goo

猿蓑:「鳶の羽も」の巻(29)


■旧暦11月22日、木曜日、

(写真)hometown

午前中、白岡の実家へ年始に行く。午後、恵比寿の写真美術館で、北井一夫展を観る。なかなか、勉強になった。写真集「三里塚」を購入してきた。

デジタルカメラで写真を撮るようになって、6年少しになるが、最近わかったことがある。それは、対象とのコミュニケーションに係る事なのだが、自分の中の自己評価を引き下げないと、存在とのコミュニケーションは、深くならない、ということである。自己評価を引き下げる、というのは、それが必要のない人もいるかもしれないが、自己観察しているとよくわかるのだが、何か、苦悩を抱えていて、それと格闘せざるを得ない人間は、その代償に、自己評価が自分の中で高くなる傾向がある。言ってみれば、「ナルちゃん」なわけだが、当人は、なかなか、それに気がつかない。自己評価を引き下げるというのは、自己卑下するのとは、もちろん違うし、謙遜とも微妙に異なっている。言ってみれば、「自由になること」に近い。自己評価の高さは、人を不自由にするのである。これは、写真だけではなく、存在と関わる俳句や詩にも、言えるように思う。



湖水の秋の比良のはつ霜   芭蕉

柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ   史邦

■安東次男の解釈は、去来讃として、芭蕉の句と二句一意としている。去来の存在、言いかえれば関係性を基礎にした解釈である。「歌をよむ」も、去来が「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」と詠んだことに呼応していると理解している。前句の景を詠嘆する人がいると理解し、その人を隠逸の歌詠みと趣向する言葉だけの解釈とは、異なっている。連詩をやっていると、二人だけの世界になるので、なかなか、歌仙のような、複雑な社会関係は生まれにくい。そのため、前句の解釈に重きを置いた作りになる。安東次男の理解を敷衍すると、もちろん、そういう作りはあるが、社会関係を踏まえた存在論的な発想が可能だと言うことになる。そうなると、一段、面白みが増す。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2013年歳旦3句







除夜の鐘天地無常のありどころ




太箸の遊び箸こそ楽しけれ




初富士の高みは素晴しき孤独






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

一日一句(595)







世にふるも世になれぬかな雑煮餅






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )