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平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
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藤原多子 ~「二代の后」と呼ばれた不運の女性

2007-04-12 16:13:40 | 歴史人物伝
 3ヶ月ほど前にUPした「(女朱)子内親王」について調べているとき、「それでは(女朱)子内親王と入れ替わるようにして二条天皇の後宮に入った藤原多子(ふじわらのまさるこ)の立場はどうだったのだろうか」と、改めて興味を持ちました。そこで、「二代の后」と呼ばれた藤原多子について、調べてみることにしました。


 では、はじめに彼女のプロフィールからどうぞ。

☆藤原多子(1140~1201)
 父・藤原公能(閑院流藤原氏)
 母・藤原豪子(藤原俊忠の女)
 同母兄には、百人一首の歌人としても知られる後徳大寺左大臣藤原実定がいます。さらに、やはり百人一首の歌人である藤原俊成は母方のおじに当たります。

 多子は幼い頃より父方のおば幸子の夫、藤原頼長(1120~1156)の養女となっていました。頼長は美しいこの姪を早くから后候補と考えていたようですが、多子が11歳の時にそれを実行します。

 これより先、久安四年(1148)、多子は従三位に叙せられ、久安六年(1150)正月、近衛天皇(1139~1155) 在位1141~1155)に入内し、やがて皇后に立てられます。しかし、そのことが歴史に波紋をもたらすことになるのです。

 多子の養父藤原頼長は、関白を務めた藤原忠実の男です。頼長には藤原忠通(1097~1064)という兄があったのですが、忠実はこのときすでに隠居し、関白と氏の長者は忠通に譲っていました。
 ところが忠実は、頼長の学識と才能を愛し、「摂関家の権威復興のためにこの子に摂関を譲りたい」と考えていたようなのです。これには忠通は面白くありません。そこで忠通は頼長に対抗する一つの手段として、同じ久安六年に美福門院の養女となっていた藤原呈子を自分の養女とし、近衛天皇に入内させ、中宮に冊立したのでした。このことや、これからお話しすることなどにより、兄弟の仲はますます険悪になったことは言うまでもありません。(ちなみに多子入内当時の頼長の官位は従一位左大臣)

 多子の入内が終わると、忠実は忠通に「関白を辞し、頼長に譲るように」と命じたのですが、もちろん忠通はこれには応じませんでした。激怒した忠実は、忠通の藤原氏の氏の長者を取り上げ、頼長を氏の長者とします。
 さらに翌七年正月、忠実の奏請によって頼長は内覧の宣旨を被ります。普通、摂関・氏の長者・内覧はセットになっており、一人の人物が任じられていたのですが、忠実はこれを強引に二つに分け、摂関は忠通に、氏の長者と内覧は頼長に…というようにしたわけです。

 こうした不穏な情勢の中にあって忠通は、陰湿な策謀をめぐらして忠実・頼長父子の失勢を図ることとなります。仁平元年(1151)六月、近衛天皇の里内裏の四条東洞院殿は焼亡し、天皇は小六条殿に遷幸したのですが、これも十月には炎上してしまいます。ともに不審火によるものでしたが、これにより近衛天皇は忠通の近衛殿を御所とするようになります。
 近衛殿が御所では、頼長の養女である多子は天皇に近づくことすらできませんでした。これは、結果的には皇后多子を天皇より遠ざける忠通の陰謀であったと考えられます。ようやく愛情が芽生え始めたと思われる天皇と多子は、政治の力によって引き裂かれてしまったのでした。

 さらに困ったことに、頼長は人の言うことには決して耳を貸さないところがあり、次第に人望を失っていきました。そのあたりも忠通にいいように利用されたようです。頼長は次第に、当時院政を行っていた鳥羽上皇の信任も失っていきます。

 久寿二年(1155)、元々体の弱かった近衛天皇が世を去ります。わずか17歳の若さでした。天皇が崩御したとき、多子はどんな思いだったのでしょうか。

 ところが、多子は悲しんでいる暇はありませんでした。「天皇が崩御したのは、忠実・頼長による呪詛のためだ!」という噂が広まったのです。この噂は、忠通が意図的に流したものと言われています。しかし、近衛天皇の両親、鳥羽上皇と美福門院は噂を信じて激怒し、頼長は失脚してしまいます。
 そして翌保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御すると勃発したのが保元の乱でした。この乱は朝廷内の勢力争いの他、忠通と頼長の兄弟争いにも因を発していたことは言うまでもありません。その結果頼長は破れ、あえない最期を遂げてしまいます。

 夫の死に続く養父の死…。まだ17歳の多子にはあまりにも重い現実でした。彼女は近衛天皇の崩御後は里第の近衛河原に隠居していたのですが、この年の十月に皇太后、保元三年には太皇太后に進みます。しかし、彼女の心は晴れることはなかったのではないかと思います。
 このように、まだ二十歳になるかならないかの年で、彼女は世間から離れ、目立たないようにひっそりと生活するようになります。しかし、彼女の美貌の噂はまだ、世の中の評判となっていました。そしてそのことが、彼女を思わぬ運命に引き寄せることとなるのです。

 保元三年(1158)、近衛天皇の後を受けて即位していた後白河天皇(近衛天皇の異母兄)が退位し、その皇子守仁親王が二条天皇(1143~1165 在位1158~1165)として踐祚します。この二条天皇が、先々帝の皇后だった多子の美貌の噂を聞き、「ぜひわが後宮に…」と言ってきたのでした。

 これを聞いて多子はどう思ったのでしょう?「平家物語」によると、多子は全く気が進まず、最初は断ったようです。
 しかし二条天皇はあきらめませんでした。「妃として後宮に入内するように」と宣旨を下したのです。宣旨が下ったからには従うよりほかはありません。
 そこで多子の実父の公能は、多子に入内するようにと説得します。公能にとっては、「もし多子が帝の寵愛を受けて皇子でも生めば、この私は帝の外祖父になれるかもしれない」と野心満々だったのでしょう。そこで多子は、しぶしぶ入内を承知します。

 天皇の皇后だった女性がもう一度入内する…、これは前代未聞のことでした。入内を承知したものの、多子は全く気が進まず、それどころか恥ずかしくてたまりませんでした。「ああ、故近衛院が崩御されたとき、私もあとを追うか、出家してしまえば良かった…」と哀しく思ったようです。 時に永暦元年(1160)正月のことでした。

 この多子の入内は、二条天皇の後宮や、父後白河上皇との関係に波紋をもたらすこととなります。
  
 実はこれ以前から、二条天皇と後白河上皇の親子の仲はあまりうまく行っていませんでした。二人は天皇親政か、院政かをめぐって対立していたのです。
 しかも二条天皇は強い性格の持ち主で、思ったことは何でもやり遂げるというところがありました。多子を入内させたこともその一つの表れですが、実はこれには、皇后である(女朱)子内親王を遠ざけようという思わくもあったようなのです。

 拙掲示板No436でいつきのじじいさんから教えていただいたことなのですが(いつきのじじいさん、ありがとうございました)、最近の研究によると(女朱)子内親王は後白河上皇の同母姉、上西門院統子内親王の養子になっており、二条天皇と(女朱)子内親王の婚姻は後白河の権威を強めるために行われたようなのです。同母の兄弟姉妹の結びつきが強かったこの時代、上西門院のバックにいるのは言うまでもなく後白河上皇です。つまり、(女朱)子内親王は後白河上皇派の人であったことが考えられます。
 後年、(女朱)子内親王の死を聞いた後白河上皇は、「そんなに悪かったならなぜ早く知らせてくれなかったのだ。病気と聞いていればお見舞いに行ったのに」と残念がっています。つまり後白河上皇は、折に触れて(女朱)子内親王に気を遣っていたことがうかがえます。

 それらのことを考えると、二条天皇は後白河上皇派の(女朱)子内親王をうとんじており、それに対抗すべく多子に求婚したのでは…という想像もできると思います。それはともかく、多子の入内によって(女朱)子内親王は心身の健康を損ね、やがて二条天皇の許を去っていきました。そして多子を入内させたことにより、後白河上皇が激怒し、父子の仲はますます険悪になったことも十分に考えられます。

 本人には何も責任がないのに、なぜか周りの人に波紋をもたらす……、多子はそんな女性だったようです。彼女は「二代の后」とあだ名され、そのことで周りから陰口を言われたこともあったでしょうし、自分が後宮に入ったことで不幸になってしまった人たちのことにも気がついていたかもしれません。でもどうすることもできませんでした。そこであるいは、自分の美貌を呪ったかもしれません。彼女もまた、運命にもてあそばれた不運の女性と言えそうです。

 二条天皇の後宮には后妃が多く、従って多子も決して幸福ではなかったようです。そして永万二年(1165)、二条天皇は23歳の若さで崩御します。
 再び一人になった多子は近衛河原に戻り、今度こそ意を決して落飾します。

 多子は建仁元年(1201)十二月に62歳で世を去るのですが、彼女の晩年については史料は何も語っていません。わずかに「平家物語」巻五「月見」の項で消息が知られる程度です。

 福原に都移りした治承四年(1180)、藤原実定はある日、京の旧都に戻り、妹の多子のいる近衛河原を訪れます。そして、多子や女房たちと一晩、しみじみと昔語りをしたのでした。
 その時多子は兄とどんな話をしたのでしょうか?近衛天皇とのはかない思い出だったのか、保元の乱前後の悲しみの日々の思い出だったのか、はたまた「二代の后」と呼ばれた二条天皇の後宮の思い出だったのか…、今では知るすべもありませんが、私はこの場面の多子を思い浮かべるとき、何か安らいだ表情が目に浮かぶのです。
 妖艶な美貌の持ち主で、書・絵・琴・琵琶の名手として知られた彼女は、落飾して初めて、心の平安を得られたのではないか…、そんな気がします。

 (女朱)子内親王は「高松院」、藤原呈子は「九条院」という女院号を授かり、優遇措置を受けていたのですが、多子にはなぜか女院号が授けられることはついにありませんでした。でも彼女は案外、「私は女院号なんていりませんのよ。」とほくそ笑んでいたのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『歴代皇后総覧 歴史と旅特別増刊 秋田書店
 『平家物語 ー日本古典文庫13』 中山義秀訳 河出書房新社

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小式部内侍 ~和泉式部の娘

2007-04-02 10:34:48 | 歴史人物伝
 和泉式部というと、冷泉天皇の皇子、為尊親王や敦道親王を恋人にし、多くの情熱的な恋の歌を詠んだことで知られる平安中期の女流歌人です。

 彼女には、最初の夫、橘道貞との間に娘が一人ありました。そしてその娘も、母に劣らず恋人も多く、その事績は説話文学にもなっています。その生涯もなかなか波乱に富んでいますし、彼女自身もとても魅力的な人だと思います。今回の人物伝では、和泉式部の娘、小式部内侍にスポットを当ててみることにします。

 小式部内侍(以下は小式部と記します)の両親、橘道貞と和泉式部が結婚したのは、長徳二年(996)頃のことでした。小式部は、その翌年、長徳三年(997)頃の出生であると推定されます。

