崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

続・書評

2015年03月31日 05時38分38秒 | 旅行
三十数名の新入留学生を迎えるため下関港に出た。日韓関係の悪い時に韓国からの平和使節団を迎える気持であった。中には私の愛する教え子の慶南大学校の教授の教え子の学生二人もいる。船着き場ですぐ張竜傑教授に電話で無事に到着したことを知らせ、嬉しく話をした。19世紀末兪吉濬氏は日本留学して韓国の近代化に大きく貢献した。崔南善氏は3.1独立運動宣言書を起草しても親日派と言われた。しかし彼の全集が出るとアメリカ在住の孫学者からの情報が届いた。留学は偉大なことの始まりである。その伝統を引き継いでほしい。韓国の留学生が去年より2倍増えたという。私は彼らにいつも人生の重要な青春時代に留学すること、それが日本でよかったことを経験的に言っている。他の国で異文化の体験も良いが日本での体験は特に良いと言うと安心するような表情を見せてくれる。日韓関係という次元を超えた話である。
 また拙著の話で恐縮であるが、まとまったもう一つの書評を紹介したい。韓国在住の嶺南大学堀まどか氏の宇部日報(3月27日)の紀行文の一部である。

 「大邱の風に:戦争の記憶をたどる(上)」堀まどか
 今年の正月に、文化人類学者・崔吉城(東亜大学教授・広島大学名誉教授)の書いた『韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか-「中立派」文化人類学者による告発と弁明』を読んだ。最初に一点不満を述べておくと、このタイトルでは誤解を招きやすいと思った。販売促進の期待から、こんな書名に決めたのかもしれないが、時事問題に近接しすぎて、書名だけ見て敬遠する人もいるだろう。
 いまは従軍慰安婦問題にはウンザリだという人も多いだろうし、朝鮮戦争時に米軍慰安婦が生まれていた云々も、もはや聞かなくて良いと考える人もいるだろう。このタイトルだけを目にした人が、<韓国にも米軍慰安婦が実在したのだから、日本の慰安婦問題にも「非」はない>といった単純な論理で捉えてしまわないか、心配だ。
 しかし、実はこの本は、慰安婦のことだけを語っている本ではなく、戦争や軍隊の普遍的な問題についていろいろと考えさせる一冊である。もし私か編集者だったら、「性とナショナルーアイデンティティー」とか、「少年がみた戦争と性-ある文化人類学者の体験から語る」といった題名を提案しただろう。
 これは1人の少年の歴史である。朝鮮戦争を体験した幼少期の著者の視点で、記憶が語られ始めて、次第に後半になっていくにしたがって、研究者としての中立的で鳥瞰(ちょうかん)的な著者の現在の視点や、調査研究を通しての判断分析が示される。戦争の矛盾に切り込む著者は、タブーも批判も一切恐れず率直で、その身が案じられるほどである。研究者と「学問の自由」への思いを純粋に貫いている著者の姿勢が、少年のままの姿にみえた。
 引き込まれて最後まで一気に読んだ。「これは文学だな、これは証言の文学だな」とずっと思いながら読んだ。幼少期の著者の記憶の語りは素直で美しく、面白い。文学とは、歴史の記述とは少し違い、誰から見ても普遍的事実という方法にはならないかもしれないが、一人の人間か眺めたという点において一つの偽りなき史実で、まぎれもない世界の実態がそこに臨場感をもって描かれる。
 子ども時代の記憶をたどっているという点からして、朝鮮半島からの引き揚げ体験を描いた自伝的小説「竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記」(ヨーコ・カワシマ・ワトキンス著)を思い起こしたが、この崔少年の記憶のほうがはるかに証言性も内容もふかくて、面白い。暗い話題なのに暗さがなくて面白いのだ。それが少年の視点として現実味があった。
 もっとも衝撃的に感じたのは、戦争・紛争のまっただ中にいた少年にとって、「戦争はいけない」といった反戦倫理みたいなものは無くて、ただつらく、いやでたまらなく、怖く、しかし面白い(生死ぎりぎりを生きている高揚感・興奮のような面白さだろう)といった混乱した心理状態だったと書いている点である。お金がなくなれば親族さえも周囲から消えていくさまをまのあたりにした寂しさも素直に描かれている。
 子どもにとって、「平和」も人間性に対する理想も、まだその社会を測るモノサシはない。人間不信とか絶望とかいった才トナの言葉ではなく、子どもの不安感と挫折感が淡々と伝わってくる。さまざまな他国軍の実態と噂(うわさ)のずれ、自国軍の残虐な行動をまのあたりにしたこと、それらを少年時代の記憶として語る様子は、大人の視線で語るものよりもはるかに激しい威力がある。(ほりまどか・宇部市出身・嶺南大学校日本語日本文学科講師・韓国太邱市在住)