崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

Mr.Jenkins氏と会い

2010年10月16日 04時37分30秒 | エッセイ
 ここは新潟県佐渡が島の真野、昨日朝東京発Max303号で新潟、10時の高速のJETFOILで佐渡につき、タクシーで20キロほどの伝説の博物館に着いた。船は静かだったが私は船酔い薬が強すぎ疲れてしまった。しかしジェンキンス氏には会いたかった。
 彼はお土産コナーで働いていた。観光客は超満員で、彼はお菓子を売るところで客に商品を上げたり自著の本にサインをして渡したりをしていた。私は電話でお会いしたいと言った者だといってもそれは伝わってなかったかも知れない。団体客がすいている間に話をした。まず英語で話をしたが、私は朝鮮語で誘導した。彼はもちろん朝鮮語で応えたが、英語に戻ってしまう。彼は英語、朝鮮語、日本語、チェコ語など6か語ができると言った。彼の本は英語、韓国語、日本語で翻訳されており、また新しく書く時間がないという。金正日など北朝鮮に非常に批判的であり、講演等には応じ得ない。それはアメリカが煩いという。しかし島の中では自由である。彼は自著に私にハングルで署名してくれた。
 夕方からは真野の潮津の里で伝統芸の人形劇が公演された。韓国のナムサダンを思い出した。登場人物の人形が小便するのも韓国のものと似ているが、どうしてか小便の噴出が見えなかった。人形劇は宮本氏の説明で見ることができて幸運であった。

高麗美術館

2010年10月15日 03時45分39秒 | エッセイ
 先日本欄に写真絵はがきについて触れたことがあったが、仏教大学の鈴木文子教授と、中嶋督雄氏が情報をくれたものである。東京への上京が本当の「上京」である京都行きになった。京都住まいの映画PDの多比良氏(写真)が京都駅で迎えてくれて、彼の案内で高麗美術館で開かれている特別企画展<1910年日韓併合から100年「写真絵はがき」の中の朝鮮民俗>を見た。山本コレクションからの300枚が展示されている。私は韓国民俗苑で8巻が出版されたものや佐賀県のコレクションの7000枚を見たが、そこで見たものではないものに焦点を絞ってじっくり観覧した。朝鮮風俗「巫女の刀と祈祷」の一枚が私の視線を引いた。鳥居撮影の写真を基に作成したものではないかと思う。
 着色の写真が多かった。着色の写真は人の視線を引くために、綺麗に見せるためのものである。それは事実のカラー写真ではない。リアルに見せるためではなく、美しく見せるためであることに気がつかなければならない。日本で植民地をテーマに展示することはなかなか難しいのに、100周年を期に植民地絵はがきが展示されている。植民地に「着色」するようなものではない。
 受付の人に名刺を出したら私の名前を知っておられた。館長は朝鮮史の上田正昭先生だという。懐かしき先生の近況を伺った。私は名刺と論文の抜きずりを受付の方に預けた。理事長は考古学大家の有光先生であるとのことである。東京に着き、中国から研修に来ている孫連花氏と夕食を一緒にした。彼女は広島大で博士号を取り、現在大連理工大学の教員になっている。教員として研究と仕事の並立、人間関係の難しさが話題になった。彼女にまだ学生であるかのように勉学への励ましの言葉を言ってしまった。一人前の教員なのに失礼なことではなかったかとも思った。しかしそれが師弟関係であろうと自慰した。

地下生活からの生還

2010年10月14日 05時17分49秒 | エッセイ
救出作業の場面をCNNから目を離せなかった。救出された人は様子が私が想像した鉱夫のイメージとはかけ離れていた。あちこちに石炭などが付いて黒く汚れた人が出てくると思っていたけれども石炭鉱山ではなかったようである。ある人は地下から灰色の鉱石を持って出た。このチリ北部のサンホセ鉱山は金銀銅などの鉱山として有名であることが分かった。金脈を探して、試練にあい、救出された物語りのような事件である。最後には地獄から地上へ、そして天上へ飛ぶような素晴らしい事件であった。
 私は石炭の炭鉱地を調査したことがある。ロシア全体で3番目に大きいサハリンのブイコ炭鉱をはじめ、北海道の夕張など、宇部炭鉱、筑豊炭鉱、熊本三井炭鉱、長崎軍艦島の炭鉱など数多く見て回った。炭鉱地では犠牲者の話が多い。長崎、宇部では日本人、朝鮮人が多く犠牲になっている。日本では多くの炭鉱は閉鉱されたが、いまだにチリには残っているかと思ったら金鉱、銀鉱であるという。そのことを知って、子供の時読んだ宝物を探しに歩いた漫画を思い出す。歓声を叫び、固く抱き合っているのをみて、命こそ金銀より高いものであることを認識する。ただ面白い喜劇のように見てはいけないと思う。