 しかし、母の和泉式部は長保二年(1000)頃から冷泉天皇皇子の為尊親王と恋仲になります。為尊親王はその2年後に世を去るのですが、親王の一周忌の頃から、その弟の敦道親王と恋仲になることとなります。「和泉式部日記」は、敦道親王との出会いから、親王の邸に引き取られるまでのことを綴ったもので、二人の大胆な恋の様子が贈答歌とともに描かれています。

 こうして和泉式部は敦道親王の召人のようになってしまったため、橘道貞とは当然のように離別ということになりました。小式部はそんな両親の間で子供時代を過ごしたわけです。

 なお、和泉式部と橘道貞の不和の原因については、和泉式部が為尊親王や敦道親王と恋仲になったからであるという理由ももちろんありますが、他にも理由があるようなのです。

実は和泉式部の父、大江雅致は、冷泉天皇の皇后、昌子内親王に仕えており、道貞はその部下でもありました。つまり和泉式部も道貞も、元々は冷泉天皇系の人だったのです。しかし道貞が和泉守に任じられ(和泉式部の名前は、和泉守という夫の官職にちなんでいるようです)、昌子内親王が崩御した長保元年頃より、彼は道長側にしきりに接近し、冷泉天皇系の人脈から離れていきました。
 道貞は、昌子内親王の七十七日の法事について藤原道長に指示を受けています。(『小右記』)
 また、道長の一男頼通は病気療養のために道貞の家に渡ったこともあるようです。(『御堂関白記』寛弘元年(1004)二月には、頼通が春日祭に立つ時に、道長の枇杷第に来て色々と世話をしています。
 このように、道貞は道長の家司のようになっていった、つまり冷泉天皇系の人脈に属していた道貞が道長側、すなわち円融天皇系(道長の婿、一条天皇は円融天皇の皇子)の人脈に接近するようになったことが、和泉式部との不和の原因の一つとも考えられるようです。

 話を和泉式部の方に戻しますと、寛弘四年(1007)、敦道親王が世を去ります。その際、和泉式部は数多くの悲痛な挽歌を詠んでいます。その歌の数々からは、和泉式部の敦道親王への深い愛情が感じられます。

 敦道親王に先立たれて途方にくれた和泉式部は、一時は出家しようと思ったようですが、権力者藤原道長にすすめられ、寛弘六年(1009)、一条天皇中宮で、道長の娘の彰子の宮廷に出仕します。彰子の宮廷には、紫式部赤染衛門といった才女が多く仕えており、華やかなサロンのようになっていました。そのため道長は娘の宮廷をさらに華やかにすべく、当時すでに歌人として世に知られていた和泉式部にも目をつけていたようです。
 そして、娘の小式部も母とともに彰子の許に出仕したのでした。彼女は当時13歳くらいであったと推定されます。なお、「小式部」という女房名は、「和泉式部の娘」という意味もあったのでしょう。彼女が彰子への出仕以前に誰とどこに住んでいたかは不明ですが、この女房名から母和泉式部との親密さを感じます。たとえ離れて暮らしていたとしても、和泉式部はいつも、娘のことを気にかけていたのだと思います。

 さて、母とともに彰子中宮の女房となった小式部は、才能に優れ、また頭も良かったために彰子に気に入られ、掌侍(内侍)に任じられ、「小式部内侍」と呼ばれるようになります。また、貴公子たちからも人気があり、様々な男性を恋人に持ちました。それだけ小式部は魅力的な女性だったのでしょうね。

 では、小式部の恋人だったと言われている男性たちを紹介しましょう。


☆藤原頼宗(993~1065)

 藤原道長と源明子の間に生まれた息子。
 どうやら、小式部が最初に関係を持ったのはこの頼宗のようです。しかし、二人の仲は長続きしませんでした。

☆藤原教通(996~1075)

 藤原道長と源倫子の間に生まれた息子。頼宗の異母弟に当たります。

 教通は、一条天皇崩御後皇太后となった彰子の皇太后宮権大夫であり、その関係で彰子つきの小式部と親しくなったと考えられます。小式部も教通にひかれていき、頼宗とは疎遠になったようです。小式部にふられてしまった頼宗は大変悔しがったようですが…。

 ある時、教通がひどい病気になり、やっと回復したのち、小式部に向かって
「なぜ私の家にお見舞いに来なかったのか?」と問いかけたとき、小式部は

 死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか いきてとふべき 身にしあらねば

という歌を詠みました。「私はあなたの病気のことを死ぬような思いで心配していましたのよ。そんな気持ちでしたので、辛くてたまらず、とてもお見舞いに行くことができませんでした。」という意味でしょうか。教通はかわいさのあまり思わず小式部をかき抱き、局に入って懐抱したということです。

 長和五年(1016)、小式部は教通との間に男の子を生みました。後に「木幡権僧正」と称された静円(1016~1074)です。彼は歌人としても知られています。母や祖母の才能を受け継いだのでしょうか。


☆藤原範永(生没年未詳)

 尾張守藤原仲清の男。
 長和五年(1016)、蔵人に任じられて昇殿を許されているので、その頃から小式部と親しくなったのかもしれません。また、後にいくつかの歌合わせに出詠するなど、歌人としても有名な人なので、小式部とは和歌を通じての友人で、それが恋愛に発展したとも考えられると思います。

 小式部は範永との間に女の子を生んだと言われていますが、これは根拠がなく、疑問だということです。小式部と範永が恋仲であったことは事実かもしれませんが、多分一時的な短い間のことで、彼が他の女性との間に生んだ娘の母が、いつの間にか小式部だと間違って伝えられたのではないでしょうか。
 ちなみにこの娘は、後に白河院女御(能長女の道子か)に仕えて尾張と呼ばれました。


☆藤原定頼(995~1045)

 小式部が定頼と関係を持ったかどうかはよくわかりません。定頼と小式部、または小式部の娘との間に子供がいたという説もあるようですが、詳細については調べられませんでした。すみません。

 しかし、定頼と小式部との間にはあまりにも有名なエピソードがありますし、そのエピソードからも、二人はかなり親しかったのではないかな…と思いましたので、定頼にも小式部の恋人の一人として登場していただくことにしました。

 では、その有名なエピソードについて紹介しましょう。

 母の和泉式部から歌の才能と美貌をあますことなく受けついた小式部ですが、当時、「小式部の歌はみんな和泉式部が代作しているらしい。」という噂が流れていました。

 その和泉式部は、彰子に出仕したのちに道長の家司、藤原保昌と再婚していました。寛仁四年(1020)、保昌が丹後守に任じられると、和泉式部も夫とともに丹後に同行します。

 そんなとき、京では歌合わせがあり、小式部も歌人の一人に加えられていました。そこで藤原定頼は小式部に向かい、
「もう歌はおできになりましたか?丹後からの使者はもう戻ってきていますか?さぞ心細いことでしょうね。」
と、小式部をからかいました。その時小式部が定頼への返事のかわりに詠んだのが「百人一首」にもとられているこの歌です。

 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

「丹後は遠すぎてまだ行ったことがございません。大江山、いく野の道、天の橋立、あまりにも遠すぎて、私はまだ母の文も見ていませんの。」という意味、つまり、「丹後になんて使者は送っていませんよ!!」と、小式部は言いたかったのでしょう。小式部にすっかりやりこめられてしまった定頼は、返歌もせずにこそこそと逃げていったといいます。

 このエピソードからは、小式部の才気があふれているような気がします。そして、しっかりした気性の持ち主であったこともうかがえます。
 また、小式部と定頼の親密さを感じてしまうのは私だけでしょうか。好きな女性をからかって楽しんでいる定頼と、そのユーモアをしっかりと受け止めている小式部…。何かほほえましいです。

*定頼については、当ブログ内の「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さいませ。定頼の系譜が書いてあります。


☆藤原公成(999~1043)

 藤原実成の一男。祖父である藤原公季の養子となった人物です。最終的には権中納言にまで出世しました。余談ながら、娘には白河天皇の母茂子(小式部の書生ではありません)がいます。この一家はそのため、天皇の外戚として繁栄することになるのですが、公成はそれよりもずっと前に世を去ってしまいましたので、自分の家が繁栄した姿を見ることはできませんでした。

 そんな公成は若き日、小式部の恋人の一人でした。二人がいつ親しくなったかはよくわかりませんが、教通があまりにも出世(教通は治安元年=1021年に内大臣に任じられています)してしまったために小式部と疎遠になり、そんな彼女の寂しい心を慰めたのが公成だったのでは…と、想像してしまいます。

 ところが小式部は、万寿二年(1025)、公成との間に男子を生み、そのまま帰らぬ人となってしまいました。まだ28、9歳の若さでした。

 娘の死を嘆き悲しんだ和泉式部は哀切な挽歌を詠みました。

 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさりけり 子はまさるらむ

 小式部の子供、つまり和泉式部にとっては孫を抱いて詠んだ歌です。「娘は親の私やこの小さな子供を残して逝ってしまった。あの子は、私とこの幼い子と、どちらが気がかりだったのかしら?きっとこの子に違いないわ。だって私も、親が死んだときよりも我が子に先立たれた今の方がずっと悲しいんですもの」という意味です。

 小式部は上でも書きましたように、母から歌の才能と美貌をあますことなく受け継ぎ、才気もあり、気性のしっかりした女性でした。そして、誰からも愛される明るい性格の持ち主だったのだろうなと思います。恋人たちの顔ぶれを見てもとても華やかです。

 しかし、和泉式部の小式部に寄せる哀切な挽歌を読むと、幼い子供たちを残して死ななければならなかった小式部がどんな思いであったのかを考えさせられ、とても哀しい気持ちになります。多くの男性を愛し、愛された小式部の人生は一見華やかに見えますが、母和泉式部以上に波乱に富んだものだったのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CDーROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫
 『人物叢書 和泉式部』 山中 裕 吉川弘文館

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(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きて

2007-01-10 01:18:48 | 歴史人物伝
 女帝の世紀とも言われた飛鳥・奈良時代は別として、平安時代以降は結婚経験のある内親王というのはほんの一握りです。それでも平安中期には、藤原師輔と結婚した醍醐天皇の3人の皇女、勤子内親王・雅子内親王・康子内親王、藤原顕光と結婚した盛子内親王(村上天皇皇女)冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)、円融天皇女御の尊子内親王(冷泉天皇皇女)など、何人かの内親王を挙げることができます。

 ところが院政期、、特に鳥羽天皇御代以降になると、結婚経験のある内親王は皆無と言ってもよい…という状態になってしまうのです。
そして今回は、その中でも唯一、結婚経験のある内親王を、紹介させていただきたいと思います。
 しかし、今から紹介する(女朱)子内親王は、大変謎に包まれた人物です。特に、彼女の後半生についてはわからないことが多いです。そして、もっとわからないのが彼女の心の中です。そこで今回は、そんな彼女の心中について迫ってみることにします。かなり妄想に走った内容になると思いますが、おつき合い頂けますと嬉しいです。


 (女朱)子内親王(よしこないしんのう)は、鳥羽天皇を父に、美福門院藤原得子(藤原長実女)を母に、永治元年(1141)十一月に誕生しました。同母の兄弟姉妹に近衛天皇、子内親王(のちの八条院)などがいます。そして、母の里第である白河押小路殿で成長することとなります。その頃は「乙姫宮」と呼ばれていたようです。

