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一日一句(600)







命よりさらに黒き眼寒鴉






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詩的断章「向日葵」







向日葵





パチンコのネオンの下に
向日葵のスペース
ひょろながい こぶりな
きれいな黄色である
夜の向日葵もなかなか 
火星に探査車が走り回っている
なかなか である
地球に地球人が走り回っている
夜の向日葵のそこだけ
ほんのり
しづか
ネオンは
月をとおく
パチンコは
詩をとおく
かなかなは
家をとおく
今日も地球人が
帰ってゆく
帰る家あるが寂しき
向日葵は
激しく向うむきである
花に拒絶されて
フクイチ フクイチ 
ネオンの下は
猫の道


初出『Coal Sack』74号
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一日一句(599)







母帰る餅花はまだ揺れてゐる






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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(30)

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■旧暦11月25日、日曜日、、だるま市(高崎市小林山達磨寺)

(写真)無題

正月休みは、平和なので、好きだが、休み明けが異常に疲れる。日曜日まで、仕事だったので、やっと明日、一拍できる。しかし、運動ができていないので、またしても、腰の調子がおかしくなってきた。

長編小説が苦手で、ドストエフスキーを例外にして、なかなか、長いものは読む気にならない。ちょっと、関心があって、メルヴィル(1819-1891)の「白鯨」(Moby Dick)とセルバンテス(1547-1616)の「ドン・キホーテ」(Don Quixote)を調べていて、その長さに仰天してしまった。ペンギンクラシックス版での比較になるが、白鯨で、720頁、ドン・キホーテになると、1056頁ある! ヲイ、と言いたくなる。有名なだけで、こりゃ、だれも読まんわ、と思う。だが、ここまでくると、逆に、読みたくなる。好奇心が湧くのである。おそらく、だれも知らない宝物がいろいろ隠れているだろうと思う。ドン・キホーテは、もちろん、原典はスペイン語だが、英語に翻訳した場合、日本語への翻訳とは異なり、それほど、長さに差は出ないように思う。欧州の言語を日本語に直すと、たいていの場合、1.5倍くらい長くなってしまう。その分、説明的になっているのである。まあ、ぼちぼち、タイミングを見ながら読んでみよう。

今年の読み初めは、ヘミングウェイの短編、The Revolutionistだった。これは、1頁強のごく短い短編だが、ハンガリー革命を題材にしていて、まだ、子どもと言っていい、使い走りのような革命家の生のdetailが描かれている。最近、生や生活のdetailということに関心があって、あまり小説は読まないのだが、めづらしくヘミングウェイを読んだ。he had suffered very much under the Whites in Budapest...でブダペストの保守反動勢力を表現していて面白かった。



柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ   凡兆

■ぬのこ=布子(冬)。ここは、とくに、感じるところはなかったが、「着習ふ」という措辞をどう解釈するか。つまり、季節的に、着慣れてきた、というときに、「習ふ」という言葉を使うだろうか。もともと、着つけていない物を着るときに、使うように思う。着方を習得するという含意があるのではないか。これは、次の付けを見て検討してみようと思う。

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一日一句(598)







大鶴の輪飾昼の風起こる






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一日一句(597)







初暦びりりと裂けばなほしづか






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一日一句(596)







初詣わが先客は猫ひとつ





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(29)


■旧暦11月22日、木曜日、

(写真)hometown

午前中、白岡の実家へ年始に行く。午後、恵比寿の写真美術館で、北井一夫展を観る。なかなか、勉強になった。写真集「三里塚」を購入してきた。

デジタルカメラで写真を撮るようになって、6年少しになるが、最近わかったことがある。それは、対象とのコミュニケーションに係る事なのだが、自分の中の自己評価を引き下げないと、存在とのコミュニケーションは、深くならない、ということである。自己評価を引き下げる、というのは、それが必要のない人もいるかもしれないが、自己観察しているとよくわかるのだが、何か、苦悩を抱えていて、それと格闘せざるを得ない人間は、その代償に、自己評価が自分の中で高くなる傾向がある。言ってみれば、「ナルちゃん」なわけだが、当人は、なかなか、それに気がつかない。自己評価を引き下げるというのは、自己卑下するのとは、もちろん違うし、謙遜とも微妙に異なっている。言ってみれば、「自由になること」に近い。自己評価の高さは、人を不自由にするのである。これは、写真だけではなく、存在と関わる俳句や詩にも、言えるように思う。



湖水の秋の比良のはつ霜   芭蕉

柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

■安東次男の解釈は、去来讃として、芭蕉の句と二句一意としている。去来の存在、言いかえれば関係性を基礎にした解釈である。「歌をよむ」も、去来が「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」と詠んだことに呼応していると理解している。前句の景を詠嘆する人がいると理解し、その人を隠逸の歌詠みと趣向する言葉だけの解釈とは、異なっている。連詩をやっていると、二人だけの世界になるので、なかなか、歌仙のような、複雑な社会関係は生まれにくい。そのため、前句の解釈に重きを置いた作りになる。安東次男の理解を敷衍すると、もちろん、そういう作りはあるが、社会関係を踏まえた存在論的な発想が可能だと言うことになる。そうなると、一段、面白みが増す。

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2013年歳旦3句







除夜の鐘天地無常のありどころ




太箸の遊び箸こそ楽しけれ




初富士の高みは素晴しき孤独






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一日一句(595)







世にふるも世になれぬかな雑煮餅






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