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Cioranを読む(79)


■旧暦12月3日、火曜日、

(写真)無題

今年は、全然、年賀状を書く気にならない。時間がないせいもあるが、新年を寿ぐ気分になれない。そのくせ、Merry Christmas!という挨拶はするのだから、われながら、現金なものであるが、クリスマスは、どこか、借り物という意識があるせいかもしれない。



F/Bで八木重吉の詩を読んでいるのだが、今さらながら、その詩の凄味に感じ入っている。


人を殺すような詩はないか     八木重吉「病床無題」


八木重吉は、よく知られているように熱心なクリスチャンだが、本来、キリスト教は、それ以前の宗教と違って、理神論的な合理主義の色彩が強い。だが、八木重吉の場合は、非合理な存在への感性が、もともと、豊かという気がする。


ながいこと考え込んで
きれいに諦めてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色の空が
つめたくはりつめた
雲の間に見えてほんとにうれしかった

同「冬」


キリストにすがりつく詩も多く書いている。結核で30歳で死去した八木重吉の状況を考えると、理解できなくもないが、個人的には、そういう詩は好きではない。それよりも、自然や四季に寄せる神道的とも言える鋭い感性に惹かれる。八木重吉の詩を読むと、以前、星野富弘美術館で見た絵を思い出す。星野さんもクリスチャンだが、とても日本的なものを感じる。


風はひゅうひゅう吹いて来て
どこかで静まってしまう

同「木枯し」




Faute de savoir vers quoi se diriger, affectionner la pensée discontinue, reflect d'un temps volé en éclats.     Cioran Aveux et Anathèmes p.137 Gallimard 1987

どこへ至るのかわからないが、わたしは、不連続の思考がとても好きである。そこには、盗まれた時間がこなごなになって輝いている。

■この断章は、ベンヤミンとの類似性を感じる。ベンヤミンも、断片や引用が好きな思想家だった。歴史は、瞬間的に放電されるという信念があったのだろう。そもそも、歴史という構成物にも起源があるのだから、その連続性は、はじめから、存在しない。歴史の連続性を謳う言説は、一種のイデオロギーであり、その言説の機能と、それを必要とする社会的存在を考えてみるべきなのだろう。






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Cioranを読む(78)


■旧暦11月20日、水曜日、、赤穂浪士討ち入りの日

(写真)冬紅葉

ヒッグス粒子が98.9%の確率で発見されたらしい。面白かったのは、物理学で新粒子が「発見」されるというのは、99.9999%以上の確率で存在するときだという点だった。この数字は、10,000回に1回は非在、ということになる。10,000回に1回の非在は、存在すると見なすわけだ。この10,000という数はどうして出てきたのか、興味を惹かれる。新聞報道では、世界には、粒子を探索するグループが1,000くらいあるから99%の確率では、10ぐらいのグループに、はずれがでてしまうからだと説明されている。これは存在基準を99%にしない理由で、99.9999%に設定した理由ではない。だが、この論理を敷衍すると、非在確率を1%未満にすればいいことになる。粒子探求グループは、現在、1,000だが、この基準では、今後、最低10,000を想定していることになる。今後の展開を踏まえると、10,000というグループ数は現実的とも非現実的とも言えるだろう。だが、数字の設定論理自体は、きわめて社会的である。この設定論理が、正統なものだとしたら、真理が社会的条件に規定される一例ではなかろうか。



Quelle incitation à l'hitarité que d'entendre le mot but en suivant un convoi funèbre!      Cioran Aveux et Anathèmes p.106 Gallimard 1987

葬列の中で、目的という言葉を聞くのは、なににもまして哄笑の種になる。

■面白い断章。死が虚無だとすれば、目的はナンセンスだが、虚無は有の反対概念なのだろうか。虚無もまた、未知の粒子で充たされている、としたら。その存在・非在の基準が社会的なものだとすると?

