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蕪村の俳句(119)




■旧暦2月13日、月曜日、晴れ。

土曜日は、公開講座『ルカーチの存在論』25周年の最終日。いま、もっともアクチュアルなテーマである憲法について、さまざまな議論を交わすことができた。報告は、『日本を戦争する国にしてはいけない』(小西洋之著)をもとに、わかりやすく自民党の解釈改憲の問題点や憲法改正案について、まとめてあった。

報告の中で、驚いたのは、文書化された昭和47年の政府見解を、2014年に安倍内閣の横畠内閣法制局長官が歪曲し都合よくでっちあげてゆくプロセスである。

詳しくは、この本と、後日アップする予定の公開講座のレジュメを見ていただきたいが、「(日本への)外国の武力攻撃」という自明の部分が「(同盟国への)外国の武力攻撃」というふうに、でっちあげられて無理やり集団的自衛権を正当化していく。自明な主語や目的語は、書かない、という日本語の特質を、逆手にとって、時の政権に都合のいいように論理を捏造してゆくのである。

その部分だけレジュメから引用すると:

「しかしながら、だからと言って、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それはあくまで(同盟国への)(この部分はもとの政府見解にはない)外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するため取られるべき必要最小限の範囲にとどめるべきものである」(昭和47年政府見解の一部)

この緑で書いた追加部分については、昭和47年の政府見解作成責任者3名から九条をどう読んでも出てこない解釈という批判がでている。ここで、述べたいのは、横畠長官の解釈は、歴史的にも論理的にも、破たんしているということである。第一に、(  )で追加されたデタラメがあり得ないのは、「(日本国への)外国の武力攻撃」という趣旨が自明であったからこそ、省略されたのであり、自明な主語や目的語を省略するのは、日本語の言語的な習慣であり特徴であること。第二に、「日本国」と「外国」は互いに排他的な関係にあるが、そのため、この部分に(日本国への)が入っても論理的な破たんをきたさないが、「同盟国」と「外国」は排他的関係ではなく、「同盟国」は「外国」に含まれる。したがって、「(同盟国への)外国の武力攻撃」は論理的に破たんしている。もし、そういう趣旨なら、「(同盟国への)同盟国以外の外国からの武力攻撃」となっていなければ、省略はできないはずである。政権に都合のいい部分だけ省略されているとする、きわめて悪質で政治的な解釈である。

この問題は、かつて、ロマン・インガルデンの「無規定箇所」という観点から、詳しく展開したことがある。ご興味のある方は、東京情報大学で2010年に行ったレクチャー「情報とイデオロギー、あるいは知と信の問題について」の第3章をご覧ください。

今回の「憲法の問題」では、憲法が近代の民族国家の枠組みを前提に成立している根本的な問題点を、現行憲法の対象から、現実的には外されている「他者の問題」という観点から見てみるために、大江健三郎のエッセイ集『持続する志』(1968年刊)から、沖縄問題に触れたものを、2篇資料として用意した。「他者」と、ここで言っているのは、現行憲法の権利の恩恵を受けずに、疎外されている人々を指している。沖縄の人々や在日の人々、アイヌの人々や、精神病者、障害者、ハンセン病者、CP(脳性麻痺)LGBTの人々などである。

残念ながら、この「他者の問題」は深まらなかった。議論がそこへ至る余裕がなかった。上記に述べたように、あまりにも、杜撰で悪意に満ちた諸問題と格闘するのが精一杯だったからである。そもそも、自民党の改憲案を通してしまえば、現状でも、憲法の効力が及ばずに、基地問題や差別問題や貧困問題で苦しむ人々への「構造的悪」を再生産するどころか、拡大再生産してしまう。今度の夏の参議院選挙は、その意味では、日本国民の問題であり、同時に、「日本国の他者の問題」でもある。この点はとても重要だと思う。他者こそ、自分のことだからである。


日本を戦争する国にしてはいけない
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持続する志 現代日本のエッセイ (講談社文芸文庫)
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しら梅のかれ木に戻る月夜哉


句集 明和7年




■これは梅が散った直後の月夜であろう。梅の枝に、月が花のように咲いている。その見立ては、この梅の木が小高いところにあって、見上げる形にならないと成立しないだろう。満月に近い月だと思う。まだ、朧にはなっていないが、冬とは明らかに違う月。その情景を想像すると、梅の木も月もそれを見ている人も、相互に、循環し浸透しあっているような気分になる。月が梅になり梅が人になり人が月になる。それぞれの存在の境界が、春の気配の中で次第にあいまいになってゆく。このあいまいさは、春の夜に見る夢に似ている。月は、ふたたび、失われた花を蘇らせる。時間を逆行して。それを見ている人も、すでにこの世の人ではないのかもしれない。


蕪村句集 現代語訳付き     (角川ソフィア文庫)
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一日一句(1437)







花三分容易ならざる心かな






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