡子佐喜治の三名が載っている。明治初年の地図には、勤右エ門の他に善兵衛、又左エ門、又兵衛、伊五郎と5件あり、どの家の系譜に該当するのか定かではない。いずれにしても、八戸時代からの橘甚五郎につながる一族だと考えられる。
石鳥谷の光勝寺、そして我菩提寺の基となる江刺の廃寺もまた宥・・・・です。
「宥」の字は、他の僧侶関係者にも好まれて使われているようです。
ところで、合庁の西側の道路を鍋倉方面に行った斜面に、キリスト教関係者の墓地があったような気がするのですが、覚えていますか?そして、この道路は、山の上にある道路に行けたように記憶しているのですが・・・・。(ここでなかったかなあ?)
遠高の弓道場の方から登ったような?曖昧です・・・謝
どっちだったけ?
もう、ん十年も行ってないからなぁ。
で、成就院のこと。
既にご存知かもと思いますが、正一先生の資料に、「古説に」という話が載っておりました。
この屋敷は称荷別当万蔵坊という山伏の屋敷であった。
南部氏の転封の際、山伏をよそに屋敷替えして、成就院になった。
寺の近くに小谷地があり元風呂といった。
と概略はこうです。
んでば、今晩(笑)
成就院のあった場所の南側の山に、稲荷社があったようです。それが、万蔵坊に関わりがあるものなのか、南部氏のものかはわかりません。万蔵坊という名前は、宝暦10年の寺社本末支配には、五日市村の羽黒派修験として名前が見え、文殊堂喜楽院の系譜の方ではないかと考えられます。この喜楽院が五日市に住するに至った経緯がわかれば、遠野史のある空白が埋まると言われており、正一先生の古説の裏をとることにもつながります。
また、風呂についてですが、上郷にも風呂という家があり義経伝説がありますが、この風呂と言う言葉がいつから、所謂、「おふろ」としての意味を持つようになったのか興味のあるところです。江戸時代の文献では、風呂屋は湯屋と記されており、この風呂なる言葉が別な意味をもつ言葉だったのではとも考えています。例えば、アイヌ語から発生したものとか、風呂敷の語源からきたものとか、いずれにしても想像の域から超えられません。笑