goo

飴山實を読む(197)

■旧暦4月26日、火曜日、

(写真)早苗

朝から仕事して、午後、叔母の見舞に行く。病院を変え、自宅に戻ることをモチベーションに、リハビリに専念するようにしてから、劇的に心身の調子が良くなってきた。食欲が出て、ベッドから起き上がり、歩行器を使ってトイレに行き、風呂に自力で入れるようになり、そうした身体の自由度が拡大したことで、精神に張りが戻り、思考がクリアになった。そして、それがまた、リハビリに取り組む意欲を向上させるというプラスの循環が起きている。週に3日、付添いさんを付けて、終始、会話を行うようにしたことも効果的に機能したと思える。



twitterで、鳩山内閣の評価や検察の問題を議論する「infoseek内憂外患」の討論会「嵐の中の⇒嵐の中だった小鳩政権!!! 日本は何を守ろうとしているのか」を知り、途中から観てみた。今はアーカイブで全篇を観ることができる。興味深い論客が勢ぞろいの感があった。話に内容があり、とくに、面白かったのは、佐藤優氏と弁護士の安田好弘さん、郷原信郎さんの3人で、テレビでおなじみの人たちも、マスメディアでは語れない言葉を多く話していた。マスコミが社会的カテゴリーを供給する一方で、webが、社会的カテゴリーを相対化し、その根拠を揺さぶる役割を、今後も、果たしていくだろうと思える。こういう番組が観られると、twitterをやっていて良かったと思う。

考えるところは多くあり、すぐには、いろいろ出てこないが、全体を通じて感じたのは、この番組のコンセプト、あるいはタイトルにも現れているように、日本の保守思想の今が、集約されていたように思った。保守思想の源泉は、人が、なにか守るべき存在を意識したとき、心に生まれる情緒だとぼくは思う。その意味では、人として、根源的で自然な感情の発露と思うが、それを論理的な言葉で表現したとき、思想になるのだと思う。保守思想を論理以前の問題/論理以降の問題として考えるとき、この討論との関連でいくつか主要なポイントが出てくるように思った。

論理以前の保守思想の問題としては、ポピュリズムやファシズムの発生基盤になりえるということがあるだろう。情緒あるいは感情の論理化は、個人の析出を促し、自由の拡大と権力との拮抗を可能にするが、論理化以前の無意識的な保守は、熱狂し行動の振れ幅が大きくなりやすい。マスコミの供給する社会的カテゴリーで、社会を考え、行動しやすい。端的に言うと、操作対象となりやすい。グローバリゼーション、新自由主義は、存在すべてを商品化しようという動きであるから、ビジネスの自由は拡大しても(これも、現実的には自由の偏りと言うべきかもしれない)、考える自由や行動の自由はむしろ縮小する。すべてがマーケット志向になるからだ。これは、裏返せば、あらゆる活動はマーケットの存在を前提にするということで、マーケットの現状を越える要求は出にくくなる。存在の商品化プロセス、人間の顧客化・売り手化のプロセスから、外れるものは、不可視化されていく。論理以前の保守主義は、マーケットの操作を受け入れやすく(したがって、政治的な操作にも無防備で)、こうした傾向に抵抗し、操作性を自律性に変える手段を今のところ、持ち得ていないように見える。

論理以降の保守思想の問題には、疎外があるように思う。守るべき存在から具体性がはく奪されたとき、「疎外」現象が起きる。この構造を保守思想はもともともっているのではないだろうか。キリスト教が人間の本質から「神」を疎外して成立したように、「愛国心」や「アイデンティティ」や「天皇」などを疎外するメカニズムが、論理以降の保守思想には、内在的に、あるように思える。「疎外」自体は問題化しないが、疎外による観念の絶対化と、その裏側にある排除・差別・殲滅、操作性の加速といった問題は、考えておかなければならないように思う。

もっと、緻密で具体的な議論が必要だと思うが、当面、感じたことをざっくりと記しておきたい。



綿虫と古道具屋の店であふ   「俳壇」平成十二年一月

■綿虫と古道具屋の響きあいに惹かれた。「あふ」にユーモアも感じる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )