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Cioranを読む(71)


■旧暦10月22日、木曜日、、北風、また、放射性物質の飛散に注意が必要な時期になった。

(写真)鴨

来年用の手帳のリフィルを購入。もう、そんな時期なのか。

珈琲は、朝一杯だけ飲むのだが、これまで、ドリップにしても、珈琲メーカーにしても、ペーパーで濾していた。たまたまヨーカ堂で、布で濾す一人用のHARIOのネルドリップを見つけて、試してみている。ペーパーに比べると、豆にお湯を注いだときのふくらみがまるで違う。珈琲の味も、ペーパーよりもはっきり出る。一人で少量飲む人にはいいかもしれない。欠点は、使用前後に多少手がかかること。ペーパーなら捨てれば済むが、布は、洗って、水に浸し冷蔵庫保管する。こういうのも、旨い珈琲を淹れる儀式の一つと思えばいいのだろうけど。



12日(土)は、久しぶりの朗読会。マエストロの詩と自作詩を朗読。数人で朗読して、スピーチもあったので、他のみなさんの話を聞いてみた。みなさん、真面目で、これまで、電気を無自覚に浪費してきて、福島のみなさんに迷惑をかけたと思いこんでいる。でも、これは、まっかな思い込みである。個人は、抽象的に存在するわけではない。消費文化や文明全体に媒介されて存在する。個人的な責任よりも個人を媒介する社会体制の方が、罪ははるかに大きい。それは、経団連、国、電力会社、東大工学部原子力工学科出身の学者・高級技術官僚、読売を中心にした新聞・テレビ、米国政府が形成してきた全体構造である。問題の所在ははっきりしている。

16日(水)は、福島原発事故に関連したレクチャーを某大学で行う。原子力発電の問題を考えることは、それを生んだ、アインシュタインの特殊相対性理論やその前史であるニュートン、ガリレオまでさかのぼって、かれらの、一見価値中立的で普遍的な公理が、実は、イデオロギー的な基盤を持っており、特定の歴史的現実に立脚していることを、明確にすることから始めなければならないと、ぼくは思っている。そんなわけで、相対性理論やニュートン力学を検討したのだが、短期間で理解できるほど、その理論は、浅くない。完全に理解できなかったことが心残りだが、今後の楽しみが増えたと思っている。テーマは「科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―」だった。

今後、懸案の「詩人・村松武司論」に取りかかる予定。気が乗らず、資料は集めていたものの、手つかずだったが、蕎麦屋で喧嘩してから書く気になった。村松を論じることは、植民地とマイノリティの問題を考えることでもある。植民地は、大日本帝国が植民した地域のことを論じるのが、これまでの相場だったが、現在の植民地状況も論じるべきだろうと思う。TPPをどう考えるか、という問題とそれは当然、関わる。TPPは誰を利するのか、アメリカの1%と経団連か。「国益」という統一された利害が存在するという幻想で覆い隠されているものは何か。「国益」とは社会の利害対立を覆い隠すイデオロギーである。



Nous importe uniquement ce que nous n'avons pas accompli, ce que nous ne pouvions pas accomplir, de sorte que d'une vie ne reste que ce qu'elle n'aura pas été. Cioran Aveux et Anathèmes p.95 Gallimard 1987

われわれにとって重要なのは、われわれが達成しなかったもの、達成できなかったものだけである。一人の人生に残されるのは、その人がそうならなかった人生なのである。  

■実に辛辣だが、さわやかな真理。だからこそ、実のあること、価値あることをやろうと思うじゃないか。





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