 久寿元年(1154)十一月、内親王宣下され、名を「寿子」と称しました。ところが、当時左大臣で高い学識もあった藤原頼長が、「寿子という名前は縁起が良くない」と言ったため、その月のうちに名前を「(女朱)子」と改めました。このように、内親王としての彼女の人生は、出発点から波瀾含みだったと言って良いと思います。

 保元元年(1156)、東宮守仁親王(のちの二条天皇)と結婚し、「東宮女御」と呼ばれます。この結婚は、守仁親王が(女朱)子内親王の母、美福門院の融子になっていたため、母によって取り決められた政略結婚だったと考えられます。翌年三后に准ぜられます。

 保元三年(1158)、二条天皇が即位すると、翌平治元年(1159)二月、後白河上皇の御所である高松殿において立后します。その年の十二月に起こった平治の乱に際しては、天皇とともに平清盛の六波羅第に避難しています。

 しかし、翌永暦元年(1160)、(女朱)子内親王は病のため出家をしてしまうのです。
 実は、二条天皇はこれより以前に、藤原師元女(のちの春日局)を身辺に近づけて寵愛し、彼女は平治元年(1159)に二条天皇の皇女をもうけていました。
 しかし、(女朱)子内親王が最も我慢できなかったのは、永暦元年(1160)正月に行われた藤原多子の入内だったのではなかったでしょうか。
 確かに彼女は春日局が皇女を産んだ頃から出家を希望していましたが、これを後白河上皇に止められていました。また、この頃から二条天皇と離れて住んでいたことも多かったようですが、上で書いたように平治の乱の際、天皇とともに六波羅に避難しているので、この頃はまだ、二条天皇との夫婦関係は持続していたと考えられます。

 ここで藤原多子について述べておきますと……、藤原多子は左大臣頼長の養女として久安六年(1150)正月に近衛天皇に入内し女御となり、さらに皇后に立てられた人物です。久寿二年(1155)に近衛天皇が崩御されると、里第の近衛河原に下がり、保元三年(1158)には太皇太后に立てられていました。
 ところが二条天皇は、この先々帝の后であった女性の美貌の噂を聞き、「ぜひ我が後宮に…」と、入内を強く懇願したのでした。多子はもちろん、最初は断ったようですが、天皇の強い懇願に屈し、永暦元年(1160)正月、ついに二条天皇の許に入内します。

 帝の后だった女性がもう一度入内する……、これは前代未聞のことでした。それより何より、夫の愛情がかつての兄嫁に移っていくことに、(女朱)子内親王は耐えきれなかったのではないかと思います。彼女は次第に健康を損ねて病気になり、ついに危篤になってしまいます。彼女の苦しみもだえるうめき声は、部屋の外まで聞こえたと言われています。やがて彼女は出家を決意し、ついに落飾……。こうして出家をした(女朱)子内親王は、病気は回復したものの、もはや二条天皇の許に戻る気はありませんでした。こうして二条天皇と(女朱)子内親王は破局を迎えたのでした。

 (女朱)子内親王は応保二年(1162)、立后を行った第宅に因み「高松院」という女院号を宣下されます。そして、安元二年(1176)六月、脚病に痢病を併発し崩御します。享年三十六。死因については当時から様々な憶測が流れていたようです。すでにその11年前、夫であった二条天皇も崩御されていました。


 以上が(女朱)子内親王の経歴ですが、最初にも書きましたが、女院号を授かってから崩御までの彼女について、正史は何も伝えていません。

 しかし、彼女の後半生を知る手がかりとして、藤原兼実の日記「玉葉」の建久二年(1191)四月二十四日条の記事があります。
これは、法印大僧都澄憲(藤原通憲男)の子、海恵が仁和寺において灌頂を受けた際の記事なのですが、「御室御弟子、高松院御腹、澄憲令レ生之子也、雖二密事一人皆知レ之」と記述されています。この文章を口語訳すると、「御室のお弟子海恵は高松院((女朱)子内親王)と藤原通憲の子、澄憲との間に生まれた子である。これは公的には秘密にされているが、みんな知っていることだ」ということでしょうか。

 もしこれが事実とすると、(女朱)子内親王は出家後、澄憲と恋仲になり、彼との間に子をもうけていた…ということになります。兼実の妻の母は(女朱)子内親王の乳母なので、このことはかなり信憑性が高いのではないかと思います。このあとは、海恵は澄憲と(女朱)子内親王との間に生まれた子であった。つまり(女朱)子内親王と澄憲は恋仲であった。…と仮定し、話を進めさせて頂きたいと思います。

(では、澄憲とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

 澄憲(1126~1203)は平安末から鎌倉初期の天台宗の僧で法印、大僧都です。 少納言藤原通憲(入道信西)の七男として生まれました。平治の乱で父信西が殺されると、彼も下野国に流されますが、のち許されて帰洛します。

 彼は説法が大変うまく、常に聴衆を魅了し、法会の導師として招かれたことも多かったようです。ただ、僧侶でありながら妻を何人も持ち、あちらこちらで子供を作る…といったところもあったようです。それだけ魅力的な人物で、女性に人気があったということでしょうか。

 話を(女朱)子内親王に戻しますと…、出家した(女朱)子内親王は、世間の評判を聞いて澄憲の説法を聞きに出かけたこともあったかもしれません。また、彼女が催す法会に澄憲を招いたこともあったと思います。そして、女院号を授かって生活は安定していたものの、夫から裏切られ、寂しい日々を送っていた(女朱)子内親王が、説法もうまく、人間的にも魅力的な澄憲に引かれていったことはごく自然なことだったのではないかと思います。その結果彼女は妊娠し、承安二年(1172)に海恵を出産することとなったのではないかと思います。

 このことについては、「(女朱)子内親王は澄憲の好色の犠牲になった」と見る向きもありますが、それではあまりにも彼女がお気の毒のように思えます。少なくても(女朱)子内親王自身は、愛する対象を得ることができて満足していたように思えるのです。
 そして澄憲も、かつて帝の后であり、現在は出家の身である女性と恋仲になる…ということは、相当の覚悟があったと思えます。もしこのことが露見したら、澄憲は間違いなく流罪です。それを覚悟の上で、(女朱)子内親王と関係を持ったということは、澄憲も(女朱)子内親王に対して愛情を持っていたのではないでしょうか。

 なお、角田文衞先生の説によると、(女朱)子内親王は安元二年に澄憲との二人目の子を妊娠したものの、妊娠浮腫から出血を起こし、それが原因で亡くなったのではないかと推定されています。
 (女朱)子内親王が出産したことを世間から隠すため、海恵は誕生と同時に彼女から引き離されたと考えられます。そして、今度身ごもった子とも生き別れになる……ということは、彼女も覚悟していたと思いますが、やはり寂しくてやりきれなかったのではないでしょうか。そんな気持ちが身体に影響し、体調を崩してしまったのかもしれません。
 愛する人との間の子を身ごもったままこの世を去っていかなければならなかった(女朱)子内親王の心中は想像するしかありませんが、最後まで澄憲と海恵のことを心にかけていたのだと思います。さぞ心残りだったことと推察されます。

 でも考えてみると、(女朱)子内親王は後半生になって澄憲と巡り会えたことは、ある意味では幸せなことだったかもしれません。院政期の内親王の多くは、恋をすることも知らず、人生を終わっていったのですから…。「愛することができる人と巡り会えて良かったね」と、私は(女朱)子内親王に言ってあげたいような気がします。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「二条の后 藤原高子 ー業平との恋」<悲運の后 高松女院>の部分 角田文衞著 幻戯書房


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選子内親王 ~華やかな文化サロンの女主人

2006-12-06 09:59:45 | 歴史人物伝
 2006年11月9日に紹介した「尊子内親王」に引き続き、今回も賀茂斎院に卜定された内親王のお話です。彼女は何と57年にわたって斎院を勤め、文化的にも政治的にも大きな影響を与えました。その生き方もなかなか見事です。

 では彼女、選子内親王の生涯を年代を追ってみていきましょう。

☆応和四年=康保元年(964) 1歳

 四月二十四日、誕生。父は村上天皇、母は藤原安子(藤原師輔女)。同母兄に後の冷泉天皇、後の円融天皇がいました。

 しかし、誕生のわずか五日後、母の安子が崩御します。彼女を身ごもっているときからつわりに苦しみ、次第に衰弱し、無事に出産したものの間もなく世を去ってしまったのでした。このように、彼女の人生は、最初から波瀾含みでした。

 この年の八月、内親王宣下されます。


☆康保四年(967) 4歳

 父、村上天皇が崩御します。幼くして両親を亡くしてしまった選子内親王は、母方のおじである兼通の堀川殿に引き取られ、兼通やその娘(女皇)子によって養育されたものと考えられます。


☆天延三年(975) 12歳

 賀茂斎院に卜定される。母の喪によって退下した尊子内親王(冷泉天皇皇女)の後任。


☆貞元二年(977) 14歳

 紫野の斎院御所に入る。

 これより円融、花山、一条、三条、後一条の五代、五十七年間にわたって斎院として奉仕することとなります。斎院御所に入った選子内親王は、まさか自分がこんなに長きにわたって斎院を勤めることになろうとは、夢にも思わなかったと思われます。

 この年、斎宮に卜定された娘の規子内親王(村上天皇皇女)に付き従って伊勢に赴いた徽子女王と、歌の贈答をしています。

内親王の歌
秋霧の たちて行くらん 梅雨けさに 心をつけて 思ひやるかな

徽子女王の返し歌
よそながら たつ秋霧に いかなれや 野辺に袂は わかれぬものを

徽子女王は選子内親王を育ててくれた(女皇)子と親しかったので、彼女にとっては親戚の優しいおばのように思えたのかもしれませんし、何よりも、かつては、現在の自分と同じく神に仕える身であったことに、親近感を感じていたのでしょう。


☆長徳五年=長保元年(999) 36歳

 正月、一条天皇の中宮定子のもとに文を送る。

 一条天皇の寵愛を一身に受けながら、次第に道長によって圧迫されていく定子への励ましだったのでしょうか。いずれにしても、選子サロンと定子サロンとの交流がうかがえるエピソードだと思います。


☆寛弘7年(1010) 47歳

 四月、賀茂歳の折、一条大路の桟敷にて斎院の行列を見物していた藤原道長は、前を通りかかった選子内親王の車に向かい、外孫に当たる二人の皇子(後の後一条天皇と後朱雀天皇)を膝の上に抱き、「これはいか」と問いかけました。すると内親王は、さっと紅の扇を出してサインを送り、通り過ぎたといいます。権力者道長の問いかけにさっと答える…、なかなか政治感覚に優れています。
 その翌日、選子内親王と道長は、お互いに「皇子たちをたたえる」「斎院をたたえる」という意味の歌の贈答もしています。


☆寛弘九年=長和元年(1012) 49歳

 和歌によって菩提を得たいと願い、「発心和歌集」を編む。

 神に仕える斎宮や斎院は、仏教を忌み嫌うところがありましたが、選子内親王は若い頃から仏教に帰依していたようです。「発心和歌集」はそんな彼女の集大成とも言えそうです。


