verse, prose, and translation
Delfini Workshop
往還日誌(21)
■睡眠時間を入れて、断食16時間行った。
曇りときどき晴れの寒い日だった。
昼は簡単に用意して食べられたが、夜は忙しく、レトルトのカレーを食べるしかなかった。ご飯を炊く時間もなかった。
毎日行く、御所の空間の特異性について考えている。
普通の公園となにが違うか。
一言でいうと、空間に無秩序がない。
あっても、きわめて局所的・一時的――たとえば、小さいお子さんたちを連れた若いママさんのグループなど。酔いつぶれている人などは皆無。
皇宮警察のパトカーが巡回しているが、そういう外的な力によって、この秩序が保たれている気配よりも、神社のような宗教的な力で内的に保たれている印象が強い。
もちろん、ドローンの飛行禁止や音楽活動の禁止、道具や運動用具を使った遊びやスポーツの禁止など、御所の禁止事項は多い。
私が問題にしたいのは、そういう禁止事項を粛々として守るメンタリティーである。
もちろん、一概に悪いと言うつもりはない。
私自身も、御所の空間に入ると、神社と同じように、粛々とした気分になる。
大きな権力の存在を背後に感じさせるというよりも、やはり、宗教的空間のような何かを感じる。
ちなみに、軍事要塞である皇居にも、権力の誇示はなく、宗教的な演出が施されているのをテレビ画面などから感じるが――内装のきわめて簡素であるところなど――、御所ほど、それを強く感じることはない。
これは、御所の主に外側からの印象にすぎない。
内部の装飾や贅を見れば、印象は異なるかもしれない。
権力と宗教と空間・トポスの問題。
ジェルジ・ルカーチは、空間とは時間の凝縮されたものだと言った。労働によって空間が形成されるからである。
御所の神聖な空間に、労働者たちの膨大な労働時間の集積を見ることは、「神聖さ」とは何かを考える一つのよすがになるのではないか。
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