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Newsweekを読む(1):Is Photography Dead?

■旧暦11月11日、木曜日、

午前中、病院で健康診断。一年半ぶり。メタボがぎりぎりセーフの数値で驚いた。運動したいなあ。



【足尾への旅】温泉で暖まってから、今度は、神戸(ごうど)駅をめざした。ここから、星野富弘美術館まで、送迎バスが出ている。星野富弘という詩画作家は、地元ではつとに有名で、美術館が新築されて、いっそう、訪れる人が増えたと聞く。ぼくは、どうも、この人が苦手で、今回、初めて訪れた。身障者(星野さんは、今年還暦。中学の体育教師だった星野さんは、23歳で授業中に事故に遭ってからずっと、肢体不自由で、口で絵を描き、詩を書いている)に対する同情心が先行して、絵の独立した批評や理解を阻んでいるのではないか、とずっと思ってきたのである。今度、行ってみる気になったのは、星野さんほどじゃないしても、ぼくもいろいろな持病を持ち、年齢を重ねて、人生の苦難をそれなりに味わって、逆に、星野さんと適度な距離が取れるようになったと感じたからである。つまりは、身障者が描いたにせよ、健常者が描いたにせよ、絵を絵として見、詩を詩として聴く体勢が整ったように感じたのだ。

そんな気分で訪れた美術館に展示された水彩画は、人を圧倒する気配がまるでない。ひっそりと、野に咲く花のように展示されている。なにか、斬新なことをやろうとか、人に衝撃を与えようとか、そんな雰囲気は微塵もない。ただ、目の前の草花を細部まで描きこんでいる。星野さんは、クリスチャンだが、そして、その信仰が、生きる支えにもなっているのだろうけれど、ぼくの感じたのは、絶対的な超越神を信じる人の絵じゃなく、草花の細部に神がいることを信じている人の絵のように思えた。神道的な感受性と言っていいのかどうか、わからないが、描かれた草花は、どれも微笑している。

中でもぼくの印象に残ったのは、新聞のためにペンで描かれた草花だった。モノクロームの草花が、静かに微笑んでいる。ほのかな明るさが絵から漂っている。

星野さんの絵を見ながら、ぼくは、子規のことを思った。結核で寝たきりだった子規も、水彩画をよくしたが、彼もまた、神は細部に宿ることを確信していた一人だったのではないだろうか。

(写真)わたらせ渓谷鉄道「神戸駅」。なんともいえない味わい。



Newsweek(DEC.10, 2007)を読んでいたら、写真論に眼が止まった。デジカメで、なんとなく、写真を撮るようになって、どうも、写真論が気になるのだった。この記事の内容そのものは、さして、斬新なものじゃない。いわば、デジタルテクノロジー批判なのだが、この記事の筆者が前提にしている思想や考え方が興味深いので、少し、検討してみようと思う。そこから、何が見えるか。

【Is Photography Dead?】 By PETER PLAGENS

【プラゲンズの論旨】初期の写真家は写真を芸術と考え、構成の行き届いた絵画のように撮影することをめざしたとプラゲンズは言っている。そのときの基本的な考え方は、芸術と真実は一体というもので、モダニズムが起こるまでは、現実生活の事物にできるだけ近づけることが、絵画にせよ、彫刻にせよ、西欧芸術の基本だったという。

デジタル操作ができるようになって、芸術写真に非常に大きな可能性が生まれた一方、写真の魂が失われたとプラゲンズは言う。フィルム写真の特徴は、カメラの前で起きた現実を記録することである。デジタル写真の場合、現実はバラバラになり、かすかな痕跡しか残されていない。写真はレンズの前で起きたことから完全に自由になってしまった。現在、ギャラリーに展示されている写真は、タッチや質感を除けば、本質的には、絵画となんら変わらない。写真は、現実に根ざした「証拠」だとは言えなくなってしまった。

【感想】プラゲンズの議論は、ナイーブだと思う。フィルムカメラが現実を正しく写し取ると考えていることに、まずびっくりした。写真は、現実の全体のコンテキストから、一断面を切り取るだけであるから、そもそもカメラの写した現実はわれわれの生きる現実とは異なるものだろう。写真に撮られているから、それが真実だとは、単純に考えられないのではないか。現実の一断面であり、現実の誇張であり、現実への誘いであり、現実の告発であり、現実の再構成であろう。事の良し悪しは置いて、写真によって「重要な真実」が作り出されてきた側面を見逃すことはできない。フィルムカメラにしても、デジタルカメラにしても、そこに操作性が内在するという点では同じである。デジタル化によって、写真の操作性が大幅に拡大したことの影響は、おそらく「報道写真」にもっとも出るのではないか。「本当らしかった」写真で、封印されてしまった批判精神が、デジタル写真で顕在化するとすれば、デジタル写真の意義も少なくはないとも言える。写真を見る側に、これまで以上に、批評精神が求められるようになってきたのではないだろうか。

では、写真や映像を撮る側はどうか。東チモールやミャンマーの例に見られるように、独裁政権による非人道的な弾圧の映像や写真が、インターネットを経由して、世界中で観ることができるようになり、プロテスト運動の組織化に多大の影響力を持った事実を忘れることはできない。もし、その弾圧している映像や写真がデジタル処理されたまっかな嘘だったとしたら? だれかが、反対勢力を駆逐するためにでっち上げた「作品」だったとしたら? 逆に、レンズの前で起きた「現実」なのにも関わらず、デジタル処理された偽物だと、権力側・体制側がキャンペーンをインターネットで大規模に行うことも予想される。その映像が、少なくともレンズの前で起こったものであることを、どこで、だれが、どのように、担保すればいいのか。この問題は、社会運動や政治運動との関わりで、遅かれ早かれ、問題化するに違いない。UCCが韓国の大統領選に影響力を持ち、YOU TUBEが米国の大統領選に影響力を持っている今、とても重要な問題になってきている。

この意味では、プラゲンズの議論は、ナイーブであるがゆえに、重要な問題を内包していると思えるのである。




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