☆(万寿三年(1026) 63歳

 太皇太后藤原彰子(後一条・後朱雀天皇母)が出家。上東門院と称される。

 自分よりずっと若い彰子が出家したことにより、選子内親王もこの頃より出家願望が強くなってきたと思われます。


☆長元四年(1031)68歳

 九月二十二日、老病のためひそかに斎院を退下する。二十八日、叔父深覚を戒師として出家する。

 斎院という肩の荷を下ろし、念願の出家を遂げた選子内親王のほっとした姿が目に浮かんでくるような気がします。


☆長元八年(1035) 72歳

 六月二十二日薨去。

歌人としても知られ、勅撰集に三十七首、「玄々集」に二首選ばれています。。


 選子内親王は五代五十七年にわたって賀茂斎院として奉仕したことから、「大斎院」と呼ばれました。生涯のうちの約4分の3を斎院として神に仕えた彼女にふさわしい称号のように思えます。
 しかも彼女は、その歳月を無為に過ごしていたのではありません。神に仕えると同時に、斎院御所を精一杯明るく、楽しいものにしようと、常に努力をしていたようです。

 そんな斎院御所の様子は、二つの家集によって知ることができます。

「大斎院前御集」は、選子内親王が二十代の頃の斎院御所の日常生活を、選子と女房たちの歌のやりとりを中心につづった歌集です。孤絶した閑雅な斎院では歌司・物語司などの擬職掌(長官・次官など)を置き、日常生活や風流を楽しむさまがこの歌集からうかがえます。
 そして、「大斎院御集」には、円熟した五十歳代の頃の選子内親王の歌が収められています。当時の貴族たちとの盛んな交流の様子もうかがえて興味深い歌集のようです。

 また、選子内親王の優雅で機知に富んだ聡明なふるまい、藤原道長一門や後宮との交流は「栄花物語」「大鏡」「枕草子」「古本説話集」といった古典文学にも描かれています。

 つまり、斎院御所は、一条天皇後宮の定子サロンや彰子サロンと並んで、華やかな一大文化サロンを形成していたのでした。

 ところで、選子内親王の、「何か面白い物語はないかねえ」というお声掛かりで、彰子つきの女房であった紫式部が「源氏物語」を書き始めたという話も伝わっています。しかし、紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは宮仕えに出るはるか前のことだと思われますので、この話は誇張があるように思えます。ただ、選子内親王も「源氏物語」の愛読者であっただろうことはほぼ間違いなさそうです。選子内親王サロンでは冊子作りも行っていたようなので、「源氏」の写本や製本もやっていたかもしれませんね。

 紫式部は選子内親王サロンにはライバル意識を持っていたようですが…。弟惟規の恋人であった中将という、選子内親王つきの女房を痛烈に批判しています。(紫式部日記)しかし、これも裏を返せば、紫式部は華やかな選子内親王サロンに密かにあこがれていたのではないかという推察もできると思います。

 そんなサロンの女主人であった選子内親王は、きっと明るく朗らかな性格で、常に物事を前向きに考えるタイプの女性だったように思えます。「一緒にいて楽しい人」だったのでしょうね。
 さらに彼女は、与えられた斎院という使命を素直に受け入れ、その環境で精一杯生きていたという気がします。

 出家後の彼女の生活についてはよくわかりませんが、明るい性格の彼女のことですから、念仏三昧の生活の合間合間に小さな楽しみを見つけたり、周りの女房たちとのおしゃべりを楽しんでいたりしたことが充分考えられます。そして何よりも、念願の出家を果たしたことに満足し、安らかな晩年だったと思われます。

☆参考文献
 「平安時代史事典」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「内親王ものがたり」 岩佐美代子 岩波書店


藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ

2006-11-26 09:59:13 | 歴史人物伝
 私がこの女性のことを初めて知ったのは今から20年ほど前、永井路子さんの「この世をば」を読んだときでした。とにかく強烈なイメージでした。「みやびでなよやかな印象を持っていた平安時代にこんな強い女性がいたんだ~」とびっくりし、同時に何となく嬉しくもありました。
 今回の人物伝では、そんな女性、藤原詮子を紹介したいと思います。

 では、彼女のプロフィールからどうぞ。

☆藤原詮子 (962~1001)
 父・藤原兼家 母・藤原時姫(藤原中正女)。同母兄に道隆と道兼、同母姉に超子(冷泉天皇女御・三条天皇母)、同母弟に道長がいました。

 彼女の子供時代についてはわかりません。ただ、彼女の後年の行動から、どんな子供だったかを推察することはできると思います。

 詮子の姉の超子は、天元五年(982)正月、庚申待ちの明け方に若くして急死してしまいます。そのようなことから、何となくはかないイメージを受けます。
 それに対して詮子は、なかなかきかん気でおてんばな姫さまだったのではないでしょうか。道兼は詮子の1歳上の兄ですが、彼女は年の近い兄にライバル心を燃やし、口げんかをすることもあったかもしれません。

 そんな詮子は、17歳の時に人生の転機を迎えました。
 天元元年(978)八月、詮子は円融天皇の後宮に入内します。同年十一月に女御となり、「梅壺女御」と呼ばれました。
 当時、円融天皇の後宮には、藤原兼通女の(女皇)子、藤原頼忠女の遵子がいましたが、天皇にはまだ皇子が生まれていませんでした。負けず嫌いの詮子は、「私が絶対に帝の第一皇子を生んでやる」と思っていたことは充分考えられます。しかしそれは彼女の負けず嫌いの性格のためだけではなく、自分が帝の第一皇子を生むことによって父兼家を天皇の外戚にし、我が家に運を開かせるという強い信念もあったのではないかと思います。

 その強い決心と信念を貫いた詮子は、天元三年(980)六月一日、里邸の東三条第にて、円融天皇の第一皇子を出産します。
「皇子のご誕生ですよ。」と告げられた詮子は何を思ったのでしょうか。「私は他の女御たちに勝った。これでわが父も運が開ける。」と思ったことでしょう。兼家の喜ぶ顔も目に浮かんできそうです。

 皇子はその年の八月に親王宣下され、「懐仁」と名付けられました。
 しかし詮子は内裏には戻らず、東三条第に居続けたようです。というのは、その年の十一月に内裏が消失しているのですが(当ブログの「尊子内親王」の項を参照して下さい)、詮子が内裏から避難したという記録がないようなのです。しかも円融天皇と他の妃たちとの贈答歌は残っているようですが、詮子との贈答歌は一種もないようなのですよね。
 こうしてみると詮子は、懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられますが、もし詮子が立后していたら、その後の彼女の人生も変わっていたかもしれません。

 天元五年三月、、円融天皇が皇后に選んだのは詮子ではなく遵子だったのでした。兼通女の(女皇)子はこの3年前に世を去っており、詮子のあとに入内したもう1人の女御尊子内親王はしっかりした後ろ盾がないため、円融天皇も立后を考えなかったようです。

 皇后になることができなかった詮子は「悔しい!帝の皇子を生んでいるのはこの私なのに…」と思ったことでしょう。しかも、遵子が皇后として意気揚々と参内する途中、その行列が東三条第の横を通ったとき、参内の伴をしていた遵子の弟の公任が
「こちらの女御さまはいつ后になるのでしょうね。」
と言ったものですから、詮子の悔しさは言葉では言い表せないものだったと思われます。父兼家も円融天皇に対し、不快をあらわにしたと言われています。

 上で私は、「詮子は懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられる」と書きましたが、少なくても天元五年の正月頃までは、自分の進むべき道をどうするか迷っていたところがあったと思います。
「内裏も再興されたし、そろそろ懐仁を連れて帝のもとに戻っても良い」
と、詮子は考えていたのかもしれませんが、自分が后になれないことを知った時点で、完全に円融天皇から離れたのではないかと思います。
「私は藤原氏側の人間として、父のため、兄弟のため、息子懐仁のために生きよう。」
と、詮子は決心したのではないでしょうか。

 その二年後、円融天皇は皇太子の師貞親王に譲位をします。つまり花山天皇です。そして、花山天皇の皇太子には詮子の生んだ懐仁親王が立てられます。円融天皇が譲位し、懐仁親王を皇太子にした理由の一つには、兼家や詮子の不快を和らげようとしたためだとも言われています。
 ともあれ、詮子は一応、皇太子の母となったわけです。しかし、花山天皇はまだ若く、いつ譲位するかわかりません。
 ただ、花山天皇は外戚の力が非情に弱い天皇でした。そこで兼家は、謀略を持って花山天皇を退位させます。
 つまり、寵愛していた女御に先立たれて気落ちした花山天皇につけ込んだのです。五位蔵人として天皇に使えていた兼家の息子道兼は、「一緒に出家しましょう」と言って天皇をだまし、内裏から連れ出してしまいます。そして天皇の出家を見届けると、さっさと逃げ出してしまいます。天皇が「だまされた」ということに気がついたときはもう、三種の神器は懐仁親王のもとに移っていました。

 こうして寛和二年(986)六月、懐仁親王は踐祚します。つまり一条天皇です。詮子は天皇の母として皇太后に立てられることとなりました。

 この花山天皇退位事件に詮子が関わっていたかどうかはわかりませんが、この謀略の計画を事前に明かされていたことは間違いないと思います。そして謀略が成功したことを聞いたとき、詮子の頭に浮かんだことは「私は勝った!遵子にも、円融上皇にも…」ということだったのではないでしょうか。

 かくして詮子は、絶大な力を持つこととなります。つまり、詮子は、天皇の祖父として摂政となった兼家の片腕役だったと考えて良いと思います。それだけ、彼女は強い政治力の持ち主でした。このように外祖父・母后・天皇の3人がそろっているときにこそ、摂関政治は絶大な効果を発揮していたのでした。

 永祚二年(990)七月、その兼家が世を去ります。兼家の跡を継いだのは詮子の兄の道隆。あるじを失っても詮子ファミリーは外戚として絶大な力を持ち続けました。
 翌正暦二年(991)九月、詮子は落飾します。しかし、世を捨てたわけでは決してありません。詮子はその時に「東三条院」という院号を授かり、上皇並みの待遇となったのでした。そして、この「東三条院」がその後、何十人もの后や内親王に授けられることになる女院号の始まりでした。詮子の発言力はますます強くなっていったことは言うまでもありません。

 その発言力が最も発揮されたのが、長徳元年(995)五月の道長政権誕生の時だったのではないかと思います。

 長徳元年は激動の年でした。まず、以前から病気であった関白道隆が四月に世を去ります。その直後、西の方からやってきた伝染病が京で流行し始め、公卿・殿上人が次々と死んでいきました。道隆のあとを継いだ道兼も、関白に任じられて十日あまりで世を去ってしまいます。

 そこで次期関白の候補となったのは、道隆の嫡男で内大臣の伊周(22歳)と、道隆や道兼・詮子の弟で権大納言の道長(30歳)の二人でした。
 詮子が押したのは自分のお気に入りの弟の道長でした。しかし、一条天皇は首を縦にふりませんでした。
 というのは、当時一条天皇の後宮には、故道隆の娘、中宮定子がただ一人の后としてときめいており、天皇はこの定子を大変愛しておられました。そこで天皇は、父親を失ったばかりの定子の頼もしい後ろ盾として、伊周に関白になってもらおう…と密かに決心していたようなのです。

