崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ソ連兵

2012年10月01日 05時09分26秒 | エッセイ
 戦前満州映画協会に勤めた曽根崎明子氏が下関に在住していることは以前にも触れた。私は彼女と娘の河波茅子氏と満州の旧映画協会に同行し、KRYテレビなどでも報道されたことがあった。数年前彼女の自分史の原稿を預かっていて出版向けに今ラフに打ち込みが終わった。時間が長く掛かったが楽しく読むことができた。満映をめぐる社会事情、恋の思い出、終戦前日の結婚式、理事長甘粕氏の自決など大変の人生、波乱万丈のドラマ(?)のようである。ここに一節を引用する。

 夜になるとソ連兵が女性を求めてやって来る。銃でおどして女であれば誰でも無理矢理に連れて行く。私たちのビルには、北満から着のみ着のまま逃げて来て、食べるものも住む所もない日本婦人を、皆でお金を出しあって空いている部屋に置いてあげて面倒をみていた。中国語を話せる人も多く、いろいろと手伝っていた。ある日、不意にソ連兵がやってきて銃でおどしながら、「女を出せ!」と言う。私たちは困っていた。「私が行きましょう」と面倒を見ている人たちの中の若い女性が戸惑っている私たちを振り切って、ソ連兵の所ヘ行き、いっしょに出ていった。何日かして返されてきた女性は、下腹部は紫色に腫れ上がり、心も身体もポロ、ボロになっているようであった。手厚く、出来るかぎりの看病をしたが、二~三日して舌を噛み切って死んでしまった。悲しい終戦直後の数々の出来事の中でも末だに、同じ日本人なのにひどい事をしたと悔やまれることである。敗戦国民の悔しさをしみじみ味わった出来ごとであった。皆が別々の生活では危険を感じるようになったので、希望者だけ新京の中心街の石橋ビル(今でいうと一階は店舗で上は賃貸マンション)に引っ越した。沢山いた日本人はみんな何処でどんな生活をしているのか、全く分からず連絡も取れなかった。

 今拉致問題が人権問題として問われているが、このように犠牲になった人は無限にある。胸が痛む。