verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Cioranを読む(89)

■旧暦12月25日、水曜日、

(写真)無題
東電から特定規模電気事業者PPs、とくエネットへの切り替えの提案書を集合住宅の管理組合に提出。6000ボルトの高圧電流に対応している建物なら、どこでも変更できる。現在、中央官庁、城南信用金庫、学校、工場などで変更が進んでいる。
☆
Tout ce qui ne s'oublie pas use notre substance; le remords est l'antipode de l'oubli...
Plus vous montrez d'indifférence au mal, plus vous approchez du remords essentiel. Celui-ci est parfois troube, équivoque: c'est alors que vous portez le poids de l'absence du Bien. Cioran Le Crépuscule des pensées p. 8 Le Livre de Poche 1991
忘れがたいことはみな、われわれの本質を損なう。後悔が忘却の対極にある。...悪に無関心になるほど、本当の後悔に近づいて行く。後悔は、ときに、あいまいで、ときに名状しがたい。善の不在の重荷を担うのはこのときである。
■後悔は、過去を思い出すことであり、忘却は、過去を忘れて、あるいは、未来も忘れて、現在だけに生きることだろう。古代ヘブライのように、歴史のない社会を想像してみたくなる。そこには、悪はなく善だけがあるのだろうか。
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Cioranを読む(88)

■旧暦12月23日、月曜日、

(写真)冬の月
終日、仕事。午後、買い物など。
☆
Diogène, dit-on, aurait été faux-monnayeur.---Qui ne croit pas en la vérité absolue a droit de tout falsifier.
Né aprés Jésus Christ, Diogène eût été un sait. Où pourvoient mener notre admiration pour les Cynique et deux mille ans de christianisime? A un Diogéne tendre.
Platon a nommé Diogéne <un Socrate fou>. Difficile de sauver Socrate. Cioran Le Crépuscule des pensées pp. 7-8 Le Livre de Poche 1991
ディオゲネスは贋金つくりだったと言われている。絶対的真理を信じない者には、あらゆるものを偽造する権利がある。
キリストの後に生まれていれば、ディオゲネスは聖人になっていただろう。われわれがキニク派を賛美し、2000年に及ぶキリスト教を振り返るとき、いったいどこへ導かれてゆくか。心やさしきディオゲネスへ、である。
プラトンは、ディオゲネスを「狂ったソクラテス」と呼んだ。ソクラテスを救い出すのは、難しいのである。
■ディオゲネスという人物は、非常に面白い。さすがは、シオラン、いい人に目をつける。プラトンやアリストテレスの同時代人ながら、その思想や生き方は、彼らとは正反対。日本の俳諧師に近い。目的定立的な行為に労働の特色を観たアリストテレスやヘーゲル、マルクス、ハルトマン、ルカーチといった系譜とは別に、そこから零れてしまう領域に立った初めての人かもしれない。無償・無目的・無意味を肯定的に捉えた初めての人ではなかろうか。元祖遊び人、元祖ホームレス、元祖風狂人。ディオゲネスの系譜は、いろいろな変奏を経て現代まで脈々と続いている。アリストテレスの系譜はとても偉大な系譜だと思うが、ディオゲネスの系譜に、なんだか、とても愛着を覚えるのは、ぼくだけだろうか。
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Cioranを読む(87)

■旧暦12月21日、土曜日、

(写真)ある風景
四天王寺どやどや、という祭はよくわからない。日本三大奇祭の一つらしい。よくわからないものほど、興味をひかれる。ここから>>>
今日は、午前・午後と病院。数年ぶりに風邪を引いてしまった。ブレーカーがよく落ちるので、エアコンを切っていたことが、原因だろうと思う。
☆
La solitude na'apprend pas à être seul, mais le seul.
Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)
孤独は、一人になることではない、唯一者になることだ。
■孤独は、集団から離れて物理的に一人になるのではなく、唯一者になることだという、この断章は、非常にキリスト教的だと思う。le seul(唯一者)という表現は、唯一神へとつながっている。集団を離れるのではなく、集団を超越することを意味している。実際には、こういうことはあり得ない。唯一者、唯一神、絶対者という観念は、人間の相互関係、社会関係を不可視化することで成り立つからだ。社会と無関係な孤独などありえない。隠者にも生活はあるのだから。ただ、超越者という存在が生成されていくプロセスには、人間の実存的な孤独が作用していたらしいことは、読み取れるのではなかろうか。実存主義は、形を変えた神学とも言えるかもしれない。
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Cioranを読む(86)