 
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Cioranを読む(77)


■旧暦11月19日、火曜日、、一茶忌、煤払い

(写真)柿の木の夕

BOOK OFFで買った町田康の『へらへらぼっちゃん』を読んでいる。えらい、気が楽になるのは、ダメぶりでは自分も同類だからだろうか。それでも思うんだが、文学者が書く無頼系エッセイは、最後の最後のところで、吹っ切れていないような気がする。町田康だと、頭がいいのが、少し見えてしまう。頭が悪ければ、こんな文章、元より書けないのだろうが。これに似たエッセイに、三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』がある。これも面白かった。三鬼の場合は、頭の良さよりも「要領がいいな」という感想が湧いてくるw。生き延びるには、なにかしら、特技がないといけんのだろうね。知人と目があって、その瞬間「プーッ」と吹き出されたりすると、オレもいい線行ってるな、と思えるこの頃なのである。



Tout se dégrade depuis toujours. Ce diagnostic une fois bien établi, on peut débiter n'i,porte quelle outrance, on y est même obligé. Cioran Aveux et Anathèmes p.130 Gallimard 1987

はるか昔からすべては堕落している。この診断をいったん下してしまえば、あとはもうどんなに極端なことを言ってもいい。いやむしろ、義務でさえある。     

■先日、新聞を読んでいたら、何らかの思想に偏らないで事実を実証的に積み上げている、ということを記者が述べていて、びっくりした。実証主義は、立派な19世紀の思想である。十分、思想的に偏っている。主観客観図式は常識と親和性が高いので、それが「科学的」で「中立」だと思うのだろう。言いかえれば、だれにとっても役に立つ知識に見えるのだろう。実証主義的アプローチが成果を上げることもあるが、こればかりを強調すると、そこで使われているカテゴリーが、だれを代弁しているのか、見えなくさせる。さらに、大胆で革命的な理論の登場を阻むことにもなるのではなかろうか。シオランの言葉は、実証主義的な小心さの対極にあると思う。





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Cioranを読む(76)


■旧暦11月18日、月曜日、

(写真)無題

マエストロ(Valery Afanassiev)が、新しい詩を数編送ってくれたので、返事を書く。今までよりも、言葉の運動の傾向が強く、詩の中に沈黙を呼び込んでいない。その分、詩のはじめと終りの静寂が深くなったように感じる。言葉が言葉を呼び、詩句が詩句を呼び込む。思想的な一貫性は、以前から、変わらない。英語のリズムは読むだけで心地いいので、いくつか紹介したい。






You say, they say; so do I.
Heaven isn’t down yet. It is up,
Sideways.

So many gods hang
In our wardrobes.

You choose one god,
Two women. They’re on
Your floor.

So many floors. All of them are
Full of gods and goddesses.

An empty floor; an empty god.






Wait, wait. I can’t wait. I wait.
You come, you don’t. Let us listen
To you, to your brothers and
Sisters; and uncles. I listen; I hear only
One note. She is right.






You, you, you. Thou. I’m weary of thous.
There are only ‘ous’. I’ll utter
Their word. Do they have one? Everyone has
A word. This is the word. This is
My word, your word. This is, is, is. I
Can utter it, show it. I am it.
Am.








女性対象(とくに高齢者)のカーブスというフィットネスクラブがある。もともとは、米国資本らしいが、盛んに、新規会員を募集して、全国展開している。だが、その商売の仕方は、新興宗教並みにえげつないので、書いておく。まず、会員になって、しばらくすると、新規会員を勧誘するように指導される(顧客を、社員のように扱い、新規勧誘を強い、事後報告までさせる。こういう神経が、そもそも、理解できない。トレーナーは「コーチ」だそうである)。フィットネス中は、不自然なほど、フレンドリーにコミュニケーションを図り、個人情報を根掘り葉掘り収集する。カーブスと会員の感情的なパイプを太くした段階で、プロテインなどの自社製品を強引に売りこんでくる(感情的につながっているので、断りにくくなる)。断ると、露骨に、感情的な反応を示して、他の会員との差別化を図り、行動をコントロールしようとする。この感情ビジネスのいかがわしさに、気がづいた会員は辞めるが、常に、新規会員の補充を行い、身心ともに洗脳された会員の数を増やしていく。会員は、一人の人格を持った人間ではなく、金になるかどうかで選別している。アメリカンビジネスの典型のような価値観だが、日本文化のどこを突けば金になるか、よく研究している。高齢者になるほど、判断力、意志力は弱くなる。まして、都会の一人暮らしの老婦人は、一も二もなくやられてしまうだろう。こういうことを22、3のトレーナーの女の子たちが、良かれと思いこんで、やっているのである。なんだか何重にも物悲しいではないか...。今後、TPPでこういう現象が増えるのではないかと危惧される。