 そんな天皇の心中に感づいた詮子は非常手段に出ることになります。何と、夜中に天皇の寝所に押しかけていったのでした。
「道兼どのに関白の宣旨を下したのに、道長どのに下さないなんてかわいそうではないの。」
「伊周どのはまだ若くて頼りにはなりません。道長どのこそ、頼りになる御方です。」
と涙ながらに訴え、とうとう天皇に、「道長に内覧の宣旨を下す」ことを承知させます。内覧…と言っても、実質的には関白とほとんど変わりませんので、詮子はここでも自分の信念を貫き通したことになります。

 詮子はどうして、道長政権にこだわったのでしょうか?
 「兄弟の中で一番仲の良い、お気に入りの弟に政権を取らせてあげたい」という姉としての気持ち、「息子が大切に思っている嫁の定子に対する嫉妬新」などももちろんあったでしょうが、それとは別な気持ちが詮子にはありました。
 詮子は、伊周や定子ではなく、彼らの母の実家、高階一族を嫌っていたのではないでしょうか。
 実は、関白となった道隆は、妻貴子の実家である高階一族の人々を大変優遇しているのです。貴子の父、高階成忠を従二位に叙したり、貴子の兄弟たちの官位を上げたりしています。元々受領階級である高階一族を、詮子は一段低く見ているところがありました。もし伊周が関白になったら、母方の親戚である彼らの発言力はぐっと強くなります。そのような事になるのは絶対に嫌…と、詮子は思ったのでしょう。
「伊周が関白になったら、権力があちらに移ってしまうかもしれない。それなら、藤原摂関家と帝を守ることができるのは私と道長どのだけ…」
と考えた詮子は、何が何でも天皇を説得しなければ…という、強い信念があったと思われます。彼女はこの時、藤原摂関家の強い女あるじぶりを発揮したとも言えそうです。

 さて、その後の詮子ですが……、残念ながら彼女は、その後間もない頃から次第に健康を損ねるようになります。
 翌長徳二年(996)三月、病により院号及び年官年爵を辞しています。。長保元年(999)八月、慈徳寺の落慶供養を行ったり、また、洛北長谷の地に解脱寺を建立したりしています。次第に健康を損ねていった詮子は、急速に仏教に帰依するようになったことがうかがえます。

 長保三年(1001)十月、道長は自邸の土御門第にて、詮子の四十の賀を催しました。道長の詮子に対する長年の感謝の気持ちの表れだと思われます。
 その約半月後、詮子は石山寺詣でをしています。この時期までは、まだ、外出できるほどの病状だったと思います。「藤原摂関家の女あるじとして、私はまだ倒れるわけにはいかない」という強い気力もあったかもしれませんが…。

 しかし、その年の閏十二月十六日、詮子は病の重きにより、法橋覚運を戒師として出家。翌日東三条院別当である藤原行成第に渡り、二十二日に崩御しました。まだ早すぎる40歳でした。最晩年には、長保二年に誕生と引き替えに母后定子を亡くした(女美)子内親王を引き取って慈しんでいたと言われています。

 こうして彼女の生涯を眺めてみると、まさしく実家のため、父のため、弟のために全力投球で生き抜いた人生だったという感じがします。更に、「思ったことは必ずやり遂げる」という強い意志を持って生きていたような気がします。
 また、彼女の強い政治力は、院政期の美服門院や丹後局、鎌倉時代の北条政子などにも通じる者があるような気がします。もう少し注目されてもよい女性だと思います。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「人物叢書 一条天皇」 倉本一宏 吉川弘文館
 「大鏡 全現代語訳」 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫
 

尊子内親王 ~「火の宮」と呼ばれた皇女

2006-11-09 00:17:55 | 歴史人物伝
 今までの人物伝では、わりと幸運な人生を送ったと思われる人々を紹介してきましたが、今回は悲運の内親王を紹介したいと思います。
 彼女はごく幼いときに賀茂の斎院となり、のちに入内もしていますが、次々と肉親に先立たれ、そのため後ろ盾もなく、ついには出家をしてしまい、若くしてこの世を去ります。しかし、その生き方には何か一本筋が通ったものを感じましたので、ここに紹介させていただきたいと思います。

 では彼女、尊子内親王の生涯を年代を追って紹介しますね。

☆康保三年(966) 1歳
 誕生。父・冷泉天皇。母・藤原懐子(藤原伊尹女)。
*同じ年に、のちに摂政太政大臣となって栄華を極めることとなる藤原道長も誕生しています。

☆康保四年(967) 2歳。
 父、冷泉天皇が踐祚したことによって内親王宣下される。

☆安和元年(968) 3歳
 賀茂の斎院に卜定される。
*同母弟師貞親王(後の花山天皇)がこの年に誕生しています

☆安和二年(969) 4歳。
 父、冷泉天皇退位。円融天皇踐祚。皇太子には尊子内親王の同母弟師貞親王が立てられる。安和の変により、左大臣源高明が失脚。

☆天禄三年(972) 7歳
 2月3日、外祖父藤原伊尹が斎院御所において、内親王のために子日(ねのひ)の遊びを催した際、清原元輔が斎院御所の松と内親王をたたえる歌を詠んでいます。幼い内親王にとって、こういった華やかな遊びの宴は心ときめくものだったと思われます。

 しかしその年の十一月、伊尹は49歳で薨じます。かわいがってくれた祖父の死は、内親王にとっては悲しい出来事だったことでしょう。

☆天延元年(973) 8歳
 十二月、斎院御庁の建物が焼失。

☆天延二年(974) 9歳。
 母方のおじ、挙賢と義孝が流行病により同日に死去。二人は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮中の人気者で、大変な美男子だったと伝えられています。二人が同日に卒したことについては、藤原朝成の怨霊のせいではないかと噂されました。

☆天延三年(975) 10歳
 母、藤原懐子が薨じます。内親王は母の喪によって斎院を退下します。次々と訪れる肉親の死を、幼い内親王はどのような気持ちで受け止めていたのでしょうか…。

*余談ですが、尊子内親王の後任は、のちに「大斎院」と呼ばれることとなる選子内親王(村上天皇皇女)です。

☆天元元年(978) 13歳
 四品に叙される。

☆天元二年(979) 14歳。
 円融天皇の皇后であった(女皇)子(藤原兼通女)が崩御。尊子内親王は、皇后の死を悼み、円融天皇に歌を送りました。

内親王の歌
 亀の上の 山をたづねし 人よりも 空に恋いふらむ 君をこそ思へ

円融天皇の返歌
 たづぬべき 方だにもなき 別れには 心をいづち やらぬとぞ思ふ

 幼いときに多くの肉親に先立たれた内親王は、天皇の哀しみが自分の哀しみのように思えたのかもしれません。

☆天元三年(980) 15歳
 前年の歌の贈答が縁になったかどうかははっきりわかりませんが、10月、円融天皇の薦めで入内し、「麗景殿の女御」と呼ばれることとなります。しかしその翌月、内裏が焼失してしまいます。先に斎院御庁が消失したこととも重なり、世間から「火の宮」とあだ名されることとなります。

☆天元四年(981)
 十月、内裏復興。

☆天元五年(982) 17歳
 正月、参内。承香殿に入り、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。二品に昇叙。

 4月、頼りにしていたおじの藤原光昭が世を去ります。
 この光昭という人、父はもちろん藤原伊尹です。母は一般的には不詳とされていますが、一説によると歌人の井殿(光孝源氏の源信明と中務の間の娘)と言われています。中務は歌人伊勢と敦慶親王(宇多天皇皇子)の間の娘なので、もしこれが事実なら、光昭は伊勢の曾孫ということになります。「中務集」の詞書きによると、中務は井殿・光昭母子のほか、尊子内親王の女房と推定される「宮の君」という女性とも同居しており、そのことが尊子内親王と光昭との関係を深くしていた要因ではなかったかと思われます。

 尊子内親王は、祖父伊尹を始め、母方の多くの有力な肉親に先立たれており、父の冷泉天皇は狂気のため全く頼りになりませんでしたので、上で述べたようなことからも、おじの光昭は最も頼りにできる人物でした。その光昭を失った哀しみは計り知れないものがあったと推察されます。

 光昭の死後間もなく、内親王は誰にも知らさず、自ら髪を切って内裏を退出しました。つまり有髪の尼となって出家したということになります。当時の高貴な女性の出家は頭を丸坊主にするのではなく、肩のあたりで切りそろえる…というのが習わしだったようです。

☆永観二年(984) 19歳
 冷泉・円融両帝に仕えた漢学者の源為憲が、絵入りの仏教説話集「三宝絵」を著し、尊子内親王に寄進しました。仏に仕える毎日を送る中、この本を見ることにより、内親王はどんなに心を慰められたことでしょうか。

*この年、円融天皇退位。同母弟師貞親王が花山天皇として踐祚しています。

☆寛和元年(985) 20歳
 四月、受戒。それまでは有髪の尼だったと思われますが、この時に髪を全部切り、正式に出家したものと思われます。多分彼女はこれ以前から病におかされており、快癒を願って受戒したのではないかと思います。しかしその甲斐なく、翌5月に世を去りました。享年二十。少しも心乱れず、安らかな最期であったと伝えられています。

 「池亭記」を著した慶滋保胤は、尊子内親王の四十九日のための願文を書きました。
 その中で保胤は、、「出家というものは老年で寡婦であるか、病弱で両親のない者がするものであるが、内親王は先帝の女御、今上帝の姉宮という貴い身分で出家をしてしまった。これは仏の化身に違いない。」と述べています。


 尊子内親王は、「いみじう美しげに光るやう」(『栄花物語』)と言われるほどの美しい姫宮でした。また、源為憲が心をこめて仏教説話集を送ったこと、慶滋保胤が彼女をたたえる願文を書いていることなどから、誰からも好かれる清らかで優しい心の持ち主だったと思われます。

 しかし、藤原伊尹の子や孫の多くが出家をしたり、若くして世を去っている例にもれず、彼女も若くして亡くなってしまいます。せっかく入内したものの内裏が焼け、「火の宮」と呼ばれ、やがて出家してしまう…、一見すると運命にもてあそばれた悲劇の内親王のようにも見えますが、ただ一つ言えることは、彼女は自分の意志で、生きるべき道を選び取ったということです。

 円融天皇は尊子内親王に愛情を注いでいたようですが、彼の後宮には、藤原遵子(藤原頼忠女)、藤原詮子(藤原兼家女)といった女御がいました。二人とも、実家の後ろ盾がしっかりした女御です。その上、内親王が出家した頃の円融天皇は、遵子を立后させるという内意を頼忠に伝えておきながら、第一皇子懐仁親王を産んだ詮子にはばかり、なかなかそれを実行できないでいるという状態でした。こんな風に、円融天皇の後宮では、二人の女御の激しい権力闘争が渦巻いていたのです。

 そんな中、しっかりした後ろ盾のない内親王は、後宮で孤独を感じざるを得なかったのではないかと思います。そしてその折々に思い出すのが、幼い頃に過ごした斎院御所だったのではないでしょうか。神に仕える清らかな日々をなつかしく思い出していたのかもしれません。そこで、光昭という頼りにしていたおじの死をきっかけに、自分の意志で髪を下ろし、仏に仕える道を選んだのではないでしょうか。最初の方でも書きましたが、何か一本筋が通った強いものを感じます。

