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飴山實を読む(202)

■旧暦5月4日、火曜日、

(写真)無題

夏の早朝は気持ちがいい。朝から、仕事。ニーチェは、昼に培われた思想の健康的なことを、いろいろなところで述べているが、個人的には、昼は、体が疲れてくるので、ちょっと退廃的な気分になる。朝の思想こそ健康的だと思うのだが…。しかし、こう言ったところで、宇宙全体からみれば、夜がむしろ普通で、朝や昼は例外なのだろう。命の光というべきか。

午後、筋トレ。背筋と腹筋は慎重に行う。ここで腰を痛めると、筋トレの意味がない。

アファナシエフの英語の小説を読み始める。正直言って、よくわからない。自分がわからないものを訳すことほど、詐欺に近い行為はない。今、考えている方法は、毎日、一から読み始める、というもので、どこまで読み進んでも、翌日は、一ページから読み始める。この方法で、全体の輪郭を把握してみようと考えている。この小説は、マエストロ自身、理解者は数人と言っている。ぼくは、こういう作品こそ、価値があると考えているので、逆に、わくわくするのである。あの、ヘーゲルの精神現象学だって、初版200部である。理解者は10人もいなかったのではないかと言われている。当人自身もよくわかっていなかったという説もある。



あかんぼが飽かずに見入る初鏡   「古志」平成十二年二月

■あかんぼが鏡に見入る、という設定自体に惹かれる。この句をいきいきさせているのは。「飽かずに」という措辞と「見入る」の「入る」であろう。あかんぼに、自己/他者という区分はないはずなのに、それを飽かずに見入るのはなぜなのか。それを、すでになにか、他とは違う特別なものと感じているからなのか。自分を見ることで自分が作られる側面があるのかもしれない。われわれは、生涯にいったい何回鏡を見るのだろうか。鏡がない文化というものは、想像できないが、あったら、面白い。かなり特異な文化になると思う。鏡で、自分が自分であることを確認していくプロセスは、自分の目で自分の目を見ることと関係があるように思える。ビデオや写真で、思わぬ角度から、あるいは、背後から、自分の映像を、見せられても、どこか、自分に思えないことはないだろうか。だから、不意打ちを食らったような気分になる。このあかんぼうが、初鏡の中の瞳を瞳で追っている、そんな想像をした。
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