Tou ce qu'on peut classer est périssable. Ne dure que ce qui est susceptible de plusieurs interprétations.     Cioran Aveux et Anathèmes p.129 Gallimard 1987

分類できるものはすべからく滅びる。生き残るのは、何通りもの解釈ができるものだけである。

■分類できないものが生き残る、という見方は非常に面白い。自然界全体を見るとそうなのかもしれない。人間は、分類できるものになろうと必死である。社会的なアイデンティティが、経済を保証するからだ。その経済が崩壊しかけている。分類できるものは生き残れるのであろうか。



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Cioranを読む(75)


■旧暦11月17日、日曜日、

(写真)街の花束

諸星大二郎先生の『諸星大二郎』(河出書房)を読みながら、朝寝してしまった。幸福なひととき。午後、買い物。目当ての青梗菜が売り切れていた。つまらないので、BOOK OFFで町田康の文庫を二冊購う。半額セールで〆て275円。



f/bで交流させていただいている詩人の渡辺洋さんから詩集『向日 歌う言葉』(書肆山田)をいただいた。読後、とても、いい気分になった。いい詩集は、いつもそうだが、説明するだけ野暮だし、批評の言葉を軽やかに超えている。渡辺さんの詩を読んでいて、語り口や言葉の肌触りは、まったく違うけれど、マルクスの『経哲草稿』をしきりに思い出していた。渡辺さんの詩の中に、「どうして歌うように働けなくなったのか」というフレーズがある。ぼくは、ここに現代の問題すべてが集約されていると思うのである。


心を抱えきれずに
誰かにあずけたくなる日

趣味のないぼくは
ここにはいない人たちに話しかけながら
川の街を歩きまわる

(ぼくたちはどうしてはなればなれになったのか

ぼくたちの思い出す力が押しながされている
思い出すことをわすれつづけるために
劇場のような街を充たす歌に身をまかせる
怒り出す直前のような笑顔で

(はなればなれになったぼくたち一人ひとりの集合!

どうして歌がぼくたちを結びつけなくなったのか
どうしてぼくたちは歌いながら
わすれることしかできなくなったのか
どうして歌うように働けなくなったのか

(ぼくが間違っているならそっと教えてほしい
(これから歌い始める人たちは何を歌うのだろう

ベンチで思い出しかけた歌をさがしながら
ひとりごとになってしまう心は川に流して
いつかきみと語りたい言葉を拾い集める

それはきっと道の花のように
小さな声の歌


「花」全行



十七歳のカオルに教えてあげられることはもうない
彼女は自分の生き方を生きていくだろう

でもぼくは生きるスピードでは追い抜かれながら
探しているものがまだたくさんあるから
カオル きみよりも若いんじゃないかと思っている

たとえば ぼくたちを見張るサーチライトが
見落とす隙がなくなっていく世界で
ぼくがぼくを思い出していける場所
思い出話で終わらない
そこからまた何かが始まる旧友との再会
ぼくを呼んでいるとしか思えない本や歌と出会って
一人ではなかったと思えること

きみがこれからを生きていく時代に
世間知らずの父がどう変わっていくのか
きみにヒントをもらえるかもしれない


「世間知らず」全行



きみの軽蔑を変えられるとは思わない
ぼくの弱さをきみの日々の苦しさが見抜いたんだろう

もう本はいらないと言っていた
きみへのプレゼントをさがすように
ぼくはきみが好きだという本を
書き続けるだけさ

遠ざかっていくぼくたち
それぞれにつめたさを抱えた磁石のように
振り返ってくれなくていい
ぼくはさびしさできみを追い抜いていく
このさびしさをくぐり抜けるために

どうもありがとう
きみが教えてくれる
これ以上一人になれないと思うときも
ぼくは歌うだけで生きることができる

ぼくは帰ってきた


「向日 10(贈りものについて)」部分


言葉のテクノロジーだけで書くからっぽの詩人が多い今、われわれの時代に本当に必要な詩人かもしれない。長く書きついでほしい詩人の一人である。強く一読を勧めたい。



Ce que je sais démolit ce que je veux. Cioran Aveux et Anathèmes p.137 Gallimard 1987