 

軍事パレード

2010年10月13日 05時16分50秒 | エッセイ
 北朝鮮の軍事パレードの映像が面白い見世物のように放映されるのを見て、私は一方懐かしく、一方悲しくなった。私は李承晩大統領の独裁政権の時代にはパレードに動員され、朴正煕大統領軍事政権のとき軍人として多く関わったので懐かしい。また暗黒な鎖国時代を象徴する北朝鮮軍事パレードを見ながら悲しくなった。独裁政権が倒れて民主化された韓国とは対照的である。韓国を変えてくれたのは朴大統領を撃った金載圭である。彼は軍事裁判で速やかに死刑されたが歴史的には民主化の英雄とも言われるかもしれない。民主化が世界的な普遍的な現象である時代に20代の子供が一気に「大将」になり「後継者」云々するのを聞くと恥ずかしく、悲しい。独裁が3代までも世襲するということはあまりにも悲しい話である。
 今週末日本映像民俗学の会で私は北朝鮮の実情を私の目で目た映像を上映する。昼正午に平壌の中心部大通りで視野には車が一台も入ってこないこと、夜には懐中電灯なしでは歩けなかった2002年の映像である。私が撮影したものを友人の権藤氏が編集したものである。外部から見るのとは違って安定し、平和に暮らしている人民の生活を見せたい。それはマスコミが北朝鮮について一方的に貧困層を偏頗的に映すものとは違うことである。


風水と景色

2010年10月12日 05時44分14秒 | エッセイ
 韓国の韓国国際大学校の装飾建築学科の辛相和教授が大学訪問のついでにわが家を訪問した。初めて下関にきてわがマンションから門司港や関門橋を眺めて一喝、「風水が良い」。目の前の関門景色への賛辞を期待したがとても意外なことであった。彼は神戸大学大学院で建築学を専攻して博士号を取られた方であり、家の風水に関心が高いと言っておられた。つまりわが家は後ろに火の山を背山にして海を前水としていて風水的に「明堂」に当たると言うのだ。
 私は村山智順が書いて朝鮮総督府が発行した『朝鮮の風水』を1990年に韓国語で翻訳して一時ベストセーラになったことがあり、今改正版を準備中である。彼が私の名前を知るようになったのもその本であるという。景色も良いし、風水的にも良いといわれるのは悪くない。その話を民族学博物館の研究会で披露してみた。研究書である本が民間では実用書として受け入れられた事例として興味を起こした。『朝鮮の風水』は村山の調査研究というより全基応という当時有名な風水師の資料を基に整理したものである。朝鮮の実用書が調査資料になったのでそれが韓国人に受け入れられたのであろう。
 私は研究と実生活は別々な態度をとっているが、この本で両方が合致している。今キリスト教に関して距離をおきながら執筆中である。それでも信仰と研究が合致するかもしれない。ただ出発点は客観的でなければならない。私の研究はあくまでも風水師としての研究にならないように、クリスチャンとしての研究にはならないように注意すべきであろう。

一分遅れ

2010年10月11日 06時09分59秒 | エッセイ
 昨日の朝5時49分発の電車に一分遅れで乗れなかった。大阪国立民族学博物館へ早く着くルートを考え新大阪に着いた。茨木行きの電車を待った。女子学生に確認をして乗ったのに新快速だから茨木駅には停まらない。以前私が西洋人に間違えて教えたことを思い出した。余計で逆行するのに時間がかかり、タクシーで博物館に着いた時はすでに5分遅てい。幸い、研究会はまだ始まっていなかった。汗を拭きながら席に臨んで5時近くまで発表とコメントをした。帰りは一分でも早く帰りたく万博公園の中を走るように歩き、新幹線では小倉経由のをやめて新山口で乗り換えて若干速かった。しかし我がマンションのエレベーターが点検中でストップ、12階まで歩いて登るはめになった。家内がわたしの鞄を背負って、まるで登山客になったようである。途中二組にあった。家内は他人の荷物まで持ってあげた。私は夜景を鑑賞するふりをしながら3回も休んだ。
 昨日は運が悪い日だったのであろう。しかし緊張して走り、万博公園を無料入場で歩いたこと、最高の学者たちと議論し、久しぶりに家内と山登り(?)をした。帰宅しては楽しみにしている連続ドラマの最後の部分もみれた。そしてそのまま熟眠した。苦労の一日であり、ラッキーな一日でもあった。

