平安夢柔話

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藤原多子 ~「二代の后」と呼ばれた不運の女性

2007-04-12 16:13:40 | 歴史人物伝
 3ヶ月ほど前にUPした「(女朱)子内親王」について調べているとき、「それでは(女朱)子内親王と入れ替わるようにして二条天皇の後宮に入った藤原多子(ふじわらのまさるこ)の立場はどうだったのだろうか」と、改めて興味を持ちました。そこで、「二代の后」と呼ばれた藤原多子について、調べてみることにしました。


 では、はじめに彼女のプロフィールからどうぞ。

☆藤原多子(1140~1201)
 父・藤原公能(閑院流藤原氏)
 母・藤原豪子(藤原俊忠の女)
 同母兄には、百人一首の歌人としても知られる後徳大寺左大臣藤原実定がいます。さらに、やはり百人一首の歌人である藤原俊成は母方のおじに当たります。

 多子は幼い頃より父方のおば幸子の夫、藤原頼長(1120~1156)の養女となっていました。頼長は美しいこの姪を早くから后候補と考えていたようですが、多子が11歳の時にそれを実行します。

 これより先、久安四年(1148)、多子は従三位に叙せられ、久安六年(1150)正月、近衛天皇(1139~1155) 在位1141~1155)に入内し、やがて皇后に立てられます。しかし、そのことが歴史に波紋をもたらすことになるのです。

 多子の養父藤原頼長は、関白を務めた藤原忠実の男です。頼長には藤原忠通(1097~1064)という兄があったのですが、忠実はこのときすでに隠居し、関白と氏の長者は忠通に譲っていました。
 ところが忠実は、頼長の学識と才能を愛し、「摂関家の権威復興のためにこの子に摂関を譲りたい」と考えていたようなのです。これには忠通は面白くありません。そこで忠通は頼長に対抗する一つの手段として、同じ久安六年に美福門院の養女となっていた藤原呈子を自分の養女とし、近衛天皇に入内させ、中宮に冊立したのでした。このことや、これからお話しすることなどにより、兄弟の仲はますます険悪になったことは言うまでもありません。(ちなみに多子入内当時の頼長の官位は従一位左大臣)

 多子の入内が終わると、忠実は忠通に「関白を辞し、頼長に譲るように」と命じたのですが、もちろん忠通はこれには応じませんでした。激怒した忠実は、忠通の藤原氏の氏の長者を取り上げ、頼長を氏の長者とします。
 さらに翌七年正月、忠実の奏請によって頼長は内覧の宣旨を被ります。普通、摂関・氏の長者・内覧はセットになっており、一人の人物が任じられていたのですが、忠実はこれを強引に二つに分け、摂関は忠通に、氏の長者と内覧は頼長に…というようにしたわけです。

 こうした不穏な情勢の中にあって忠通は、陰湿な策謀をめぐらして忠実・頼長父子の失勢を図ることとなります。仁平元年(1151)六月、近衛天皇の里内裏の四条東洞院殿は焼亡し、天皇は小六条殿に遷幸したのですが、これも十月には炎上してしまいます。ともに不審火によるものでしたが、これにより近衛天皇は忠通の近衛殿を御所とするようになります。
 近衛殿が御所では、頼長の養女である多子は天皇に近づくことすらできませんでした。これは、結果的には皇后多子を天皇より遠ざける忠通の陰謀であったと考えられます。ようやく愛情が芽生え始めたと思われる天皇と多子は、政治の力によって引き裂かれてしまったのでした。

 さらに困ったことに、頼長は人の言うことには決して耳を貸さないところがあり、次第に人望を失っていきました。そのあたりも忠通にいいように利用されたようです。頼長は次第に、当時院政を行っていた鳥羽上皇の信任も失っていきます。

 久寿二年(1155)、元々体の弱かった近衛天皇が世を去ります。わずか17歳の若さでした。天皇が崩御したとき、多子はどんな思いだったのでしょうか。

 ところが、多子は悲しんでいる暇はありませんでした。「天皇が崩御したのは、忠実・頼長による呪詛のためだ!」という噂が広まったのです。この噂は、忠通が意図的に流したものと言われています。しかし、近衛天皇の両親、鳥羽上皇と美福門院は噂を信じて激怒し、頼長は失脚してしまいます。
 そして翌保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御すると勃発したのが保元の乱でした。この乱は朝廷内の勢力争いの他、忠通と頼長の兄弟争いにも因を発していたことは言うまでもありません。その結果頼長は破れ、あえない最期を遂げてしまいます。

 夫の死に続く養父の死…。まだ17歳の多子にはあまりにも重い現実でした。彼女は近衛天皇の崩御後は里第の近衛河原に隠居していたのですが、この年の十月に皇太后、保元三年には太皇太后に進みます。しかし、彼女の心は晴れることはなかったのではないかと思います。
 このように、まだ二十歳になるかならないかの年で、彼女は世間から離れ、目立たないようにひっそりと生活するようになります。しかし、彼女の美貌の噂はまだ、世の中の評判となっていました。そしてそのことが、彼女を思わぬ運命に引き寄せることとなるのです。

