崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

韓国の差別

2006年07月15日 22時24分41秒 | エッセイ
 福岡県人権研究所で韓国の差別について講演をした。日本では韓国の差別は地域差別として知られている。特に選挙の時、日本でもニュースとして伝わったからである。私はその被差別地域において、さらに差別される被差別集団の巫への差別を調査したが、被差別地域において、またその内部でさらに酷い差別が残っていることに疑問を持っている。
 在日三世の女性が在日においてもなぜ地域差別はあるのか私に問いかけた。彼女は父親からその地域の人とは付き合うなといわれたけど、その理由がいまだに解らないと証言してくれた。差別において「なぜ」ということは永遠の謎であろう。だから差別は「不当な」「非合理的な」ことであり、してはいけないことでる。

日本は先端技術の国か

2006年07月14日 06時26分02秒 | エッセイ
 近代化以降日本に先端技術を学ぶためにアジアから多くの留学生が日本にやってきた。しかし今、日本が先端技術の国というイメージは薄れている。鉄道や空路を利用するときコンピュータなどを利用しようとしても電源やランケーブルなどのサービスはない。ヨーロッパのストックホルムからオスロまでの電車旅行では座席にケーブルが着いていてコンピュータを利用している人が多く、私も利用して便利さを感じた。韓国では空港などいたるところにPCルームのサービスがある。日本ではこんなサービスがなく、不便を感じる。日本では安全と責任という意識が強く、そんなサービスはあえてしていないのだろうか。

愚かな政治、愚かな外交

2006年07月13日 07時09分39秒 | エッセイ
 デポドン発射という火遊びか靖国反対などで日中・日韓関係が悪くなって結局先制攻撃の話までなっている。私は以前から日本のナショナリズムが東アジアではもっとも大きい脅威になるということで刺激しないことを願って韓国や中国に自制を薦める言葉を書いたのである。中国や韓国は感情的な鬱憤政治をするようで、子供のいたずらのように感じた。政治家は奥深く考えて未来のために政治や外交をして欲しい。プラトンが言った「政治は哲学者がすべきだ」という言葉を忘れないて欲しい。

女性の靴はなぜ音がする

2006年07月12日 21時59分12秒 | エッセイ
 補聴器をつけるようになってから女性の靴のヒールはなぜあんなに音がするのかと気になるようになった。女性の存在感を表現するためか、あるいは歩き方にリズミカルな調和をつけるためであろうか。私は子供の時に靴の底に釘が打ってあって歩くとコツコツと音が出る靴を鳴らしながら格好をつけて歩いたことを覚えている。女性は視線を引くような化粧や洒落た姿に合わせて考えると、やはり靴の音は歩き方のお洒落であろう。もしそうであれば騒音ではなく、より美しい歩き方をしても良いのではないだろうか。ダンスのようなステップで・・・。

100歳の学者佐藤忠先生

2006年07月11日 05時58分34秒 | エッセイ
 永濱氏と次の出版物の編集を終えて昼食を取りながら楽しい話が盛り上がった。彼は84歳である。彼の健康の秘訣を聞いてみると、彼は東大の名誉教授の考古学者佐藤忠先生を観察しているという話になった。佐藤先生は来月の8月23日で100歳になり、その記念出版を急いでというのだ。佐藤氏の健康の秘訣は何あるかいうと研究への強い意欲、現地調査で歩くこと、人生を楽しむことであるとまとめた。永濱氏は高齢であるのが羨ましいのではなく、仕事を続けておられることがうらやましいし、大事であるという。彼は私の原稿に赤や青の色鉛筆で校正してくださっている。彼に感謝しながら彼自身の健康のためにも小生が役に立っているのではないかと冗談をいった。

岩手大学で講演

2006年07月10日 23時28分43秒 | エッセイ
 以前に宮古市、東北芸術大学などで講演したことがある。昨日は岩手大学で公開講演をしてきた。この地域の聴衆の方のまじめさに感動した。また最初から最後までお世話くださった方の心使いもうれしかった。講演会には一般の方々が参加されるので、こちらも刺激され、互いに楽しい時間ではないだろうか。またいろいろなところの人脈で繋がった人も多くていっぺんに親しくなり、下関から岩手まで1700キロの遠距離も感じられず楽しい旅であった。関係者に心より感謝している。帰りの途中で宇都宮で民団新聞の論説委員長金淳泰氏に30年ぶりの再会も喜びであった。

少子化対策

2006年07月08日 05時46分05秒 | エッセイ
 少子化対策が議論されているところに移民を受け入れる話は出ない。なぜであろうか。テレビなどでも口を揃えて出産に絞られている。外国から養子や移民を受け入れても良いであろう。それを考えていないということではないだろうが、日本はまだ純血主義、あるいは単一民族意識が強いからであろう。それでは国際化が根本から出来にくいことは言うまでもない。外国人は「犯罪者」「放浪者」「寄留者」「異邦人」などのイメージを増幅していく。そこには狭い縄を張る「縄張り」意識の排他主義が横たわっているはずである。国際化を根本的に見直すべきである。