■旧暦12月19日、木曜日、

(写真)無題
年賀状には、いつも俳句を3句書くのだが、今年は、新年らしい句は書けなかった。その中の一つに、解酲子こと、倉田良成さんが、脇を付けてくれたので、ご紹介したい。
山川やことに今年の除夜の鐘 冬月
黙深くとも春はあけぼの 解酲子
倉田さんは、ぼくの詩集『耳の眠り』に、本格的な批評を書いてくれた詩人でもある。この批評は、辛口だったが、今後の方向性を考える上で、参考になった。
☆
春らしい漢詩でも読みましょう。
胡隠君を尋ぬ 高啓
水を渡り 復た水を渡り
花を看 還た花を看る
春風 江上の路
覚えず 君が家に到る
水を渡り、また水を渡り
花をながめ、さらに花を眺め
春風に吹かれつつ河沿いの路を行ったら
いつのまにかあなたのお宅に着いていました
(松枝茂夫「中国名詩選」)
高啓(1336~1374)字は季迪(きてき)、号は青邱子。長洲(今の蘇州市)のひと。
洪武二年(1369)明の太祖の召しに応じて『元史』の編集に従事、才を認められて戸部右侍郎に抜擢されたが固辞して帰郷した。その後、詩を作って太祖の好色を批判したため、洪武七年、南京で腰斬の刑に処せられた。
■経歴を読むと驚く。命がけの反骨。詩人の原型を見るような気がする。この詩は、過酷な運命の中に咲いた花のように思える。享年39。
☆
Nous sommes tous aisi: dès qu'il s'agit d'un principe général, nous nous mettons hors de cause et n'avons aucune gêne à nous ériger en exception. Si l'univers n'a pas de sens, y a-t-il quelqu'un qui échappe à la malediction de cette sentence? Tout le secret de la vie se réduit à ceci: elle n'a aucun sens, chacun de nous, poutant, lui en trouve. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)
われわれはみな似たり寄ったりで、一般法則が話題になったときでも、自分とは関係がなく、いとも簡単に例外扱いできる。もし、宇宙に意味がないのだとしたら、この宣告の呪いを免れる者はいるのだろうか。生の秘密の一切は、生には何の意味もなく、一人一人が生に意味を見出しているにすぎない、というところにある。
■この断章は、そのとおりと思うが、自然界の一般法則が自分とは関係ないと思うのも、まったく理由がないわけではないだろう。自然界と人間界は、目的定立的な労働の有無によって隔てられているから。自然界の一般法則を人間社会に当てはめても、うまくいかない。そうすると、逆に、労働以外の「遊びの領域」は、無償・無目的・無意味といった点で、自然に近いとも言えるのではないか。子どもの世界も、「遊びの領域」に近く、そして、子どもの無垢は善よりむしろ悪に近い。
一年前に、シオランの「偶然と必然」について、こんな記事を書いている。ここから>>> 自然法則は、いわば、必然性を前提にする。人間の「意識」には、「偶然性」が含まれる。その点で、目的を立てる活動に対応している。今日は、居酒屋、明日は、蕎麦屋で飲むのは気分次第である。その偶然性の根源には、生誕の偶然性があるのかもしれない。
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Cioranを読む(85)