わたしの知っていることが、わたしのしたいことを解体する。

■よくわかる断章。インプットが多すぎると、いったい、自分は何をしたかったのか、わからなくなる。漂流する。そうすると、自分の輪郭さえ、あいまいになってくる。くっきりしたものが何もない現代、苦痛以外には。












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Cioranを読む(74)


■旧暦10月29日、木曜日、

(写真)枯芒

16日にレクチャーが終了してから、早くも一週間が過ぎた。さまざまな課題をいただくことができた。この間、来日したマエストロ、Valery Afanassievに、佐村河内守のCD、交響曲第一番HIROSHIMAを渡し、新作詩を一篇作り、Paul CelanとAfanassievの詩をそれぞれ翻訳した。19日の土曜は、哲学塾に参加、思索上のヒントをいくつも得た。今回のぼくのレクチャーは、物理学に関連するので、プロパーの人の意見を聴きたく思い、数学と物理が専門のSさんに原稿を渡す。今日は、朝から仕事に入る。今、新規の翻訳企画一本と、新規の翻訳一本を計画し、着手したところ。はじめて、小説に挑戦する。春から、数社に打診してきた数種類の本は、なかなか、企画が通るのが難しく、仕切り直しという形になった。市場は、眼先のことしか考えないから、根本的な問題を扱う本は、いつも苦戦を強いられるのである。



Est-il concevable d'adhérer à une religion fondée par un autre? Cioran Aveux et Anathèmes p.138 Gallimard 1987

他人が考えだした宗教に帰依することなど考えられるか。

■まさに然り。一人宗教=文学。市場に組み込まれ、乞食は乞食であることを忘れる。







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Cioranを読む(73)


■旧暦10月26日、月曜日、、波郷忌

(写真)無題

朝4時から起きている。我ながらいかがなものかw。当然、昼寝しないともたない。雨に降り込まれている夢だった。家族が実家の畑に、みかんとレモンを採りに行ったので、静かだったが、家事に追われた。朝の冬雲がきれいだった。











Puisqu'on ne se souvient que des huminiliations et des défaites, à quoi donc aura servi le reste? Cioran Aveux et Anathèmes p.127 Gallimard 1987

ひとは屈辱と挫折しか覚えていない。であるなら、その他のことは、いったい何の役に立つことになるのか。

■これも強烈な断章。確かに、屈辱と挫折(des huminiliations et des défaites)は、記憶が反芻されるので、よく残る。問題は、これがどういう行動に媒介されるかだが、いずれにしても、個人的な行動には出るように思う。その他のこと、たとえば、希望や目標、計画は、集団的な担保がないと、維持するのが難しいように思う。労働の一大特徴は、人間が社会集団的な存在であるからこそ、生まれたものなのだろう。








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Cioranを読む(72)


■旧暦10月25日、日曜日、

(写真)無題

朝から、空腹を覚えたので、コンビニへ。餃子饅で茶を飲む。クリーニング屋に寄ってから図書館へ。日経の記事をコピーしてくる。詩の翻訳の記事なのだが、ランボーの新旧訳が対比されている。新旧それぞれの翻訳の背後に文化があり、その文化は、新しくなるほど劣化している、そしてそれは、現代詩の劣化状況と正確に対応している、とぼくには思えた...。

今日の東京新聞の一面トップは、面白かった。反原発の記事中傷。ここから〉〉〉 ウェブではなく、新聞の方では、外部委託された財団法人が、記事内容に付けたコメント一覧が掲載されていて笑える。しかし、税金を使って、こんな幼稚なうなづきあいをやってきたのか。昏い気分になる。貨幣を媒介にしたオナニーですね、これは。09年に受注した日本科学技術振興財団の場合、仕事は、外部専門家に丸投げ。職員は確認だけ。それでも、誤字脱字のオンパレード。オナニーすることが泥棒になる史上稀なケースかw。



Le goût de la formule va de pair avec un faible pour les définitions, pour ce qui a le moins de rapports avec le réel. Cioran Aveux et Anathèmes p.129 Gallimard 1987

公式への偏愛は定義への偏愛と同根である、つまり、現実とのつながりがもっとも薄い行為と。

■非常に鋭い。自然科学など、認識論的な個別科学あるいは学問では、これが一般的だが、そうした学の一番の弱点を突いている。



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Cioranを読む(71)