民団の和解撤回

2006年07月07日 05時51分09秒 | エッセイ
 民団が朝総連との和解を撤回した。それは報道されたように内部の反撥からであったのにデポドン発射を理由にしている。とにかく分裂、敵対関係を維持するという。集団とは仕事の質と量や性質によって分化と統合をするが政治団体は敵対と和解を繰り返す。その意味で民団と総連は朝鮮半島を背景にしている政治団体的な性質が濃い。特に総連は北朝鮮を背景に政治的な団体としては限界があることを認識する時点に来ている。両団体ともに本国依存から脱皮し、在日同胞の相互協力体制を強化して欲しい。それがデポドンのようなものから切り離れる方法であろう。

北朝鮮、どうするつもり

2006年07月06日 06時25分59秒 | エッセイ
 北朝鮮には民主化運動の種もない。韓国では朴大統領が独裁的であっても国民は李承晩大統領の時代に、ある程度の民主化を経験したので、それが種になって民主化が可能であったと思う。しかし北朝鮮では金日成・金正日が一貫しており、民主化の種もない。内部からでは民主化が難しい。北朝鮮を外へ開放させることが大事であり、それは日本との国交正常化が一番だと思う。
 デポドンとは鬱憤を払すショーであろうか、昨日は韓国の海洋調査船、そしてテポドンと朝鮮半島が日本に攻めてくるような感じが、日本人に危機感を持たせ、日本のナショナリズムを強化させるのではないかと心配である。金正日政権は嫌であっても、その国民は保護されなければならない。3回訪朝したことのある者として今度の発射はとても残念である。

愛憎

2006年07月05日 06時25分26秒 | エッセイ
 拉致、殺人事件の裁判で被害者側の憎しみがマスコミに満ち溢れている。憎しみの顔にも殺意が表れている。彼らは如何に被害を受けた家族を愛したかを語る。そして愛から犯人を憎しむ。つまり愛憎のダイナミックである。私は大学生時代心理学者カールメインの『愛憎』を愛読したことを思い出す。愛することが憎しみの前提になるということである。愛する人が殺されたことにより、憎しみが生まれ、殺意を創生させ、愛憎は弁証法的に増幅していく。多くの民族紛争がそうである。イエスは人を愛して、十字架にかけられて殺されても相手を許した。聖書では「復讐は神がやってくれる」という。世俗的には罪や憎しみを処理するために裁判制度が成り立っている。いろいろな事件を含めてマスコミがあまりにも強調報道しているように思う。少し控え目にすべきであろう。

旧友に会うこと

2006年07月04日 05時41分09秒 | エッセイ
 年をとるにつれて旧友との想い出は多くなる。昨日は40年前韓国文化人類学会を中心的に一緒にやった旧友、ソウル大学名誉教授が來宅して楽しい時間を持った。若いとき意見が合わず、もめた事があってもいろいろな意味では一貫して必要時協力した。この度は20年ぶりの再会でほんとうに嬉しかった。また昨夜は30年ほど前に韓国の馬山で家内がお世話になった聖公会の神父様の文サンユン先生に電話した。彼は聖公会大学を定年して現在社会福祉会館の館長をしているという。早速訪ねていく約束をした。なぜ人は懐かしさを感じるのだろうか。それは純粋な「愛」の一つであろうと思う。

シベリア温暖化は

2006年07月03日 06時42分47秒 | エッセイ
 京都の鈴木氏が尋ねてきて地球環境について話をしてくれた。彼女は生態学会の仕事で急変する地球温暖化の問題点を指摘した。人間は文化文明を持っているので温暖化に適応できるかもしれないが植物や動物は適応できないという。そこで私はサハリンやシベリアで聞いた話を思い出した。私は2度ほどサハリンで零下30度位の冬の調査の時、寒さ、風、雪などとの戦いを体験して、住民と温暖化について話をした。彼らは気温が上がることには大変賛成であった。たとえば日本が熱帯地域になり、シベリアが温帯になれば多くの人がシベリアを楽土と思うであろう。バランスの取れた地球環境を考えてなければならないと思った。

フランスを応援

2006年07月02日 07時07分47秒 | エッセイ
 ブラジルとフランスのゲームを後半から視聴した。なぜかサッカーの王国といわれるブラジルではなく、心からフランスを応援していた。今までの私としてはゲーム上弱いところを応援してきたのにフランスが1ゴールを取ったのにもかかわらずフランスを応援したのはなぜであろうか。それは絶対的強いというものへの挑戦の心か、あるいは強いものへのやきもちであろうか。いつの間にか私も純粋なスポーツとしてみていないことが分かった。このようにゲームを見ながら自分の心理の変化に気ずかされた。一種の心理テストのような気がした。

捨てないこと

2006年07月01日 06時45分13秒 | エッセイ
 家内は物をためておく傾向が強いが私は捨てるほうである。捨てることによって整理がよく出来ると思っているが、時には後悔することも多い。広島大学を定年する時、多くの本を処理した。しかし、今読みたくても手元にはなく、処理するのが早かったと思う時が多々ある。
 多くの人間関係の上でも切れたものが多い。大部分は潜在している関係であるが相手から意識的に切られたこともあり、自分から切ったものもある。しかし相手から切らてもこちらが切れないことがある。20年ほど前に私が教えた学生だった人とはいろいろな関係をもって心から支援してきた。その中のひとりである彼は一時、大学で講義をしていたがそれもだめになった。最近彼は音信不通である。しかし私は彼のことを常に心配で電話をかけてみた。不通であったので、より心配である。