崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

形見分け

2013年01月22日 05時31分28秒 | エッセイ
家内の姉から夫の形見分けが届いた。生前愛用したマフラーである。綺麗にドライクリーニングして新品のようなものである。彼が生前愛用したものを思い出として早速巻いて愛用することにした。先日講義で日本の形見分けについて触れた時中国の留学生は嫌な表情をした。日本ではどうであろうか。一人の日本人の女子学生は絶対嫌だという。日本では死者の生前の衣類や持ち物を近親者などに喪が明けてから分与する習慣があるが、それは無くなるのではないかと思った。韓国では死穢観念が強く死者が愛用したものは不浄があり、祟るという信仰があり、死者が使ったものの多くを死の直後燃やす慣習がある。その不浄については私の韓国語、日本語、英語、フランス語の論文がある(『韓国民俗への招待』風響社)。
 宗教的には死者の遺品には不浄という観念があるが、(韓国では)社会文化的には「垢」のついた祖先の思い出とも言われている。日本では垢とは汚いものと思われるが使った痕であり、証である。韓国のシャーマン儀礼では死者が着た服は死者の象徴、あるいは供物になっている。村の境に立っているチャンスンやソナンダンには上着のジョゴリの汚れたドンジョン(襟)を捧げる。この死者の汚れた垢は不浄なものではあるが、一方では人が着用するために作られた文化遺産という脈絡からも解釈できる。私の住んでいる近くに垢田という地名がある。偉い人が訪ねたという民間起源説がある。今不浄を浄化する処置が多く行われるが、垢の遺産を尊重することも考えなければならない。