 彼女の生涯は大変短いものでしたが、特に出家後の彼女が安らかな気持ちで、充実した日々を過ごしたことを祈りたいです。

☆参考文献
 内親王ものがたり 岩佐美代子 岩波書店
 中務 三十六歌仙の女性 稲賀敬二 新典社
 

(女専)子女王 ~神がかりした斎宮

2006-07-06 12:36:58 | 歴史人物伝
 平安時代の女性というと、やはり紫式部、清少納言、和泉式部などの女流文学者たちが有名だと思います。しかし、たとえ知名度はなくても彼女たちに負けないくらい、劇的な
生涯を送った女性がたくさんいます。

 今から紹介する(女専)子(せんし)女王もそんな劇的な生涯を送った女性の一人だと思います。
 とは言うものの、私は彼女について2年ほど前まではほとんど知りませんでした。しかし彼女は斎宮だった時に有名な事件を起こし、斎宮退下後にもまた、思いがけない人生が待っていたのでした。そのことを知り、私は彼女に大変興味を持ちました。

 では、彼女の生涯について、書かせていただきたいと思います。

☆(女専)子女王(1005~1081)
 父は村上天皇の皇子具平親王 母は為平親王の女。同母の姉に藤原頼通室の隆姫女王、一条天皇と藤原定子の間に生まれた敦康親王の室となった女性、弟には村上源氏の祖となった源師房がいます。また、異母兄弟には紫式部のいとこ藤原伊祐の養子になった藤原頼成がいます。

 寛弘六年(1009)、(女専)子5歳の時、父の具平親王が世を去ります。具平親王は漢詩、管絃、学問などに造詣が深く、人柄も大変優れた人物でした。幼くして父を失ったことは彼女にとっては大きな不幸だったと思われます。

 長和五年(1016)、三条天皇が退位し、故一条天皇と藤原彰子との間に生まれた敦成親王が後一条天皇として踐祚します。
 そして当時、御世代わりとともに卜定されるのが伊勢の斎宮でした。斎宮というのは、天皇に代わって伊勢神宮の神に奉仕する未婚の内親王または女王のことで、奉仕する期間は原則として天皇の御世一代の間…ということになっていました。
 そして後一条天皇御代の斎宮に、(女専)子女王が選ばれたのでした。(女専)子女王は、斎宮に卜定されてから1年余りを初斎院で過ごし、その後1年を野宮にて潔斎を受け、寛仁二年(1018)秋に伊勢に出発することとなります。

 十代の半ばという多感な年頃であった(女専)子女王はどのような気持ちで伊勢に下っていったのでしょうか。今度京に戻ってくるのは後一条天皇が退位または崩御したとき、あるいは(女専)子女王の近親者の不幸によって喪に服すときのどちらかです。彼女が親しい人たちと引き離されて伊勢に赴かなければならないことを哀しんでいたのか、それとも未知の土地に行くことで心躍らせていたのか、彼女の心中は今となっては想像するしかありません。しかし、彼女が後年、起こすことになる事件のことを考えると、やはり不安な気持ちの方が強かったかもしれません。

 万寿二年(1025)の秋、彼女は女性の成人式である裳着を執り行います。20歳を過ぎてからの裳着はちょっと遅いような気がしますが、やはり斎宮という特別な立場であったことから裳着の時期も遅れてしまったのでしょうか。
その裳着の儀式の勅使として京からやってきたのが源資通(宇多源氏)という人でした。彼は「更級日記」の中で作者菅原孝標女と春秋の歌を取り交わしている公達であろうと推定される人物でもあります。「更級日記」には、資通と推定される公達が孝標女に向かって、万寿二年に斎宮の御裳着の勅使として伊勢に下った(このことが、この公達が源資通であろうと推定される根拠になっているようです。)ことを語る場面もあります。
 いずれにしても(女専)子女王にとって、京からの勅使を招いての自分の裳着は、人生のビッグイベントだったと思われます。

 さて、斎宮に卜定されて十余年、いつ終わるともしれない神に仕える日々を、彼女はどのような思いで送っていたのでしょう。天皇に代わって神に奉仕することに誇りを感じていながらも、彼女は悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。そしてその彼女の悶々とした気持ちが爆発する日がやってきます。

 長元四年(1031)六月十七日、暴風雨の伊勢神宮にて、(女専)子女王は突然神がかってしまったのでした。
 彼女が絶叫を始めたのは、太玉櫛を神宮に捧げるという大切な儀式の直前でした。「我は神宮別宮の荒祭宮である。」と叫び、斎宮寮の頭である藤原相通とその妻が勝手にのりとを作り、内宮外宮の御座所と称して連日連夜神楽を行い、狂乱している事などの不正を糾弾したのでした。
 またその当時、「天皇家は百代で滅びる。」という思想がありました。長元四年当時、天皇家はすでに六十数代を数えていました。なので(女専)子女王は「天皇家は下り坂じゃ!」とも言ったとか…。

 その後(女専)子女王は、「歴代の斎宮には罪がない。特に我は優れた斎宮である!」と叫んで浴びるほど酒を飲み、祭主大中臣輔親(百人一首61番の歌の作者伊勢大輔の父)と歌の贈答までやってのけたのだそうです。
 とにかく彼女は心神喪失状態でしたので、周りの人たちもどうすることもできず、ただ呆気にとられてながめているだけ……という感じだったのだと思います。

 この事件のことは早々に、使いによって京の朝廷に知らされたものと思われます。「斎宮が神がかりをして託宣を行うなど前代未聞…」と、京の朝廷ではかなりの騒ぎになったようです。
 そこで関白藤原頼通は公卿を集めてこの事件に対する詮議を行いました。その結果、藤原相通とその妻は供に流罪と決定されます。しかし(女専)子女王には何のおとがめもありませんでした。

 この事件は、その後の斎宮制度に少なからず影響を与えました。まず、斎宮の役所である斎宮寮の権力が衰退します。その代わり斎宮本人が重視されるようになったようです。また、平安中期の斎宮は、三条天皇皇女の当子内親王などの例外はあるものの、天皇の二世、三世の「女王」が多く、斎宮制度も衰退の一途をたどっていたのですが、その後は内親王が卜定されることが多くなり(次の後朱雀天皇御代の斎宮は、後朱雀天皇皇女良子内親王)、斎宮制度も復活をとげることとなります。やはり女王よりも内親王の方が権威は上…ということでしょうか。

 話を(女専)子女王に戻します。
 (女専)子女王にとっては、斎宮という神に仕える自分の立場を誇らしく思いながら、同時に自分がただの飾り物にすぎないことが辛くてたまらなかったのかもしれません。そこで斎宮寮の頭である藤原相通の不正を糾弾し、自分の立場を主張したのでしょう。しかし、鬱屈したその気持ちを「神がかり」「託宣」という形でしか主張できなかった彼女の心中を考えると痛ましく思えます。
 (女専)子女王はその後5年間、何もなかったように斎宮として伊勢で過ごし、長元九年(1036)の後一条天皇崩御と供に斎宮の任を解かれて帰京します。彼女はすでに32歳になっていました。

彼女が帰京後しばらく、どこに住んでいたかについては不明です。そして普通なら彼女も、斎宮を退下した多くの内親王や女王のように独身を通し、忘れられた存在になっていったかもしれません。しかし、最初の方で触れたように、彼女には思いがけない後半生が待っていたのでした。

 斎宮を退下して15年ほど経った永承六年(1051)頃、(女専)子女王が結婚……。その相手は関白頼通の同母弟、つまり藤原教通その人でした。
 教通は(女専)子女王と結婚する前に二人の正室を迎えていましたが、不幸にも次々と先立たれていたのでした。そこで(女専)子女王が3人目の正室として教通と結婚したわけです。

 では、どうして(女専)子女王が教通と結ばれることになったのでしょうか?

 実は具平親王の子供達は教通の兄頼通と深い縁で結ばれていました。長女隆姫女王は頼通の正室ですし、次女であるその妹と敦康親王との間に産まれた女児は頼通の養子となり、「藤原(女原)子」と名乗って後朱雀天皇の許に入内することとなります。また、嫡男の源師房も頼通の養子となり、一時はその後継者と見なされていたこともありました。

 上の方で私は、「斎宮退下後の(女専)子女王がどこに住んでいたかは不明」と書きましたが、以上述べてきたようなことから斎宮退下後の(女専)子女王も、頼通の庇護の許に置かれていたと考えられるような気がします。そして、頼通・隆姫女王夫婦のお声がかりで教通と結ばれたのではないでしょうか。
 教通は後年、頼通の後を受けて関白となった人物ですから、(女専)子女王は最後には関白夫人となったわけです。    彼女が幸せであったかどうかは史料が残っていないので推察するしかありませんが、教通が亡くなったときに彼女が大変悲しんだ……という話も伝わっているようです。なので二人は仲の良い夫婦で、幸せな日々を送っていたのではないかと……、そうあって欲しいと、私は思っています。

 幼い頃に斎宮に卜定されて伊勢に下り、悶々とした日々の中で斎宮託宣事件を起こし、斎宮退下後に結婚して関白夫人に。なかなかドラマティックな人生を送った(女専)子女王。彼女がどんな女性だったかは想像するしかありませんが、自分の考えや意志をしっかり持った、なかなか頼もしい女性だったように思えます。


(付記1)ちょっと余談
 (女専)子女王が神がかりして託宣を行った長元四年六月十七日の伊勢神宮は、本文でもちょっと触れましたが暴風雨が吹き荒れていたそうです。この長元四年六月十七日を現在の暦であるグレゴリオ暦に返還すると、1031年7月15日になるそうです。と言うことは台風が来ても不思議ではない季節ですよね。なのでこの日の伊勢は、台風の影響で暴風雨が吹き荒れていたのでは…と、ちょっと妄想してしまいました。

(付記2)斎宮について
 天皇に代わって賀茂神社あるいは伊勢神宮の神に奉仕する内親王または女王については正式には「斎王」と呼ばれていました。しかし、この二つを区別するために便宜上、賀茂神社に奉仕する内親王または女王を「斎院」、伊勢神宮に奉仕する内親王または女王を「斎宮」と呼んでいたようです。そこで、この文章では「斎宮」で通させていただきました。

☆参考文献
 「伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち」 榎村寛之著 塙書房

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大弐三位藤原賢子 ー紫式部の娘

2006-03-11 11:25:37 | 歴史人物伝
 「百人一首」には、紫式部の歌「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲かくれにし 夜半の月影」(57番)と、その娘大弐三位の歌「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」(58番)と、親子二代の歌が並べられています。紫式部というと「源氏物語」の作者として有名ですが、その娘の大弐三位というと名前は知っている方は多いと思いますが、その生涯についてはあまり知られていないのではないでしょうか。
 そこで今回の人物伝では、その大弐三位の生涯についてまとめてみることにしました。

