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Cioranを読む(64)


■旧暦10月9日、金曜日、

(写真)無題

昨日は、午後から吉祥寺の中清で「清水昶を偲ぶ会」。清水昶著『太宰治論』(思潮社)を拝借してくる。清水さんが、太宰をどう読んだのか、以前から気になっていたので、楽しみである。

清水哲男さんと少し話した。原発問題は、しばしば、現実的な枠組みを前提にした議論になりがちなので、ユートピアについて、少し、意見を聞いてみた。ユートピアがただの夢想ではなく、構想力を含んだ概念であることに同意しながら、今は、だれもユートピアの具体的な内容について語れなくなった、と話してくれた。確かに、ユートピアの内容を語ることは、ある種の危険を伴う。社会主義にしても、大東亜共栄圏にしても、ナチスにしても、ユートピアがディストピアに転化してきた。そういう歴史をみな知っているからだ。ぼくも、具体的な話は、難しいと思う。ただ、抽象的なレベルなら、まだ、語れるんじゃないだろうか。それは、関係性の問題である。人間と自然の関係、人間と人間の関係という点では、まだ、マルクスの『経哲草稿』にアクチュアリティーが、あるように思う。それは、支配や管理、搾取を含まない関係である。3.11以降、このことの重要性がいっそうはっきりしてきたように思う。問題は、こういう抽象的あるいは理論的な議論を具体的な政策枠組へどう媒介するかだろうが、そこが見えない。しかし、これはとても大事なことだと思う。



N'ayant jamais su ce que je porsuivais dans ce monde, j'attens toujours celui qui pourrait me dire ce qu'il y poursuit lui-même. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987  

俺は、この世でなにを求めてきたのか、見えたためしがない。だから、この世でこれを求めていると言える人間を、いつも俺は心待ちにしている。

■ある意味で、これは、永遠のモラトリアムだろう。何かを求める強い欲望は、社会から、真底、痛い見目に遭わないと、そして、それを経験化できないと、生まれてこないように思う。だから、仕事をして、家庭を作り、いわゆるモラトリアムから遠い生活をしているように見える人でも、シオランと同じことは起きると思う。求める心が強いければ、それだけ、煩悩も大きいのだろうが...。


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一日一句(259)






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