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Cioranを読む(69)


■旧暦10月15日、木曜日、

(写真)無題

七人のシェイクスピア5』読了。面白かった。新教・旧教という新旧で、キリスト教を分けるのは、日本独自の分類らしい。プロテスタント、カトリックとしたところで、時間の単線的な流れは、やはり変わらず、新規に出てきた宗教の方が進んでおり、以前からの宗教を遅れた野蛮なものと見なす傾向は変わらない。そうした時間意識は、今でこそ、世界化しているが、もともと、特異なものだった。こうした近代の時間意識を踏まえると、技術革新を前提にした消費社会のありようが、奇妙にはしゃいでいて、奇妙に明るいのも、わかる気がする。いつでも、「明るい未来」が待っているというわけだが、3.11で神話は完全に崩れた。クリスマスケーキを家庭で話題にしたとき、放射能測定をしてくれるから安心などという現実は、4コマ漫画のギャグである。



Plus que tout me répugne le doute méthodique. Je veux bien douter mais à mes heures seulement. Cioran Aveux et Anathèmes p. 105 Gallimard 1987

方法的懐疑というやつが大嫌いだ。俺だって懐疑したいのはやまやまだが、閑なときだけにさせてもらいたい。

■一読笑った。もちろん、デカルト批判だが、パスカルに心酔するシオランらしい断章。こういうのを読むと、フランス語圏のエッセイストたちには、親近感を持つ。デカルトの方法的懐疑も、当時は、無神論の疑いをかけられ、命がけだったのだが、良かれ悪しかれ近代の思想的源泉である。そう言えば、別の本を読んでいて、デカルト(1596-1650)が、ガリレオ(1564‐1642)よりも、正しく「慣性の法則」を把握していたことを知って、ちょっとびっくりした。




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Cioranを読む(68)


■旧暦10月14日、水曜日、

(写真)無題

「ケツに硝子棒突っ込まれたときに、負けたんすよ、現実に」

先日、悪酔いして喧嘩したときに、相手の兄ちゃんが言った言葉。悪名高い拘置所の身体検査。いわゆる「肛門検査」である。コミック『塀の中』などに詳しい。権力は、いろいろな屈辱を与えて、人間の芯を折るまねをする。痴漢やエロ野郎に仕立て上げるのも常套手段だろう。男で、エロ系の嫌いな人は、あまりいないから、たいてい、引っかかってしまうのではなかろうか。「現実に負ける」これが「連中」の最大の狙いである。

製品の製造所固有番号がリスト化されつつある。ここから〉〉〉放射線量の検査の有無や製造場所を確認するのに便利。シリアルのオールブランは、ぼくの痔の救世主なので、こういうデータは助かる。



La vie et la mort ont aussi peu de contenu l'une que l'autre. Par malheur on le saint toujours trop trad, quand cela ne peut plut aider à vivre ni à mourir. Cioran Aveux et Anathèmes p. 91 Gallimard 1987

生と死、どっちにしても、たいした中身はない。不幸にも、人はいつも、それに気が付くのが遅すぎる。気づいたからといって、もう、生きるにも死ぬにも何の役にも立たないのである。

■真面目な人は、怒りだすかもしれない。やっきになって否定・反論しようとするかもしれない。だが、本当に、大した中身はないんじゃないか。そう考えると、途端に、身が軽くなる。大したものだとどこかで感じたのは、ある種の奢り、あるいは勘違いなんじゃないか。そんなふうにさえ思えてくる。身が軽くなって何をするか、しないのか。シオランは、書いた...。









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Cioranを読む(67)


■旧暦10月13日、火曜日、、立冬

(写真)良心の碑(同志社)か...

今日は、雑用に明け暮れた。掃除して、洗濯して、買物して、夕食を作ったら、夜になった。

ここ数日で、旨いと思ったもの。Market O のREAL BROWNIE、平飼い卵の新米かけご飯、「大地を守る会」の納豆、mielのココアドーナッツ。これは、大阪から来たチェーンらしい。しかし、閑だな、オレ...





J'aimerais tout oublier et me réveiller face â la lumière d'avant les instants. Cioran Aveux et Anathèmes p. 82 Gallimard 1987

何もかも忘れて、瞬間以前の光で目覚めたいものである。

■la lumière d'avant les instants(瞬間以前の光)というのがよくわからないけれど、惹かれた。










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Cioranを読む(66)


■旧暦10月12日、月曜日、、芭蕉忌

(写真)松戸アートラインプロジェクト2011より、青木麦生「松戸歌壇」

毎年初冬、市内数か所で、アート関連のプロジェクトがある。今年も、始まったが、上の写真は、市内を流れる坂川に短歌を沈めたもの。俳句や短歌は、句会も歌会も室内で行われ、吟行を別にすれば、たいてい、室内で作られるので、短詩形文学を戸外に引っ張り出すという発想に、とても惹かれた。1978年生まれだから、まだ、若い歌人だが、俳句や短歌も、オブジェになることを教えてくれている。非常に新鮮である。街や村にいろいろな俳句や短歌のオブジェが溢れたら、と想像すると、とても愉快だ。

FBの友だちが、アメリカのOccupy Wall Streetについて、面白い記事をアップしてくれたので、ここでも紹介したい。ここから>>> なかなか、日本にいると、運動の全体像が見えない。これを読むと、ただの格差反対運動ではないことがわかる。運動自体を創出しながら進んでいる感じだ。インターナショナル庶民談話会みたいな側面もあって、こうした流れが、加速・定着するといいと思う。脱原発運動とも、十分、連携が可能だと思える。生きることの根源と方法を問うているからだ。