 大弐三位は本名を藤原賢子といい、長保元年(999)頃に誕生しました。父は右衛門権佐や山城守などを勤めた藤原宣孝、母は上記に述べたとおり紫式部です。

 長保三年(1001)、父の宣孝が流行病で薨じます。その後賢子は、紫式部や母方の祖父の藤原為時の手で育てられたと考えられます。そして賢子は15歳頃、皇太后藤原彰子の許に出仕したのではないかと推定されます。出仕した当時の女房名は、祖父為時の官職「越後守」と「左少弁」にちなんで「越後の弁」と言いました。
 なお従来は、賢子は母の死後に彰子の許に出仕したと考えられていましたが、最近の研究によると紫式部の没年は寛仁三年(1019)以降と推定されるため、賢子は母と一緒に彰子の許に出仕していたようです。そこで賢子は、母から直接宮仕えの心得を伝授されていたのではないでしょうか。

 しかし賢子は、宮仕えにあまりなじめなかった母とは全く違う道を歩むこととなります。
 元々賢子は、母よりも父宣孝に似ており、明るく朗らかで細かいことにこだわらない性格だったようです。そのせいか賢子はたちまち貴公子たちの人気者となり、藤原定頼(公任の子)、源朝任(道長室の倫子の甥)、藤原頼宗(道長の子)などの恋人ができました。

 そして二十代半ば頃、賢子に運命の転機が訪れます。道長の甥に当たる藤原兼隆との間に子供を身ごもったのでした。(角田文衞氏の説)しかしこれには異説があり、「尊卑分脈」に賢子と兼隆の間の子供の記載がないため、賢子の子供の父親は兼隆ではなく藤原公信(藤原為光の子)だという説です。(萩谷 朴氏の説)
 ちなみに賢子を主人公にした小説「猪名の笹原風吹けば 紫式部の娘・賢子(田中阿里子著 講談社 昭和61年刊行 現在は絶版のようです。)では、賢子の許へはその頃、兼隆と公信が同時に通ってきていました。そして賢子の身ごもった子供はどちらの子供ともとれるような書き方をしてありました。しかし賢子は公信のことを嫌っていたため、「この子は絶対に兼隆殿の子」と信じていました。そのためか巻末の登場人物系図でも、子供の父親は兼隆となっていました。
 結局、賢子は娘を産むことになるのですが、この娘がどちらの子だったかは私も判断がつかないので結論は差し控えますが、ここでは角田氏の説に従って兼隆の子ということで話を進めさせていただきます。

 万寿二年(1025)に産まれたこの娘のおかげで賢子は大きな幸運を得ることとなります。
 賢子が娘を産んだのと同じ万寿二年、春宮敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が皇子を出産したのです。しかし嬉子はお産の影響と流行病のために皇子を産むとすぐになくなってしまったのですが…。皇子は「親仁」と命名されたのですが、その乳母に娘を産んだばかりの賢子が選ばれたのでした。
 賢子は当時の太皇太后彰子からの信任も厚く、のちに述べるようにかなりの長寿を保ったことからみても体も丈夫だったため、乳母に選ばれたものと思われます。しかしその結果、兼隆とはだんだん疎遠になっていったのではないでしょうか。賢子はやがて兼隆と離別し、娘も兼隆に託したのではないかと思われます。そして彼女自身は宮仕えに専念していったのではないかという気がします。

 それから約10年近く経った頃、すでに三十代後半にさしかかっていた賢子に一人の男性が現れます。
 その人の名は高階成章…。今までの賢子の恋人たちのような公達ではありませんが、何カ国もの受領を歴任してばく大な財宝をため込み、しかも賢子より10歳年上の頼りがいのある男性でした。もっとものちに「欲の大弐」と言われることになる成章ですから、「出世のため」という魂胆で彼の方から春宮(その頃親仁は親王宣下され、父後朱雀天皇の春宮になっていました)の乳母に近づいていったのかもしれませんが…。やがて2人は結婚し、賢子は長暦二年(1038)、成章との間に男児(後の為家)を産むことになります。

 寛徳二年(1045)、親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、乳母である賢子は慣例によって従三位に叙され、典侍に任じられます。

 天喜二年(1054)、夫の成章は大宰大弐となって大宰府に下向、賢子は夫の官職にちなんで「大弐三位」と呼ばれることとなりました。
 賢子は天皇御乳母としての職務を遂行する一方、大宰大弐の妻としての役目も忘れず、夫の任地である大宰府にも下向しているようです。大宰府は母の書いた「源氏物語」のヒロインの一人、玉鬘が少女時代を送った土地です。大宰府に下向した賢子はそのことを思い出し、母のことを偲んでいたのかもしれません。
 天喜六年(1058)、成章は都へ帰ることなく大宰府で薨じます。終生の伴侶と決めた成章の死は賢子にとっては大きな哀しみだったことと思います。

 その後も、賢子は後冷泉天皇に献身的に仕えていたと思われますが、約10年後に人生で最も哀しい出来事が訪れます。。治暦四年(1068)、赤子の時から世話をしてきた後冷泉天皇は、まだ早すぎる44歳で、しかも皇子を残すことなく崩御されました。皇統は異母弟の後三条天皇に移ることとなるのですが、賢子にとっては後冷泉天皇の血を引く皇子が誕生しなかったことはさぞ心残りだっただろうなと察せられます。
 しかし賢子はまだまだ健在で、承暦2年(1078)に、内裏後番歌合にて、我が子為家の代詠をつとめているのです。この時、賢子は80歳になっています。
 彼女の没年は不明ですが、兼隆との間にもうけた娘や孫の源知房、あるいは成章との間にもうけた為家の世話を受け、平穏な晩年を送ったものと思われます。

 こうして彼女の生涯を見てみると、母の紫式部を反面教師にしていたような所があるように見受けられます。宮廷生活を思いっきり楽しみ、若い頃はたくさん恋をして、中年になってからお金持ちの頼りがいのある男性と結婚する、しかも天皇の乳母となって出世するなんて、現代に生きる私から見てもうらやましい人生です。もちろん彼女は彼女なりに苦労も悩みも哀しみもあったでしょうけれど、そこは彼女の明るくて前向きな性格で切り抜けていたのでしょうね。

 最後に、賢子は数々の歌合に出席し、「後拾遺集」以下の勅撰集に37首の歌が入集した優れた歌人であったこともつけ加えておきます。
 百人一首に取られた歌の意味は、有馬山の猪名から風が吹いてくるとあなたを思い出します。どうして恋するあなたを忘れることができるでしょうか。」という意味です。賢子は誰を思ってこの歌を詠んだのでしょうか。今では知るすべもありませんが…。


赤染衛門

2006-01-13 20:28:01 | 歴史人物伝
 やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

あなたが来て下さると言ったから、私はずっと待っていたのよ。
 待って、待って、とうとう月が西の空に傾くまで…。
でもあなたは来て下さらなかった。
こんな事ならさっさと寝てしまえば良かったわ。

素直な歌ですよね。「百人一首」の歌の中でも、私が最も好きな歌の一つです。

百人一首59番目の歌、作者は平安中期の女流歌人、赤染衛門です。

作者の赤染衛門の妹(姉とも)の許に、少将だった頃の藤原道隆が通っていました。その妹の許に、「今夜必ずそちらに行くよ。」と言ってきた道隆でしたが、とうとうその夜は来ませんでした。そこで赤染衛門が、妹に代わって代作したのがこの歌です。でも、代作と言うには惜しいくらい、恨んだりすねたりしている感情がよく表現されていると思います。。

 では、この歌の作者、赤染衛門とはいったいどのような人だったのでしょうか?

☆赤染衛門(957?~1046以降)
 平安中期の歌人。文章博士大江匡衡の妻。『栄花物語』の作者とも言われています。

 彼女は赤染時用の娘ということになっていますが、実は平兼盛の娘という説もあるようです。彼女の母は兼盛の妻でしたが離婚し、その後赤染時用の妻となりました。時用の妻になったとき、母は兼盛の子を妊娠していました。そして産まれた子が赤染衛門……というのです。でも、DNA鑑定のないこの時代のこと、真相は不明というより他はありません。

 なお平兼盛は光孝天皇の子孫で、百人一首40番目の歌で知られる歌人です。(当ブログの2005年7月9日の記事『田辺聖子の小倉百人一首』を参照して下さいね)

 赤染衛門は10歳前後の頃、源雅信の邸に出仕したと考えられます。そして最初は、雅信の娘倫子(964年生)の女童として、彼女の遊び相手のようなことをしていたようです。やがて倫子つきの正式な女房となり、ずっと後には彼女が藤原道長との間にもうけた一条天皇中宮彰子の女房として宮中にも出仕することになります。

 赤染衛門が、最初に紹介した百人一首にとられている歌を詠んだ時期は、藤原道隆が少将だった時期である天延二年(974)から貞元二年(977)の間ということで、彼女は十代の後半~二十歳頃だったと推定されます。

 そしてちょうどその頃、法華八講にて彼女を見そめた2人の男性がいました。
 その一人は大江匡衡、、もう一人は彼のいとこの大江為基でした。2人とも文章生出身の官僚で人柄も大変優れた人物でしたが、赤染衛門は為基の方に心を引かれ、彼との結婚を決意します。しかし為基は、親の薦める娘との結婚を決めてしまいます。
 傷心の赤染衛門は匡衡の愛を受け入れることとなります。しかし彼女は為基のことをどうしても忘れることができませんでした。
 こうして彼女は匡衡と結婚生活を送りながら、為基と歌のやりとりをしたり、時には会ったりしていたようです。しかし、この時代の結婚は大変不安定なものなので、必ずしも彼女を責めることはできませんが…。匡衡にとっては「赤染衛門を為基に奪われるのではないか…」と気が気ではなかったでしょうね。そして、この状態は10年近く続き、為基の「重病と愛妻の死による出家」によりピリオドを打つこととなります。

 その頃赤染衛門は匡衡との間に娘を産み、本格的に彼と同居するようになったようです。その後の彼女は、匡衡に協力する良き妻としての人生を歩むこととなります。長保三年(1001)には、尾張守となった匡衡に付き従い、尾張に下向しています。
 赤染衛門には、歌を詠むことによって夫や息子を出世させたり、住吉明神に歌を奉納することによって息子の病気を治したりと、様々な伝承が残っています。しかしそれらは、当時の貴族の日記との矛盾もあるようで、真偽のほどは疑わしいという説もあります。それはともかくとして、彼女が夫や子供達に尽くし、王朝の世をしたたかにたくましく生きたということは事実だと思います。長和元年(1012)に匡衡と死に別れ、その後長元四年に出家しています。没年は永承元年(1046)頃に彼女の家集が完成しているのでそれ以降のようです。つまり90歳過ぎくらいまで生きていたということになります。

 赤染衛門は交際範囲が広く、多くの友人を持っていました。先に書いたように、彼女は一条天皇中宮彰子の宮廷に出仕していたのですが、同僚女房の紫式部や和泉式部はもちろん、清少納言とも親しくつき合っていました。また、色々な人から歌の代作を頼まれてもいます。これは彼女が姉御肌的な性格で、誰からも慕われる人物だった証拠ではないでしょうか。特に、道長の妻倫子の彼女に寄せる信頼は並々ならぬものだったのではないかと思います。。

