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蕪村の俳句(7)

■旧暦11月24日、日曜日、、冬至

(写真)新聞を読む背

朝方、療養先の叔母が、今度は脳梗塞で倒れたとの連絡を受ける。父親のときもそうだったが、ひとつの病に周囲の注目が集まっているときには、もうひとつの病にやられるのだ。お年寄りは、ここが危険なのだ。幸い、軽くて済んだが、予断は許さない。こっちに帰ってきてから体制を組み直さなければならないだろう。

昨日は、I先生の哲学塾。忘年会を兼ねる。と言っても、毎回、忘年会をやっているようなものだが。レクチャー原稿を未完成ながら渡す。今の状況に対しては、言いたいことがたくさんある。けれど、そのまま言ったんでは、ただの感情的なアジテーションである。理論的な言説の襞に入れ込むようにして、できるだけアクチャルなテキストを作りたいと考えている。

今日は、掃除して夕食を手伝い柚子風呂に入って終わった。


腰ぬけの妻うつくしき火燵哉
  「落日庵」(明和六年以前)

■「腰ぬけ」は腰の力が抜けて立てないこと。ぎっくり腰のようなものか、炬燵に入って出られない心理的な状況を言ったものか、わからないが、常識では否定的な事態の妻を「うつくしい」と感じる美意識が面白かった。よほどの愛妻家か、よほどシニカルか。あるいは、新しい美意識の持ち主か。今でも、この句は、新鮮に感じる。

Sound and Vision

Pink Floyd - Wish You Were Here




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蕪村の俳句(6)

■旧暦11月22日、金曜日、

(写真)立ち話

ふと思い出したんだが、「今一番楽しそうなのはスポーツ選手だね」。幻の大詩人清水さんの言葉である。このわけをぼくなりに考えてみたんだが、スポーツ選手は、肉体を信じている。肉体は、生きるために生きている。つまり、絶望を知らない(馬鹿だと言ってるんじゃありませんよ)。詩人は、古今東西、絶望を知る人多く、自死に至るケースあまた。なれど、俳人は、そうはならない。これは、スポーツ選手とは違った意味で、正しく心身と関係しているせいじゃなかろうか。

夕方、江戸川ウォーキング(50min: pulse 57/96: objective 117)




追剥に褌もらふ寒さ哉
  落日庵(明和六年)

■物語を感じて面白かった。作りすぎかもしれないが、なんだか、とても可笑しい。コミックになりそうだ。



Sond and Vision

R.E.M. - Strange Currencies
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蕪村の俳句(5)

■旧暦11月21日、木曜日、

(写真)冬の思索

今日は、冷蔵庫の搬入ルートを作らなければならない。物を置きすぎて冷蔵庫が入らないのだ。終日、仕事。




ひとり来て一人を訪うや冬の月
  句稿(断簡)天明二年

■冬の月に照らされた月の道を一人来る客。訪れる先も一人。寒々とした風景だが、清々しさも感じられる。これは、取り合わせに惹かれた。ここは、「冬の月」以外は斡旋できないだろう。



Sond and Vision

Hammerklavier, Beethoven Sonata n. 29, by Brendel. (6/6)
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蕪村の俳句(4)

■旧暦10月20日、水曜日、

(写真)冬紅葉

終日、仕事。今日はわが生誕の日、なれど、さして感慨はない。家族より電気膝掛を贈らる。岡潔の『春宵十話』読了。面白かった。


数学は語学に似たものだと思っている人がある。寺田寅彦先生も数学は語学だといっているが、そんなものなら数学ではない。おそらくだれも寺田先生に数学を教えなかったのではないか。語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい。
 『春宵十話』p.53

数学は語学に似たものだと思っていた人の一人がぼくである。この箇所を読んだとき、ガーンと殴られたような気がした。おのれの浅はかな洞察を恥じる。アマゾンに数学関連の本を数冊オーダーしてしまった。岡潔は、芭蕉、芥川、漱石を大変尊敬していて、よく読み込んでいる。蕉門の句にも詳しい。3人とも、俳句と関連がある文学者で嬉しかった。



めぐり来る雨に音なし冬の山
 「遺草」(年次未詳)

■眠っている山が音もなく雨を吸い込む景が見えて惹かれた。確かにこういう冬の雨はある。乾燥している土に染み込むせいだろうか。「めぐり来る」という措辞が効いていて、雨が移動している様子がわかる。しぐれに近いものかもしれない。



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Hammerklavier, Beethoven Sonata n.29, by Brendel. (5/6)
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蕪村の俳句(3)

■旧暦11月19日、火曜日、のち

(写真)落葉

終日、仕事。午後、江戸川ウォーキング(40min:pulse 65/103:objective 117)。

レクチャーの原稿をまとめながら気がついたのは、翻訳する本は、時代と交差しているだけじゃダメで、自分にとって面白くないとダメだという至極当たり前のことだった。サイバープロテストという本は、出れば、それなりの反響はあると思うが、いかんせん、難しすぎる。




斧入て香におどろくや冬木立
  「自筆句帳」(安永2年)

■有名な句でよく見かけるが、やはりいいと思う。冬木の生命を一瞬の香に感じ取っている。この冬木は切り倒されてやがて薪になるか生活用具に加工されるのだろうが、斧を入れている杣人も大自然の一部であり、木を利用する村人も命を使うという敬虔さが残っているように感じる。



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Hammerklavier, Beethoven Sonata n. 29, by Brendel. (4/6)

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蕪村の俳句(2)