癌シンポ

2010年10月10日 04時02分08秒 | エッセイ
 私の親しい知人の中に80代の高齢の女性が癌と戦いながら一人暮らしをしている女性がいる。彼女は持病の糖尿病のために人の前でも注射をすることも多い。それでも病気の大変さは表れず元気な姿で教会では明るく賛美歌を伴奏している。大病と戦っている彼女に慰めの言葉を言うと病気と戦うことで存在感を感ずるので感謝であるとの言葉が戻ってくる。また先週お通夜で山内真牧師が入院中だったお母様を看病していた時から、母親のいない家に帰りたくなくて車でぐるぐる徘徊していたという話が胸につまった。
 11月3日東大で開かれるガンシンポでは病気と命の話も聞けそうである。私は韓国人の病気と死生観について言及したい。仔細なことは崔吉城のホームページを参考して欲しい。
 

ノーベル平和賞

2010年10月09日 05時14分19秒 | エッセイ
中国の民主活動家、劉暁波氏がノーベル平和賞授与と決まった。ノルウェーが「民主化と人権の促進に貢献した劉暁波氏を祝福したい」と発表したが、受賞を受ける中国側からは「ノルウェーとの関係を損なう」と警告、抗議している。ニュースの画像が中断されたり反対声明を発表したり授受国家間の態度が真反対である。ソ連崩壊の時期に天安門で中国も民主化が期待されたが、中国は武力で制圧してしまった。その時から続けている民主運動家へ送る平和賞には大きいメッセージがある。
 民主主義と非民主主義の対照であるといえる。中国は89年も続く共産党は今、政治と経済を上手く分離して経済大国まで積み上げて自信満々の力で外交をしている最中に大きな試練が与えられた。言論統制や報道制約は行っているが、このように国際化が進むと外からの情報を遮断することは無理であろう。金大中氏やオバマ氏が受賞した時のように祝賀はできなくとも認め、本人にも祝ってあげるべきであろう。中国は資本主義を受け入れて経済大国へ向かっていて、台湾の民主化過程を参考にしても民主主義も受け入れるべき時が来ていると思われる。
  

ノーベル化学賞受賞

2010年10月08日 05時29分27秒 | エッセイ
 二人の日本人、北海道大名誉教授の鈴木章氏(80)と、米パデュー大特別教授の根岸英一氏(75)がノーベル化学賞を受賞することが決まって日本中が嬉んでいる。二人はアメリカのパデュー大で故ハーバート・ブラウン博士の下で留学し「その道ひと筋に」研究をした人である。その後日米に分かれ、世界的業績を挙げたのである。二人の言葉が多く流れている。賞金を研究に使いたいとも言う。高齢な方が賞金で世界旅行などで楽しんでもよさそうであるが、彼らにとっては研究が本当に「楽しい」ものであるようである。科学は真理を追求するものとか、神のみぞ知るなどの言葉も発している。
 二人の受賞はアメリカ産とも言える。「なぜアメリカでなければならないか」という人もいる。しかし二人とも日本人であることに誇りを持って語る。それは日本で生まれ育って基礎教育をきちんと受けたからであると言う。日本の「専門バカ」の精神に基き、そしてアメリカでの能力主義の接点のような受賞ともいえる。彼らを含めて日本人の受賞者が18人に登ることは素晴らしい。大部分の受賞者は国立大学で国費に恵まれて研究した人である。いま国立大学も法人化してその体制が変っている。基礎科学に関心を持つ人も少なくなっているという。その環境の変化も憂いではあるが、「この道一筋」の人が多くいる限り日本の潜在力は発揮されるだろう。このような力が他のアジアにも広がって欲しい。ただ本当の賞はなんだろうか、考えている。