■旧暦12月17日、火曜日、

(写真)無題
なぜか、最近、アメリカン珈琲党になってきた。旨いアメリカンはなかなかないが、当たると、嬉しい。床屋へ行ったら、寝ている間に、短く刈り込まれていた。坊主頭に近い。帰ってきたら、家人らの笑いを誘ったのだった。
☆
「いひおほせて何かある」(去来抄25段)
下臥につかみ分ばやいとざくら
先師路上にて語り曰く、「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。去來曰く「糸桜の十分に咲たる形容、よくいひおほせたるに侍らずや」。先師曰く「いひおほせて何かある」。ここにおいて胆に銘ずる事あり。初て発句になるべき事と、なるまじき事を知れり。
※有名な「去来抄」の「「いひおほせて何かある」の段。一般には、発句の余情、余韻、含意、真情の重要性を説いたものとして受け取られている。この芭蕉の評を引きだした巴風の句を見てみると、枝垂れ桜の下に仰向けに寝て、その花の枝をつかみ分けてみたいものだ、という願望を表している。願望は、言いかえれば、目的とも言える。自分の外部に存在する客体への働きかけの意識である。この句は、美、あるいは風流を詠んだものだが、その行為の起源には「労働」がある。それは、目的定立、主体・客体という形で、素のままに現れている。言ってみれば、この句は、発句ではなく、散文である。
芭蕉の評「いひおほせて何かある」は、発句の条件を述べたものだが、同時に、韻文というものの、非労働性を示している。その起源は、労働ではないことが、示唆されている。恐らく、祈りや呪術などの宗教的なものだろう。「いひおほす」ことをめざすのが、説明であり、科学であり、法則定立である。近代と言ってもいい。芭蕉の価値観は、「いひおほせて何かある」である。ここには、近代によって、見えなくなってしまった存在がある。俳句や詩は、ときに、そんな存在に、稲妻のように触れることがあるのではなかろうか。
☆
Dies que l'univers n'a aucun sens, vous ne fâcherez personne - mais affirmez la même chose d'un individu, il ne manquera pas de protester, et ira jusqu'a prendre des mesures contre vous. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)
宇宙には意味がないと言ったところで、だれも腹を立てない。だが、同じことを個人について言ったら、ぜったいに抗議される。対抗措置さえ取られるだろう。
■実に面白い断章。この後にもっと面白い断章が続くのだが、それは、この次に。いろいろ考えさせられるが、一つ重要なテーマは、人間(あるいは社会)と自然の根本的な違いは何か、という問題だろう。上の芭蕉の話とも関連するが、人間は、目的を立ててそれを実現する活動を行う。それが労働行為であり、これは目的‐手段の連鎖という形を取る(この連鎖は、目的と手段が、ときに、転倒することも含む)。そこから、意識や言語、技術や科学は生まれ、因果律原理や時間も発生している。自然には、この活動はない。人間が人生に意味を求めるのは、まさに、この労働活動が起源になっている。
ところで、人間は、意味だけで生きているわけではない。つまり、目的だけで生きているわけではない。遊びや笑い、趣味や美、風流、趣や味わいなどでも生きている。こうした、目的‐手段、あるいは因果律から外れた領域に、上で述べた俳句や詩などの韻文は対応している。そこに流れる時間は、単線的ではないし、原因から結果を生むわけでもない。
自然科学が、個別科学となって専門分化していくプロセスは、自然の秩序づけでもあるわけだが、その秩序の変遷は、「人間的」なものかもしれない。
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Cioranを読む(84)