■旧暦10月22日、木曜日、、北風、また、放射性物質の飛散に注意が必要な時期になった。

(写真)鴨

来年用の手帳のリフィルを購入。もう、そんな時期なのか。

珈琲は、朝一杯だけ飲むのだが、これまで、ドリップにしても、珈琲メーカーにしても、ペーパーで濾していた。たまたまヨーカ堂で、布で濾す一人用のHARIOのネルドリップを見つけて、試してみている。ペーパーに比べると、豆にお湯を注いだときのふくらみがまるで違う。珈琲の味も、ペーパーよりもはっきり出る。一人で少量飲む人にはいいかもしれない。欠点は、使用前後に多少手がかかること。ペーパーなら捨てれば済むが、布は、洗って、水に浸し冷蔵庫保管する。こういうのも、旨い珈琲を淹れる儀式の一つと思えばいいのだろうけど。



12日(土)は、久しぶりの朗読会。マエストロの詩と自作詩を朗読。数人で朗読して、スピーチもあったので、他のみなさんの話を聞いてみた。みなさん、真面目で、これまで、電気を無自覚に浪費してきて、福島のみなさんに迷惑をかけたと思いこんでいる。でも、これは、まっかな思い込みである。個人は、抽象的に存在するわけではない。消費文化や文明全体に媒介されて存在する。個人的な責任よりも個人を媒介する社会体制の方が、罪ははるかに大きい。それは、経団連、国、電力会社、東大工学部原子力工学科出身の学者・高級技術官僚、読売を中心にした新聞・テレビ、米国政府が形成してきた全体構造である。問題の所在ははっきりしている。

16日(水)は、福島原発事故に関連したレクチャーを某大学で行う。原子力発電の問題を考えることは、それを生んだ、アインシュタインの特殊相対性理論やその前史であるニュートン、ガリレオまでさかのぼって、かれらの、一見価値中立的で普遍的な公理が、実は、イデオロギー的な基盤を持っており、特定の歴史的現実に立脚していることを、明確にすることから始めなければならないと、ぼくは思っている。そんなわけで、相対性理論やニュートン力学を検討したのだが、短期間で理解できるほど、その理論は、浅くない。完全に理解できなかったことが心残りだが、今後の楽しみが増えたと思っている。テーマは「科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―」だった。

今後、懸案の「詩人・村松武司論」に取りかかる予定。気が乗らず、資料は集めていたものの、手つかずだったが、蕎麦屋で喧嘩してから書く気になった。村松を論じることは、植民地とマイノリティの問題を考えることでもある。植民地は、大日本帝国が植民した地域のことを論じるのが、これまでの相場だったが、現在の植民地状況も論じるべきだろうと思う。TPPをどう考えるか、という問題とそれは当然、関わる。TPPは誰を利するのか、アメリカの1%と経団連か。「国益」という統一された利害が存在するという幻想で覆い隠されているものは何か。「国益」とは社会の利害対立を覆い隠すイデオロギーである。



Nous importe uniquement ce que nous n'avons pas accompli, ce que nous ne pouvions pas accomplir, de sorte que d'une vie ne reste que ce qu'elle n'aura pas été. Cioran Aveux et Anathèmes p.95 Gallimard 1987

われわれにとって重要なのは、われわれが達成しなかったもの、達成できなかったものだけである。一人の人生に残されるのは、その人がそうならなかった人生なのである。  

■実に辛辣だが、さわやかな真理。だからこそ、実のあること、価値あることをやろうと思うじゃないか。





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Cioranを読む(70)


■旧暦10月16日、金曜日、、満月

(写真)無題

起き抜けにシオランを写経する。松戸市も、0.3μSv/h以上の公園・緑地を除染するらしいが、これは、外部被曝のみのカウントであるから、内部被曝を入れれば、軽く1mSv/yは超える。諸般の事情で2年はここを動けないが、それ以降は、子どものことを考えると、引っ越しを考えざるを得ないだろうと思っている。しかし、どこへ?



Qui ne croit pas au Destin prouve qu'il n'a pas vécu. Cioran Aveux et Anathèmes p. 107 Gallimard 1987

「運命」を信じない者は、これまで生きたことがない証拠だ。

■まったく同意。自分では、どうしょうもない自分の中の何かに反乱された経験のない人は、人生上の「計算」はあっても「深み」がない。





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