崔吉城との対話

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小倉紀蔵著『朱子学と陽明学』

2013年01月14日 06時12分49秒 | エッセイ
 小倉紀蔵氏が新著『朱子学と陽明学』を送ってくださって読んだ。『論語』や儒教などを知っている人を前提にして思考した本であるといえる。小倉氏とは広島で韓国総領事館移転記念テレビ出演の時会って以来ご無沙汰しているが、新著などは互いに送りあっている。著書を通して深く交流する気がする。主に本著には考え方がよく書かれて親しみを増している。特に印象的なところは理気論である。李朝時代の儒教学者の李退渓(理)と李栗谷(気)を想像する。韓国では理気論は歴史的に長く、儒教を論ずることが知識人たちの「孔子曰く、孟子曰く」のごとく、つまり非現実的な空論と思わせられる。しかし小倉氏の論考は新鮮である。彼は李王朝社会を理の支配的な知識社会における気の文化が圧されたといい、その例としてシャーマニズムを指摘している。
 東アジアには儒教の影響は強く、まだ存続しているが、もっとも儒教的なのは韓国である。私は日本は漢字文化圏ではあっても儒教文化圏とは思わない。「儒教とは何か」の著者である加地伸行氏は日本が儒教社会だと主張する。十年ほど前学会で私は彼に反論したことがある。つまり私は朱子学の宗法と祭祀を基準としてみて、日本は少なくとも韓国社会のような儒教社会ではないと主張した。「宗法」とは親族組織の基本精神であり、祭祀はその実現の儀礼である。シャーマニズムは儒教祭祀と混合したり矛盾したりしているので私の専門であるシャーマニズムの研究が自然に儒教に関心を注がなくてはならなかった。儒教は祖先への孝、孝は愛である。その愛を探るのが私の祖先崇拝の研究である。しかしシャーマニズムは祖先の怨念などが主である。本書では触れていないが、秋葉隆先生はそれを儒教とシャーマニズムの二分構造として分析した。私はそれを受け継いで発展させてきた。小倉氏の論考によって古典の儒学、それをより実用的に哲学化した朱子学、またそれを継承しつつ克服しようとした陽明学の世界観から東アジアを鳥瞰することができた。
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