崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

燈火のような光

2014年12月22日 05時27分43秒 | 旅行
昨日クリスマス礼拝があった。日本のクリスマスは世界のクリスマスとは異なる。それは宗教的論拠によるものではなくただイエスの生誕日とされる日に近い日曜を選んで記念礼拝をしているからである。キリスト教の記念日でも感謝節などは日曜日つまりキリスト教の神の日「主日」で行われる。一般人は日曜日を「聖なる日」とは思わない。世界的には12月25日がクリスマス、正教会では1月7日としているので日本式のクリスマスを入れると3回のクリスマスがある。クリスマスの祝祭は世界で盛大化されているが、逆に世俗化により、信者は激減している。本欄でも触れたことがあるが、イギリスで数百人の信者が集まって礼拝していた教会の信者が減って維持できず売られ、そこが飲み屋になったという話をしてくれたリーズ大学の教授の話が忘れない。
 消えていく燈火のような光が闇を照らす。イエスは自ら自分を「光」と言った。危険な原発からソーラーが注目されている中、青い光LEDが発明され、ノーベル賞の話題からもその光の恩恵に感謝する。我が家のハイビスカスの花に異様な光景が生じた。室内で花がさいている。その花は日が暮れると萎んでしまうのでたった一日の花であることは常識であろう。しかし室内のLEDの所為であろうか二日も咲いている。このへんは専門家の知識が欲しいが、花は気温より光の影響が大きいことから考えると納得がいく。
 私が出席する教会は昔は百数十人の信者がいたが今では20人弱の信者が集まっている。この教会にも光はある。心と心の交流、家出をした放蕩者の息子を迎える親心、怪我をした旅人に暖かい手をさし延べる心などを意味する光のことである。子供たちのハンドベルを聞きながら彼らが練習したのもその心であると感じた。長く欠席していた人の顔を思い出して電話をした。来週から出席するという。燈火のような光は消えていない。