私の日本文化論

2010年10月07日 04時55分34秒 | エッセイ
 小学生時代に教科書で読んだアルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet, 1840–1897)の「最後の授業」をするような気持ちで今講義をしている。従来日本史の専攻者が講義した「日本文化論」を自ら希望をして数年間担当中である。私から見た「日本文化論」を講義してみたかったからである。その目的は主に私が話をしてから学生たちの意見を聞く狙いである。学生にとって意見を発表する訓練にもなると思い、その機会を与える目的もあり、また私の日本文化論を完成させたい気持ちもあったからである。
 世界的に知られている中根千枝のタテ社会理論を紹介して、日本近代論と宗教に関してヴェーバー理論などをもって講義した。いつも最後の授業をする気持ちで最善を尽くすために講義を準備し、予め聴講生たちの携帯に資料を送る。全力を尽くして授業をしているが、学生の反応は「難しい」と言う。先日本欄でも紹介したある読者からの手紙でほめられた『アジア的価値とは』(東大出版部)の中に書いた私の論文をもって説明をした。しかし学生の反応は今一関心は低い。少人数教育で質を高めようとしても壁は高い。学生に質高い講義をしようとして逆に失望させるようになりそうな経験も多い。私の持論の「難しいテーマを優しく話す」ように努力することしかないだろう。(写真はマックスヴェーバー)

「特高」と「特捜」

2010年10月06日 05時09分48秒 | エッセイ
大阪地検特捜部のエース検事の逮捕やそれにともなるニュースが流れている。私は「特捜」を見るたび聞くたびに戦前の日本の「特高」の恐ろしさを想像する。日本植民地時代、大掃除の検査のために日本の巡査が刀をぶら下げて自転車に乗って我が村に入る時の住民たちの恐怖の表情を私は今も忘れられない。それは私だけではない。多くの韓国人は日本の植民地といえば警察の恐ろしさを想像するだろう。私の警察恐怖症はこの時からの遺伝的なものに近い。その私が軍人になり、KCIで教育を受けたのは不思議であろう。私が運転をしない理由の一つは警察への恐怖感があるからである。私は樺太朝鮮人の思想犯調査の警察が残した資料を整理したことがあり(拙著『樺太朝鮮人の悲劇』)、当時の日本の警察はイメージとして朝鮮人イコール犯罪者と思ったのであろうと感じた。著名なアメリカの歴史学者のビーティ氏が指摘するように世界的に日本の植民地が悪名高いのはほぼ日本の警察や軍人からのイメージであるという。
独立国家となった韓国は「特高」よりも怖い中央情報部KCIが作られ、その怖い日本の警察のイメージや組織を引きついだようである。戦後韓国の警察は植民地時代のそれとそれほど質が変ったわけではない。戦後李承晩が大統領になって故郷の人へ恩返しに高級官職でもつけてあげたいが、何になりたいかと尋ねたたところ「村の警察官になりたい」といって笑われたと言うエピソードがある。KCIに捕まったことのある友人が「ネズミも鳥もしらないうちに殺されるぞ」という言葉を聞いて気を失うほど怖かったと言っていた。私の陸軍仕官学校時代に同僚教官の申栄福氏が親子共にスパイ容疑で捕まり、22年間刑を受けたこともあった。彼は後に出した『監獄から手紙』でベストセーラーになった。今は刷新しているが、軍事政権時代の韓国には中央情報部KCIという恐ろしい捜査機関があった。
独裁政権時代に韓国から日本へ留学した私は日本語がまだほとんどできないとき、登録期間オーバー、旅券不所持や古い自転車のランプがついていないということで本署まで同行させられた。裁判さえ受けたことがある。しかし韓国の警察に比べてはよい、親切だと思っていた。ある日銀座の交番で道を聞いたが旅券提示をいわれ尋問された。このように小さいとはいえ、4~5回ほど不快な体験をさせられた私の警察恐怖症は未だに消えていない。
大阪特捜部の信頼は地に墜ちたというが私に言わせると戦前と変わりがない。検察や警察は国家の安全のために国民が法律的に委ねているようなものである。しかし最近の冤罪などを見ると鬼が棒を乱暴に振っている感がある。ある人はその特別捜査機関の人は「頭が良い」というが、それは悪賢いことを意味するのだろう。なぜなら真実を客観的に分析する力が弱く、価値観や倫理観を正しく持っていないからである。今度の事件の結果がどうなるか注目したい。日本の司法機関が戦前の「特高」のイメージを刷新する機会になって欲しい。

