先日下関の作家の古川薫氏の自宅を訪ねた時いただいた直木受賞作の『漂泊者のアリア』を読み終えた。その漂泊者とは下関で貿易商を営んでいたスコットランド人、リードReidと、琵琶芸者の坂田キクとの間に1898年に生まれた藤原義江である。母キクは九州各地を転々とする。義江が7歳くらいの時、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、日本国籍を得ることとなった。11歳の時、父リードとはじめて対面、以後少しは養育費を受けたこともあるが苦労の連続であった。東京に移り、暁星小学校、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々とし、両親の愛情が欠落して、不良生徒とみなされた。浅草の弱小オペラ「アサヒ歌劇団」に入団。1918年には根岸歌劇団に潜り込む。音楽教育を受けておらず、読譜もままならなかったが、6歳年上の安藤文子の溺愛を得て、安藤の熱心な指導もあり歌唱力は急速に向上する。安藤は藤原の最初の戸籍上の妻である。1920年3月、父リードの学資金によってイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立つ。
この小説は藤原の伝記ともいえる。芸者の子、日英混血であるという当時日本人に「あいのこ」として侮蔑され、親子という絆も薄い中、転々と生活の場を変えて行く。作家は冷静にその後を追って書いた。藤原にとって混血は不利なことばかりではなかった。イギリスでは日英親善の象徴的存在でもあった。1923年帰国する。「我等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を収める。1930年にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)に初めて本格的なオペラ出演を果たす。以後軍歌「討匪行」の作曲・歌唱を行ったりもしている。前線兵士の慰安のために満州へも渡った。1964年聖路加病院で死亡、享年78歳。
今の時代では混血はあまり問題にならないが当時の日本人は異様視し、虐め、蔑視し、差別したことが彼の人生を悲惨にした。しかし彼はそれを逆に生かせた。半生以後は父、母とも会えた。私はこの本を読んで世俗社会の価値観などには一層否定的に感じた。現在の世論や価値観も変わると思う。正義ある理想郷へはいつ到着するのだろうか。
この小説は藤原の伝記ともいえる。芸者の子、日英混血であるという当時日本人に「あいのこ」として侮蔑され、親子という絆も薄い中、転々と生活の場を変えて行く。作家は冷静にその後を追って書いた。藤原にとって混血は不利なことばかりではなかった。イギリスでは日英親善の象徴的存在でもあった。1923年帰国する。「我等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を収める。1930年にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)に初めて本格的なオペラ出演を果たす。以後軍歌「討匪行」の作曲・歌唱を行ったりもしている。前線兵士の慰安のために満州へも渡った。1964年聖路加病院で死亡、享年78歳。
今の時代では混血はあまり問題にならないが当時の日本人は異様視し、虐め、蔑視し、差別したことが彼の人生を悲惨にした。しかし彼はそれを逆に生かせた。半生以後は父、母とも会えた。私はこの本を読んで世俗社会の価値観などには一層否定的に感じた。現在の世論や価値観も変わると思う。正義ある理想郷へはいつ到着するのだろうか。