■旧暦12月16日、月曜日、

(写真)無題
新型食洗機の電力消費量が大きく、夜間、エアコンをかけながら、ドライヤーや電子レンジを使用すると、すぐにブレーカーが落ちてしまう。ひどいときには、一晩で5回落ちた。これでは、仕事にならない。ネットにも繋がらない。プリンターは、壊れてしまった。パソコンは、フリーズの頻度が急激に上がった。根本的な工事が必要だが、古い集合住宅なので、配線がめちゃくちゃである。総アンペアを上げても意味がない(もっとも、世界最大級の悪徳殺人企業の一つ、東京電力の利潤を増やす気はまったくない。エネットなどのPPsも考慮に入れている)。配線の合理的な分岐から始めないとしょうがないのだが、業者に頼むまでの間、だれも使っていない叔母の住居で仕事をすることにした。そんなわけで、今日は、叔母の自宅の掃除に専念したのであった。
12月以来、セシウムの降下量が増えている。注意されたい。ここから>>> ぼくの住む集合住宅は、先日、管理組合で測定したところ、芝生や側溝で0.3~0.4μSv/h、東の千葉大側斜面で0.5μSv/hとかなり高い。普段でも空間線量が高いのだから、内部被曝には留意しないと、と思っている。
☆
Mes livres, mon œuvre... Le côté grotesque de ces possessifs.
Tout s'est gâté dès que la littérature a cessé d'être anonyme. La décadence remonte au premier auteur. Cioran Aveux et Anathèmes p.104 Gallimard 1987
わたしの本、わたしの作品... こうした所有詞のグロテスクな側面。文学が匿名性を捨ててから、すべてが堕落した。退廃の起源は最初の作者である。
■いろいろ考えさせる断章。個人が一人で、あるいは一つの企業や一族が、なにかを排他的に所有する形態は、そう古いものではないだろう。近代以降だろう。所有形態には、段階があって、複数の個人や家族が、土地や漁場などを所有する共同所有が、むしろ普通だったはずである。だれでも開かれた、という意味での共同所有は、個人所有と同時に出てきた概念ではなかろうか。
フランス語などの所有詞の成立も跡づけて行けば、近代という時代に至って、組織化されてきたことがはっきりするのではないだろうか。もともと、ヨーロッパの諸言語の成立は聖書の地域語への翻訳と関連が深い。
世界の1%の世帯が世界の富の約4割を「個人所有」しているという現実は、異常である。ここから>>> この現実は、よく考えてみる必要があろうと思う。この1%の世帯は、資本主義の「危機」などまったく関係がないのである。
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Cioranを読む(83)

■旧暦12月8日、日曜日、

(写真)青
朝、雑煮を作る。塩の塩梅を忘れて、足りなかった。出汁はいけていたのだが。食事中に大きな地震があった。元日から地震とは。昼間は、酒を飲んでただ、ぼんやり過ごす。夕方、年賀状を出しに行く。ついでに、珈琲店に立ち寄って、アメリカンを飲む。多少酔いが覚めた。仕事をもっていったが、まったくやる気にならない。ただ、店の中の人々を観ていた。
☆
L'homme va disparaître, c'était jusqu'à présent ma ferme conviction. Entre-temps j'ai changé d'avis: il doit disparaître. Cioran Aveux et Anathèmes p.117 Gallimard 1987
人間は絶滅しかかっている。これが、今日までのわたしの固い信念だった。だが、今、考えを変えた。絶滅すべきである。
■清めの水。元日にふさわしい断章。怒り出す人もいるかもしれないが、ぼくは、いたって真面目である。いや、滅びればいいと言っているのではなく、われわれは、こういう冷水をたまには頭から浴びるべきではないだろうか。文明は思い上がることで成り立っているのだから。
☆
Sound and Vision
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Cioranを読む(82)

■旧暦12月7日、土曜日、

(写真)大晦日
今日も慌ただしく暮れた。風呂の床と玄関ドアの掃除、買い出し、年賀状作りなど。プリンターが故障するというアクシデントあり。やっと、年賀状作成終了。明日投函。今日は、年越し蕎麦のゆで担当。明日は、お雑煮担当。すでに、焼酎が入っている ^^
☆
Périr! ― ce mot que j'aime entre tous et qui, assez curieusement, ne me suggére rien d'irréparable. Cioran Aveux et Anathèmes p.105 Gallimard 1987
滅びる! 格別好きなこの言葉。不思議なほど奇妙に、もう取り返しがつかない、という感じを抱かせない。
■新年にふさわしい断章。徹底的に批判して、最後の紙一重のところで、楽観的でいたいと思う。
☆
Sound and Vision
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Cioranを読む(81)