 保元三年(1158)、近衛天皇の後を受けて即位していた後白河天皇(近衛天皇の異母兄)が退位し、その皇子守仁親王が二条天皇(1143~1165 在位1158~1165)として踐祚します。この二条天皇が、先々帝の皇后だった多子の美貌の噂を聞き、「ぜひわが後宮に…」と言ってきたのでした。

 これを聞いて多子はどう思ったのでしょう?「平家物語」によると、多子は全く気が進まず、最初は断ったようです。
 しかし二条天皇はあきらめませんでした。「妃として後宮に入内するように」と宣旨を下したのです。宣旨が下ったからには従うよりほかはありません。
 そこで多子の実父の公能は、多子に入内するようにと説得します。公能にとっては、「もし多子が帝の寵愛を受けて皇子でも生めば、この私は帝の外祖父になれるかもしれない」と野心満々だったのでしょう。そこで多子は、しぶしぶ入内を承知します。

 天皇の皇后だった女性がもう一度入内する…、これは前代未聞のことでした。入内を承知したものの、多子は全く気が進まず、それどころか恥ずかしくてたまりませんでした。「ああ、故近衛院が崩御されたとき、私もあとを追うか、出家してしまえば良かった…」と哀しく思ったようです。 時に永暦元年(1160)正月のことでした。

 この多子の入内は、二条天皇の後宮や、父後白河上皇との関係に波紋をもたらすこととなります。
  
 実はこれ以前から、二条天皇と後白河上皇の親子の仲はあまりうまく行っていませんでした。二人は天皇親政か、院政かをめぐって対立していたのです。
 しかも二条天皇は強い性格の持ち主で、思ったことは何でもやり遂げるというところがありました。多子を入内させたこともその一つの表れですが、実はこれには、皇后である(女朱)子内親王を遠ざけようという思わくもあったようなのです。

 拙掲示板No436でいつきのじじいさんから教えていただいたことなのですが(いつきのじじいさん、ありがとうございました)、最近の研究によると(女朱)子内親王は後白河上皇の同母姉、上西門院統子内親王の養子になっており、二条天皇と(女朱)子内親王の婚姻は後白河の権威を強めるために行われたようなのです。同母の兄弟姉妹の結びつきが強かったこの時代、上西門院のバックにいるのは言うまでもなく後白河上皇です。つまり、(女朱)子内親王は後白河上皇派の人であったことが考えられます。
 後年、(女朱)子内親王の死を聞いた後白河上皇は、「そんなに悪かったならなぜ早く知らせてくれなかったのだ。病気と聞いていればお見舞いに行ったのに」と残念がっています。つまり後白河上皇は、折に触れて(女朱)子内親王に気を遣っていたことがうかがえます。

 それらのことを考えると、二条天皇は後白河上皇派の(女朱)子内親王をうとんじており、それに対抗すべく多子に求婚したのでは…という想像もできると思います。それはともかく、多子の入内によって(女朱)子内親王は心身の健康を損ね、やがて二条天皇の許を去っていきました。そして多子を入内させたことにより、後白河上皇が激怒し、父子の仲はますます険悪になったことも十分に考えられます。

 本人には何も責任がないのに、なぜか周りの人に波紋をもたらす……、多子はそんな女性だったようです。彼女は「二代の后」とあだ名され、そのことで周りから陰口を言われたこともあったでしょうし、自分が後宮に入ったことで不幸になってしまった人たちのことにも気がついていたかもしれません。でもどうすることもできませんでした。そこであるいは、自分の美貌を呪ったかもしれません。彼女もまた、運命にもてあそばれた不運の女性と言えそうです。

 二条天皇の後宮には后妃が多く、従って多子も決して幸福ではなかったようです。そして永万二年(1165)、二条天皇は23歳の若さで崩御します。
 再び一人になった多子は近衛河原に戻り、今度こそ意を決して落飾します。

 多子は建仁元年(1201)十二月に62歳で世を去るのですが、彼女の晩年については史料は何も語っていません。わずかに「平家物語」巻五「月見」の項で消息が知られる程度です。

 福原に都移りした治承四年(1180)、藤原実定はある日、京の旧都に戻り、妹の多子のいる近衛河原を訪れます。そして、多子や女房たちと一晩、しみじみと昔語りをしたのでした。
 その時多子は兄とどんな話をしたのでしょうか?近衛天皇とのはかない思い出だったのか、保元の乱前後の悲しみの日々の思い出だったのか、はたまた「二代の后」と呼ばれた二条天皇の後宮の思い出だったのか…、今では知るすべもありませんが、私はこの場面の多子を思い浮かべるとき、何か安らいだ表情が目に浮かぶのです。
 妖艶な美貌の持ち主で、書・絵・琴・琵琶の名手として知られた彼女は、落飾して初めて、心の平安を得られたのではないか…、そんな気がします。

 (女朱)子内親王は「高松院」、藤原呈子は「九条院」という女院号を授かり、優遇措置を受けていたのですが、多子にはなぜか女院号が授けられることはついにありませんでした。でも彼女は案外、「私は女院号なんていりませんのよ。」とほくそ笑んでいたのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『歴代皇后総覧 歴史と旅特別増刊 秋田書店
 『平家物語 ー日本古典文庫13』 中山義秀訳 河出書房新社

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