崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

私の日本語

2013年01月27日 05時30分57秒 | エッセイ
ネット上でダウンロードした注付きの小説「金色夜叉」を読みながら昨日書店で新しく「金色夜叉」を購入した。その作品を読んでいると話題にしたらある女性から「古文なのに大丈夫ですか」と聞かれた。また昨日ある友人からも私の日本語はネーティブではないからと言われた。この話は外国出身者の日本語は決して完全にはなれないことであり、私は納得する。それは同時に日本人の外国語も永遠に言葉の壁を越えられないということを意味するだろう。さらにその外国語への意識は言葉だけの話ではなく、日本人の他者意識ともつながる。私は以前本欄で「私の日本語は下手である」と告白したことがある。今度の新著では「日本人の日本語も問題」という趣旨の長文を載せようとしている。その一つが「日本人の日本語も下手」ということ、特に日本の文字である漢字とスピーチのことである。
 フェイスブックの「友人」竹中英俊氏は「朝日新聞」の記事を引用しながら日本語の文について書いているhttp://www.facebook.com/hitakenaka。「1946年当用漢字の告示」は日本人が漢字を「楽に読み書き」するようになり、ローマ字化を阻むようになったという。漢字を制限してその漢字だけの識字率が高いが、実際漢字が無限に使われており、クイズの対象にもなっている事実を私は「文盲率が高い」と皮肉った。漢字の読み方が多くて煩雑であることは語彙の豊かさも意味し、必ずしも否定的に思うことではない。しかし「漢字」は日本国の文字でありながら読めない人が多い国は世界で他に例がないだろう。語彙の問題は漢字を使わなくても可能であることはハングル化した韓国の例をみても参考になる。日本語の表現表記の向上を話題にしながらもその記事が良い文になっていないと竹中氏は指摘している。同感であると思いながら自分の文を再読する。