 あり得ないかもしれませんが、もしどこかの放送局が一条天皇の後宮を中心にした平安中期の宮廷を舞台にしたドラマを作ることがあったら、交際範囲の広かった赤染衛門をぜひナレーター役に起用して欲しいなと、密かに思っています。登場人物すべての情報に通じた彼女のナレーションはさぞ面白いのではないでしょうか。

藤原元子 ー天皇の女御から情熱的な恋愛へー

2005-06-05 00:32:59 | 歴史人物伝
 平安時代、ドラマチックな人生を送った女性は数多くいます。何人かの男性と恋をし、数多くの優れた歌を残した和泉式部もそのうちの一人だと思います。
 そして、彼女とほとんど同時代を生きた一条天皇女御の藤原元子も負けないくらいのドラマチックな人生を生きています。
今回は、この藤原元子についてお話ししますね。

 彼女の生没年はよくわかりません。天元二年(979)頃の生まれではないかと推定されていますが、没年はほとんどわかりません。ここでは、先に書いたように979年生まれとして話を進めさせていただきます。

 彼女の父は藤原顕光(藤原兼家の兄兼通の長男)といって、最終的には左大臣にまで昇進した人です。そして、母は村上天皇の皇女・盛子内親王です。ついでに言うと元子の父方の祖母、つまり顕光の母は陽成天皇の孫でした。
 つまり、元子は父方、母方ともに皇族の血を受けているわけです。そのような理由からかはよくわかりませんが、元子も同母兄の重家もかなりの美形だったようです。

 さて、美しく成長した元子は18歳の時人生の転機を迎えます。「おたくの姫様を時の帝、一条天皇の妃に…」という話が舞い込んだのでした。
 話を持ってきたのは当時一上の左大臣であった藤原道長でした。実は当時の道長は、少し微妙な立場でした。一条天皇の寵愛を一身に受けている中宮定子が懐妊していたのです。定子の父道隆はすでに薨じており、兄弟たちも失脚して流罪になっているとはいえ、定子に皇子が産まれたらたちまち勢力を盛り返してしまうかもしれません。道長の娘はまだ幼くて入内できない今、それだけは避けたい……。そこで思いついたのが他の女性を天皇に入内させることでした。そこで当時の右大臣顕光と、内大臣公季に娘の入内の話を持ち込んだのでした。

 道長のそんな心の中を知ってか知らずか、顕光は大喜びで元子の入内の準備を始めました。一条天皇の許に入内した元子は承香殿をあてがわれ、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。そして、幸い天皇に気に入られ、間もなく懐妊の兆しが現れたのです。顕光が腰をぬかさんばかりに喜んだのは言うまでもありません。「もし元子に皇子が産まれたら、わしは将来帝の外祖父だ!!」
 実はこの顕光という方、人はいいのですがかなりおっちょこちょいなところがありました。これは後の話ですが、儀式の時、順番を間違えて顰蹙を買ったこともあります。
また、道長の「この世をば…」の歌を日記に書き残した実資は、顕光のことを「無能の大臣」と痛烈に批判しています。そのように、他の公卿たちから馬鹿にされているような所がありました。なので、「顕光が帝の外祖父になる?これは世の中がひっくり返る……。」と当時の公卿たちは思っていたかもしれませんね。

 さて、懐妊した元子は意気揚々と承香殿を退出しました。同じ頃入内した公季の娘義子(こちらは弘徽殿の女御と呼ばれていました。)はさっぱり懐妊の兆しがなかったので、悔しくてなりません。そこで、「承香殿の退出を見物してやろう。」ということで、みんな御簾に張り付いてしまったので、外から見ると御簾がふくらんでいるように見えたといいます。そこで、元子の女童が「あら、こちらはすだれだけがはらんでいるわ!」と言ったとか…。

 出産のために内裏を退出して実家の堀河殿に里下りした元子でしたが、産み月になってもさっぱり出産の兆しがありませんでした。顕光は心配になり、父娘共々広隆寺に参詣することにしたのでした。その甲斐があったのか、元子は広隆寺で産気づいてしまいます。顕光はびっくりするやら嬉しいやらでおろおろ。しかし、元子の体内から出てきたのは赤ちゃんではなく、大量の水でした。……
 これは、「栄花物語」に載っている話ですが、史実は多分、死産だったのではなかったかと思います。どちらにしても、顕光・元子親子にとっては恥ずかしさとやり切れなさのあまり、どうしていいかわからないという状態だったと思います。なぜならば、出産の場所がお寺だっただけに、都中に噂が広まってしまいましたから…。
 しかも、意気揚々と内裏を退出した上、女童の不用意な発言ゆえ、元子は恥ずかしくて内裏に戻ることもできませんでした。その上、母の盛子内親王がその頃世を去り、元子自身もショックから体調を崩していたようです。
 心身ともに傷つき内裏に戻れないでいた元子に対して、一条天皇は「早く内裏に戻っておいで。」と何度も文を下さいました。一条天皇は本当に優しい方だったようです。そこで元子はようやく内裏に戻る決心をしたのでした。

 ちょうどこの頃に、一条天皇の周りでは大きな変化が起こっていました。長保元年(999)、12歳になった道長の娘彰子が入内します。彰子は翌年女御から中宮となり、中宮定子は皇后と称することになりました。そしてその年の暮れ、定子は3人目の子供を産んで間もなく崩御されました。一条天皇が悲しまれたことは言うまでもありません。
 元子が内裏に戻ったのは、そのように一条天皇の周りがあわただしく変化しているときでした。そして定子亡き後の一条天皇の寵愛を、一番強く受けたのは他ならぬ元子だったのです。

 一条天皇の元子に対する愛情の現れにこんな話があります。
 一条天皇は、藤原顕光の家司であった平維衡を伊勢守に推薦したのでした。ちなみに平維衡は、平忠盛・清盛の直系の祖先に当たる人物です。
 しかし維衡は色々問題のある人物でした。伊勢国において平致頼と合戦をした前歴があるのもその一例ですが、何よりもその伊勢に自分の本拠地を持っていたのが問題でした。その頃は、○○国に本拠地を持っている者は、同じ○○国の受領には任じないというのが決まりになっており、一種の常識でもありました。つまり、「維衡を伊勢守に」と言う一条天皇の推薦は、とんでもない常識はずれなことだったのです。そこまでして維衡を伊勢守にしようとしたのは、維衡が顕光の家司だったからでしょうね。つまり、一条天皇は元子の父である顕光に手をさしのべたかったのだと思います。しかし、維衡は寛弘三年正月二十八日の除目で伊勢守に任じられたものの、同年三月十九日に解任されます。道長が一条天皇を圧迫し、維衡の伊勢守を解任させたと思われます。

 そこまでして元子を寵愛した一条天皇でしたが、道長の権力が絶大なものになってくると、彰子を放っておくわけにはいかなかったようです。何よりも、彰子は性格が素直で優しく、定子の忘れ形見の敦康親王を自分の子のように可愛がっていたといいます。そんな彰子に対して一条天皇も徐々に愛情を感じ始めたのかもしれません。やがて二人の間には二人の皇子が産まれました。そして、それと反比例するように元子の影は薄くなっていったのではないでしょうか。

 寛弘八年(1011)六月、一条天皇は32歳で崩御されました。そして、皇太子だった一条天皇のいとこの三条天皇が即位しました。それと共に、元子は堀河殿に下がることとなります。

 しかし、元子の人生はこれで終わったのではありません。やがて元子の許に一人の男性が現れます。
 その人の名は源頼定……。村上天皇の孫に当たる人でした。
 しかし、元子の許に頼定が通ってきていることを知った顕光は激怒しました。
 頼定は有名なプレーボーイで、これまで関わった女性は数知れずいたようです。
その一人に、三条天皇がまだ皇太子で居貞親王と呼ばれていたときの尚侍の藤原綏子がいます。綏子は藤原兼家の娘で、道長の異母妹に当たります。尚侍と言っても、綏子は女御とほとんど変わらない立場でした。しかし綏子と頼定は三条天皇の目を盗んで密通を重ね、ついに綏子は懐妊してしまったとも言われています。
三条天皇はこのことに大いに怒り、自分の在位中は頼定の参内を許しませんでした。
 実は、元子の妹の延子はこの三条天皇の第一皇子である敦明親王の女御であり、二人の間には皇子も産まれていました。一条天皇の崩御と共に元子は内裏を下がり、息子の重家もすでに出家して官界から去った今、顕光にとっては延子は希望の星だったのです。なので、三条天皇は絶対に怒らせてはならない存在でした。
 それなのに姉の元子が三条天皇から不興を買っている男と通じているとなると、顕光の立場がありません。顕光は元子の黒髪を無理やり切ってしまいました。「尼になって出ていけ!!」と言ったともいわれています。
しかし元子も負けてはいませんでした。「それならお父様、さようなら~。」と言ってさっさと堀河殿を出ていってしまいます。そして、頼定と二人で家司の家で暮らし始めてしまいました。

 それから数年後、元子と頼定はやっと顕光に許され、堀河殿で暮らすことができるようになったのですが、父と娘の仲はどうにもしっくり行かなかったようです。しかも、幸せはあまり長続きせず、頼定は寛仁四年(1020)六月に世を去りました。
 やがて妹の延子と顕光も相次いで世を去ります。延子の夫の敦明親王が道長の婿になったことで、道長を恨みながら死んでいったと言われています。
 しかし、残された元子は寂しいながらもかなり満ち足りた余生を送ったのではないでしょうか。元子の気持ちを察することは想像するしかありませんが、頼定との恋は本物だったと私は思うのです。「心から愛する人ができ、相手も自分のことを愛してくれた……」、それだけで充分だったのではないでしょうか。

 なお「尊卑分脈」には、元子と頼定との間には子供はいなかったことになっていますが、角田文衞先生の著書「承香殿の女御」によると、二人の間には娘が二人産まれていたとなっています。
 のちの話になりますが、道長の長男頼通の養女となった藤原(女原)子(実父は一条天皇と定子との間に産まれた敦康親王)が、後朱雀天皇の許に入内する際、元子と頼定との間に産まれた娘の一人が、「御匣殿」という女房名で女房として出仕しているようです。これが事実とすると、元子はしっかり頼通にも接近して娘を売り込んでいたということになります。彼女の政治力のすごさを感じる思いです。
なお最初の方でも書きましたが、元子の没年は記録がなく、不明だそうです。

秋晴れの午後、久しぶりに京都を訪れた私は、二条城を堀河通りを挟んだ向かい側に立ち、元子のことを偲びました。このあたりは現在、ホテルが建ち並んでいますが、平安時代には堀河殿が建っていたのだそうです。元子が生涯の大半を過ごした場所です。彼女はここで、どのような気持ちで毎日を送っていたのでしょうか。

 名門の貴族の娘として産まれ、親に言われるままに入内し、水を産んでしまうという不運にみまわれた元子ですが、後半生には心から愛することができる人と巡り会えて幸せだったのではないか……。そう思いたいような気がしました。また、1000年前にも、親の反対を押し切ってまでも自分の恋を貫き通した女性がいたということに、勇気をもらえるような気がしました。勿論彼女には会ったことがありません。しかし彼女はきっと素敵な女性だったのだろうなと思います。