■旧暦11月18日、月曜日、

(写真)枯木

午後、江戸川ウォーキング(50min:pulse 64/109:objective 117)。

G20が終わったら途端に米国とその証券・金融業界批判がなくなった。不況は、あたかも自然災害のような扱い方である。マスコミの背後に米国市場を意識した産業界の意図を感じる。

樹村みのりの『カッコーの娘たち』読了。全編通じて感じたのは、「悪意のなさ」である。子ども時代には子どもの政治学があり、悪意も存在したが、大人の社会のように日常的なものではない。樹村みのりのコミックには、そうした無垢の瞬間が定着されている。そんな作品の中で、表題の「カッコーの娘たち」は、母親の愛情の欠落というテーマを70年代アメリカの自由な雰囲気の中に描き出しており、読後、その陰影が心に残った。



冬こだち月にあはれをわすれたり
  「落日庵」(明和年間)

■月にあわれは、伝統的な和歌の美意識であるが、それをわすれさせるほどの冬の月と冬木立の壮絶さ。そう言い切っている点に惹かれた。蕪村の夢の中の景。どんな夢だったのだろうか。



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蕪村の俳句(1)

■旧暦11月17日、日曜日、のち

(写真)無題

今日は、句会の日だったのだが、仕事で休み。アファナシエフに質問レターを送る。これ、書くだけで相当の手間。ほとほと、ライティング力のなさを痛感する。家人に用事があるので、ピンチヒッターで夕食を作る。久しぶりに包丁を握ったが、やけに疲れた。



蕪村の検討もそろりと始めるべく、資料を少しづつ集めている。当面、『蕪村全句集』(藤田真一、清登典子編 おうふう 2000年)を基に検討してみたい。このテキストは、年代順ではなく四季別に編集されているので、心境の深化がわかりにくいが、手元にある蕪村句集はみな、こういう編集になっている。芭蕉ほど、作風の変化がないのだろうか。

祖翁の句を襲ひて
古池の蛙老ゆく落葉哉
 「短冊」(年次不詳)

■芭蕉の「古池」の句が、この時代から、ポピュラーなものだったことが、面白かった。芭蕉(1644-1694)、蕪村(1716-1783)であるから、芭蕉没後20年して蕪村が誕生したことになる。この時代感覚は、たとえば、我田引水で恐縮だが、ぼくは1960年生まれなので、ぼくから見ると、山頭火の没年(1940年)の間隔に等しい。虚子になると、1959年没なので、ほぼ入れ違いである。山頭火は、「古典」という感じなので、20年の落差というのは、時の流れの早い現代でも、かなり昔という感じになるかと思う。



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Hammerklavier, Beethoven sonata n.29, by Brendel. (2/6)

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飴山實を読む(93)

旧暦11月16日、土曜日、

(写真)朝の野菜直販

朝から病院。午後、家人と待ち合わせて、柏で冷蔵庫を購う。ファンがいかれて音を立てるようになってきた。寿命であるね。何気なく柏の書店で、コミックを見ていたら、なんと、諸星大二郎の新刊が何冊も出ているではないか。荷物があるので、今日は一冊のみ。『巨人譚』。最新作品集とある。



淡海から風来て仔猫生まれたる
 「花浴び」

■一読惹かれた。風が仔猫を運んできたようだ。「淡海」という地名の力が大きいように感じた。地名というものも、よく調べてみると、面白いんだろうなと思う。



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芭蕉の俳句(211)

■旧暦11月15日、金曜日、

(写真)黄落

朝、江戸川ウォーキング(40min:pulse 64/93:objective 117)。

どうにか、コールサックに詩を一篇、送ることができた。前回、翻訳詩、詩ともに、できなかったので、今回は、締め切りをすいぶん過ぎたが、出せてよかった。あとは、ドレスデン爆撃について、もう一篇、年内に書きたい。




冬瓜やたがひに変わる顔の形
  (西華集)

■元禄7年作。まづ、可笑しかった。そこに惹かれた。元禄7年というと、芭蕉が51歳のときである。今のようにさまざまな美顔法もなかったであろうから、ことに昔美しかった女性の容姿の衰えは目立っただろう。しかし、だいたい、このころかもしれない。造形の美しさが命の美しさに変わる時期は。社会的・歴史的な条件をものともせず、輝いている命は、それだけで、勇気をもらえる気がするのである。



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Fritz Wunderlich Ludwig van Beethoven Adelaide




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Jack Kerouacの俳句(3)

■旧暦11月12日、火曜日、のち

(写真)冬の空き缶

昨日は、朝まで、レクチャー原稿を書いていた。どうにか、第一部はできた。全部で3部構成にして、自分なりの仮説も入れ込むつもりでいる。だが、いかんせん、日頃の研究不足・準備不足は否めず、底の浅いものになっている。そこが悔しい。今日は、午前中、介護保険の更新調査に立ち会い、午後から仕事。介護保険は半年ごとに見直しがある。審査基準は、厳しくなっているという。




Sunday in a bar
in Woodland Calif.
―One noon beer


日曜のバー
カリフォルニア ウッドランド

一杯の昼のビール


■物語がはじまる気配に惹かれた。普通なら、「A bar on Sunday」とするのだろうが、ケルアックは、「バーの日曜」という表現にしている。このあたりは、やはり詩的な言い回しを感じる。日本語の俳句では、「日曜のバー」として、物の確かさの方に重心を置くので、そう訳出してみた。



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Fazil Say plays Ravel
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