崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

加羽沢美濃コンサート 

2014年12月24日 04時52分58秒 | 旅行
 友人夫婦との昼食時に耳が遠く、積極的に話を主導することができかなった。むしろそれがバランスがとれたかもしれない。食後コンサートの会場、下関市民会館大ホールへ急いだ。音楽会なのにロビーには人があまりいない。自由席であり、席を占有するために先に座っているからであろう。それよりはコンサートの音楽鑑賞が主であり、それを契機に人との出会いの場にはなっていないことを意味する。私は文化振興財団の理事長と文化協会長とあいさつを交わした。クラシックを鑑賞する聴衆たちらしく静かに、そして拍手などもあった。この地方でも聴衆のレベルは決して低くはない。作曲家兼ピアノスト・加羽沢美濃がディズニー曲をピアノ演奏してから挨拶と解説があり、その調子で終始した。私は聞くことを楽しんだ。
 私は田舎からソウルへ編入して田舎者がクラシックを聞くことがソウルの人になれるという思いから音楽会に多く参加したことを思い出した。大学教養科目では李ソンゼ教授にクラシックに関するレポートを出したことも思い出した。中学校時代には童謡作家の安先生に習ったこともある。そしてただの騒音であったクラシックが田舎者の私に名曲に聞けるようになった。騒音から名曲へ、青春時代がなかったら私にクラシックはただの騒音に過ぎなかったであろう。しかしその音楽鑑賞の磨きは十分ではない。
 演歌などは歌詞でほぼ感情をしめしていてクラシックに比べて非常に単純なものである。クラシックではメロディ、ハーモニー、リズムだけで海、月、田園などを表現するのか、そこにクラシックの価値とその世界が輝くのである。美しい音を探し、それをハーモニーにする。小節を繰り返す対位法など、私はそれが小説にも生かされていることを評価したことがある。
 下関出身の俳優の前田倫良氏の朗読の「いのちをいただく」の牛者の親子の対話式の話に私はとても感動した。隣席の中年男性は泣いていた。訳を聞く前に彼は自家の農牛を所へ送る時牛は涙を流したと言いながら7歳の時を思い出したという。私は品川所で見た、それがトラウマになっているのでこの話は悲しく響いてきた。帰宅して韓国から珍しい人から電話を受けた。彼は私を祈ってくれるシャーマンの話を読んだように男性シャーマン、画家詩人とも名乗る人である。またあるシャーマンはFBに私が17歳の時に私の母がシャーマンへ捧げた宗教的誓約のミョンタリ(命橋)の写真を公開した。韓国国立民俗博物館所蔵のものである。私の遺産のひとつである母のシャーマニズム信仰、母胎信仰のしるしでもある。