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Cioranを読む(72)


■旧暦10月25日、日曜日、

(写真)無題

朝から、空腹を覚えたので、コンビニへ。餃子饅で茶を飲む。クリーニング屋に寄ってから図書館へ。日経の記事をコピーしてくる。詩の翻訳の記事なのだが、ランボーの新旧訳が対比されている。新旧それぞれの翻訳の背後に文化があり、その文化は、新しくなるほど劣化している、そしてそれは、現代詩の劣化状況と正確に対応している、とぼくには思えた...。

今日の東京新聞の一面トップは、面白かった。反原発の記事中傷。ここから〉〉〉 ウェブではなく、新聞の方では、外部委託された財団法人が、記事内容に付けたコメント一覧が掲載されていて笑える。しかし、税金を使って、こんな幼稚なうなづきあいをやってきたのか。昏い気分になる。貨幣を媒介にしたオナニーですね、これは。09年に受注した日本科学技術振興財団の場合、仕事は、外部専門家に丸投げ。職員は確認だけ。それでも、誤字脱字のオンパレード。オナニーすることが泥棒になる史上稀なケースかw。



Le goût de la formule va de pair avec un faible pour les définitions, pour ce qui a le moins de rapports avec le réel. Cioran Aveux et Anathèmes p.129 Gallimard 1987

公式への偏愛は定義への偏愛と同根である、つまり、現実とのつながりがもっとも薄い行為と。

■非常に鋭い。自然科学など、認識論的な個別科学あるいは学問では、これが一般的だが、そうした学の一番の弱点を突いている。



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