■旧暦12月6日、金曜日、

(写真)無題
今日は、午後から、買い出しと掃除。あまり人は街にもスーパーにも出ていなかった。賀状の俳句を決めて、明日、印刷の予定。さすがにおめでたい俳句は一つも書けない。
環境省が、22日、「千葉県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの測定結果について」を発表した。添付資料のpdfファイルを見ると、近所の江戸川や坂川の河川敷の放射線量は、0.4μSv/h強とかなり高い。江戸川河川敷は、土手に遊歩道が整備され、そこで、今でも、若い人たちがジョギングを熱心にしている。ご老人はウォーキングをしている。ウェブに関心がない人々は、ほとんど、こうした情報は入らないのだろう。テレビでは、まったく報道されない。市役所が、危険性を告知するしかないと思う。松戸市に注意を喚起するようメールは送ったが、迅速に動くかどうか。江戸川は、ぼくの散歩コースで、息抜きの場所、作句の場所だった。改めて憤りを感じる。
☆
Le doute s'insinue partout, avec cependant une exception de taille: il n'y a pas de musique sceptique. Cioran Aveux et Anathèmes p.112 Gallimard 1987
疑いは、どこにでも、入りこんでくる。だが、重要な例外が一つある。音楽だ。懐疑的な音楽というのは存在しないのである。
■とても面白い考えだと思う。クラシックで言えば、バロック、古典派、ロマン派あたりまでは、確かに、懐疑的な音楽はないように思えるが、現代音楽になるとちょっと違うような気がする。たとえば、ナチの収容所で初演されたメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」は、人間存在そのものへの疑義を含んでいるように感じられるし、ヴェーベルンの短く高密度の作品群は、ときに、音楽そのものへの懐疑を感じさせることがある。
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Cioranを読む(80)

■12月4日、水曜日、

(写真)無題
今日、明日をクリアすると、年内の外での仕事は、一応、終了。正月は、翻訳作業と批評を進めたいのだが、どこまで、進むか。
先日、長谷川真理子著『科学の目 科学のこころ』をパラパラ見ていたら、「コンコルドの誤り」という考え方が目にとまった。あの航空機のコンコルドの開発から生まれた言葉らしい。商業的に採算が合わないとわかっていながら、英仏両政府は、それまでの投資を考えて、コンコルドの開発を中止できず、結局、開発しても、運行ができなくなったことから、それまでの投資額を考えると、途中で、判断を変えて、別の選択肢を取れなくなることを指すようだ。投資は、一つの比喩で、お金だけでなく、行動や精神的なエネルギーまでも指す。ある意味、人間的な現象だが、対象が戦争や大規模開発になると、問題は深刻だろう。
この話を読んだとき、まっさきに浮かんだのは、「八ッ場ダム問題」だった。コンコルドの開発は、英仏両政府が当事者で、損害を被るものがはっきりしているが、「八ッ場ダム問題」の場合は、地域住民の生活や感情が関わる。中止から一転して継続に決まったが、その判断基準をもっとオープンにして、広く議論の対象にすべきだったのではないだろうか。政治が主導すべきところと、広く議論すべきところの区分がいつもトンチンカンなのは、裏に利権が絡むからなのだろうか。そう思えて仕方がないのだが。
☆
La musique une illusion qui rachète toutes les autres.
(Si illusion était un vocable appelé à disparaître, je me demande ce que je deviendrais.) Cioran Aveux et Anathèmes p.80 Gallimard 1987
音楽は、あらゆる幻想の罪をつぐなう幻想である。
(幻想も、やがて消えてしまう言葉なのだとしたら、自分は、どうしたらいいのか、さっぱりわからない)
■今の世界、音楽がないとやってられないが、そして、Youtubeをはじめ、コンサートやウェブからのダウンロード、CDなど、音楽産業が隆盛なのは、たしかに、人間の何かの罪を償っているような気がする。「幻想の罪」は、イデオロギーと考えると、この断章は、意外に幅広い対象をカバーするのかもしれない。
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