家内の古い資料

2010年10月05日 05時49分17秒 | エッセイ
 家内の幸子の実家から古い写真や証書などが送られてきた。それによって子供時代から成長期の歴史が多く蘇ってきた。それに比べて私は歴史的証拠写真は持っていない。小学校時代の写真も失ってしまい高校時代のものが数枚、大学時代のものが1枚しかない。また筑波大学文学博士の学位証書さえ失ってしまった。記録や資料を保管する習性が弱いからだと反省している。家内は物を保管する傾向に反して私は捨てるほうであることを反映する。私はたくさん持っていても使いこなせないと意味がないと思っている。資料は整理されていないと持っていないことと同様と思う。
 定年と引越しの時、多くの資料や本を手放したことが今になって必要となり惜しいと思うことがある。また貸してあげて戻らないものも多い。早く出版物にして公にしたほうが安全であろう。ある機関に寄贈したものが整理されたと連絡があった。「私」から「公」へと情報が流れるのである。

植民地朝鮮の写真葉書

2010年10月04日 05時46分51秒 | エッセイ
 下関長府の忌宮神社で朝鮮植民地時代の写真・絵葉書展が開かれていると長周新聞の記事を読んで家内と一緒に見に行った。無人自動照明の展示室に展示されていたが、もったいないように感じた。私にとっては必要な展示である。数年前から絵葉書を分析し、研究している浦川氏を東亜大学に呼んで講演をしてもらったこともある。
 朝鮮植民地時代の写真は日本では佐賀県某博物館に7、000枚ほど保管されていいる。韓国釜山博物館所蔵の4000枚は韓国の民俗苑から出版されている。私は今度の著書には既刊の写真葉書の資料を豊富に活用すしている。戦前までは個人がカメラを持つことは一般的ではなく、旅行先で写真葉書などを買ってくるのが流行り、大量の資料が残っている。戦前の観光を知るうえ重要な資料である。私は数年前から機関や個人の所蔵を見て回っており、分析している。もっと情報を知りたい。

縁は永い

2010年10月03日 05時16分35秒 | エッセイ
私は数多く職場を変えたので数多くの古い同僚をもっている。昨日は1979年から韓国啓明大学での同僚であって現在九州大学韓国研究センター教授の松原孝俊氏、また広島大学で10年間同僚であった三木直人教授と彼の指導を受けた中国北京在住の作家金在国氏が私の研究室に集まった。松原氏は韓国での経験を生かしてNHK韓国語講師などを経て日韓関係文化論などを研究している。彼は福岡における日韓の接点で活躍している。彼の在職中の韓国研究センターに私は多少の本も寄贈した。三木教授とは私が広大を定年してからでも集中講義などで15年間も続いている関係である。彼は文学の研究者であるが、私の植民地期の文学への問いかけからかなり共通の話題も多くなった。
 金氏は中国の朝鮮人作家として活躍しており、数多くの賞を受けた人である。彼はこの集まりで私を一言で「縁を大事にする人、人を捨てない人だ」表現した。彼は日本に留学していた頃、中国が今のように発展することを誰も予想していなかった時であったが、彼は中国の発展の可能性を強く語っていた。朝鮮族であっても中国生まれで祖国は中国であり、韓国や日本に対してはかなり批判的であった。しかし彼が中国に帰国して5年ぶりに日本に来て日本が懐かしく、非常に親日的である。私は作家の彼と文学について談話した広島時代を懐かしく思い出した。(写真は左から松原、私、金、三木)

健康生活とは;

2010年10月02日 05時13分57秒 | エッセイ
先日本欄で言及したスタンフォード大学の名誉教授のBefu先生から日本での研究会からアメリカに帰国してすぐメールが来た。研究会で久しぶりに会ったことの感想が書かれていた。また国立民族学博物館の台湾研究者の笠原先生からもメールが届いた。研究会で立ち話をした時台湾の資料の話をしたのを忘れず情報を送ってくれた。植民地朝鮮の京城製糖工場の絵ハガキは初めて見た(写真)。他に台湾に関する新しい情報が多かった。感謝している。
 Befu先生は80才の高齢の方であるが、人への配慮が深いと感ずる。彼は世界的に著名な方であり、現地調査から戻って現地のインフォーマントに礼を送ることが習慣になっているようである。彼は健康で元気である。それだけではない。自己管理のできる健康生活をしていることが私にとっては模範になる。高齢社会といわれる日本では健康管理の話は多いが、人間関係と文化を楽しむような積極的な「健康生活」する話は少ない。韓国では人へ配慮深く、やさしく知恵のある老人を指して「コッケヌヌンダ(곱게늙는다)」という。コッケとはやさしくきれいなことの意味である。まさに年をとる人にとって理想ともいえる。