法金剛院をあとにしてタクシーで約5分くらいだったでしょうか。次の目的地、班子女王ゆかりの福王子神社に到着です。
福王子神社は、伝承によれば、前身は深川神社でしたが、応仁の乱で焼失し、その後寛永二十一年(1644)に社殿を造営し、班子女王の陵墓が付近にあったことから彼女を祀り、福王子神社となったそうです。また、この神社は、東の方角にある仁和寺をおまもりする神社とも言われています
私は2006年に、班子女王の一人語りという形式で、「班子女王 ~宇多天皇の母」という、かなり妄想に走った人物伝を書きました。
実はこの記事、あとで考えてみると、書いているうちに「何かの力で書かせて頂いている」という気持ちになり、すらすらと筆が運んだような気がしているのです。そのため、私にしては短期間で下書きを書くことができました。もしかすると記事を書いている間、班子女王さまが後押しをして下さっていたのかもしれません。
なので福王子神社は、そのお礼をさせて頂こうと、いつか訪れてみたかった神社でした。やっと来ることができて嬉しかったです。
まず、20段くらいの石段を登り、神社の中に入ってみました。
そして、最初に飛び込んできたのがこちらの石碑。
石碑には、「班子皇后」の文字が見えます。
石碑から本殿を眺めてみました。
そして本殿にて、班子女王さまに手を合わせました。充実した記事を書かせて下さって、本当にありがとうございました。
福王子神社も法金剛院と同じく、私たちの貸し切り状態でした。でもなぜか、明るくて華やかな気分が漂っているように見えました。やはり、班子女王の明るくてユーモラスな性格が、今でもこの神社を華やかに彩っているのかもしれませんね。
では、班子女王の略歴をまとめておきます。
班子女王 なかこじよおう(?~900)
*生年には、833年説、853年説などがある。
父は仲野親王(桓武天皇皇子。)、母は当麻氏)
後に光孝天皇となる時康親王の後宮に入り、源定省(後の宇多天皇)、是忠親王、是貞親王、綏子内親王、為子内親王など、多くの子女をもうけました。親王の邸宅は小松殿(大炊御門北、町東)と呼ばれ、女王は毎日のように買い物や仏詣でに出向いた逸話が伝えられています。
仁和三年(887)正月従二位に叙され、同年十一月、当時臣籍に降下していた源定省が急遽宇多天皇として即位すると皇太夫人となります。
寛平九年(897)七月、皇孫の醍醐天皇の即位に際して皇太后となりました。
昌泰三年(900)四月一日、崩御。山城国葛野郡所在の頭陀寺辺(現鳴滝辺)に葬られました。
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福王子神社は、伝承によれば、前身は深川神社でしたが、応仁の乱で焼失し、その後寛永二十一年(1644)に社殿を造営し、班子女王の陵墓が付近にあったことから彼女を祀り、福王子神社となったそうです。また、この神社は、東の方角にある仁和寺をおまもりする神社とも言われています
私は2006年に、班子女王の一人語りという形式で、「班子女王 ~宇多天皇の母」という、かなり妄想に走った人物伝を書きました。
実はこの記事、あとで考えてみると、書いているうちに「何かの力で書かせて頂いている」という気持ちになり、すらすらと筆が運んだような気がしているのです。そのため、私にしては短期間で下書きを書くことができました。もしかすると記事を書いている間、班子女王さまが後押しをして下さっていたのかもしれません。
なので福王子神社は、そのお礼をさせて頂こうと、いつか訪れてみたかった神社でした。やっと来ることができて嬉しかったです。
まず、20段くらいの石段を登り、神社の中に入ってみました。
そして、最初に飛び込んできたのがこちらの石碑。
石碑には、「班子皇后」の文字が見えます。
石碑から本殿を眺めてみました。
そして本殿にて、班子女王さまに手を合わせました。充実した記事を書かせて下さって、本当にありがとうございました。
福王子神社も法金剛院と同じく、私たちの貸し切り状態でした。でもなぜか、明るくて華やかな気分が漂っているように見えました。やはり、班子女王の明るくてユーモラスな性格が、今でもこの神社を華やかに彩っているのかもしれませんね。
では、班子女王の略歴をまとめておきます。
班子女王 なかこじよおう(?~900)
*生年には、833年説、853年説などがある。
父は仲野親王(桓武天皇皇子。)、母は当麻氏)
後に光孝天皇となる時康親王の後宮に入り、源定省(後の宇多天皇)、是忠親王、是貞親王、綏子内親王、為子内親王など、多くの子女をもうけました。親王の邸宅は小松殿(大炊御門北、町東)と呼ばれ、女王は毎日のように買い物や仏詣でに出向いた逸話が伝えられています。
仁和三年(887)正月従二位に叙され、同年十一月、当時臣籍に降下していた源定省が急遽宇多天皇として即位すると皇太夫人となります。
寛平九年(897)七月、皇孫の醍醐天皇の即位に際して皇太后となりました。
昌泰三年(900)四月一日、崩御。山城国葛野郡所在の頭陀寺辺(現鳴滝辺)に葬られました。
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