Plus on a souffert, moin on revendique. Protester est signe qu'on n'a traversé aucun enfer. Cioran Aveux et Anathèmes p. 79 Gallimard 1987

辛い思いをすればするほど、権利要求をしなくなる。抗議するのは、どんな地獄も経験したことがない証拠である。

■学生の頃、兵庫県のバイトで世論調査のアンケートを取ったことがある。まだ、戦争経験者が健在で、地域で元気なお年寄りだった頃のことである。町内会長を務める明るい顔のその老人と、いろいろ、アンケートについて話した後で、自然に、戦争について、いろいろ、話を聞いた。内容は今ではすっかり忘れてしまったが、何か、そのときは、老人に話を聞いておかなければという衝動のようなものがあったように思う。老人の方でも、自分の戦争経験を若い人に伝えたいという意志が感じられた。ああ、いい話を聞いたなと思って、もう一軒の老人を訪ねた。こちらの老人は、昼間から、4畳半のアパートで布団をかぶって寝ており、枕元には一升瓶が転がっていた。住まいも暗く、どこか、人生を断念したようなところがあった。やはり、満州か、南方から帰国した元兵士だった。話の糸口もないまま、アンケート調査を終了し、よせばよかったのだが、戦争の話を持ちだしてしまった。その老人は、非常に不機嫌になり、身を固くして、貝のように、また布団を被ってしまった。その前の老人との落差が大きく、なんだか、むやみに腹が立ってきた。戦争経験は広く伝えるべきだなどと、教科書みたいなことを思っていたのである。それは、戦争の話を聞いてやるという、どこか、上目線の傲慢さがあった。老人を詰り、そのうち、喧嘩になってしまったのである。老人は、嘆いた。国のために、さんざん苦労して、今度は、若い人に非難されるのかと。老人は、泣いていた。

シオランの断章は、50になった今、痛いほどよくわかる。声なき声。言葉にならない言葉。悲鳴。そういったものが、歴史空間には、充満しているのだと。









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Cioranを読む(65)


■旧暦10月11日、日曜日、

(写真)無題

このところ、天気が悪いので、耳鳴りの持病が悪化して、仕事に集中できずに困ったものである。中旬にレクチャーの機会があるので、「原発」の問題を根源的に考えみようと、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインの考え方を検討している。物理学の時間と空間の概念は、近代のイデオロギーであり、その真理は、近代世界像を前提にした相対的なものというのが、大きな論点の一つだが、これには、二つの問題をクリアしないといけない。一つは、実験・観測・論証で、その知識が実証されている、ということ。二つは、その知識が、社会的に大規模に技術的に応用されていること。この二つが、物理学の真理性を保証している主なものだが、二つとも、その基盤は、考えられているほど確実ではない。



Ce n'est pas par le génie, c'est par la souffrance, par elle seul, qu'on cesse d'être une marionette. Cioran Aveux et Anathèmes p. 77 Gallimard 1987  

われわれが操り人形であることを止められるのは、天分によってではない。苦痛だ。苦痛だけがそれができる。    

■これは、イデオロギーの問題と関連させてみると、非常にリアリティーを持っている。操られていることに気がついても、それを止めるのは、いろいろな意味で、苦痛を伴う。操られる方が楽というのは、ある。それで、ここまで来た。3.11まで。イデオロギーの問題は、これまで、よく虚偽意識とされ、正しい認識に至れば、イデオロギーから自然に脱却できる。そう考えられてきたふしがある。「苦痛」という観点を入れると、なぜ、うすうす、嘘だと気づきながら、騙されてきたのか、よくわかる。日常からの目覚めには、苦痛を伴うのである。そういう痛みにもっとも敏感な詩人の一人が清水昶だった。


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Cioranを読む(64)


■旧暦10月9日、金曜日、

(写真)無題

昨日は、午後から吉祥寺の中清で「清水昶を偲ぶ会」。清水昶著『太宰治論』(思潮社)を拝借してくる。清水さんが、太宰をどう読んだのか、以前から気になっていたので、楽しみである。

清水哲男さんと少し話した。原発問題は、しばしば、現実的な枠組みを前提にした議論になりがちなので、ユートピアについて、少し、意見を聞いてみた。ユートピアがただの夢想ではなく、構想力を含んだ概念であることに同意しながら、今は、だれもユートピアの具体的な内容について語れなくなった、と話してくれた。確かに、ユートピアの内容を語ることは、ある種の危険を伴う。社会主義にしても、大東亜共栄圏にしても、ナチスにしても、ユートピアがディストピアに転化してきた。そういう歴史をみな知っているからだ。ぼくも、具体的な話は、難しいと思う。ただ、抽象的なレベルなら、まだ、語れるんじゃないだろうか。それは、関係性の問題である。人間と自然の関係、人間と人間の関係という点では、まだ、マルクスの『経哲草稿』にアクチュアリティーが、あるように思う。それは、支配や管理、搾取を含まない関係である。3.11以降、このことの重要性がいっそうはっきりしてきたように思う。問題は、こういう抽象的あるいは理論的な議論を具体的な政策枠組へどう媒介するかだろうが、そこが見えない。しかし、これはとても大事なことだと思う。



N'ayant jamais su ce que je porsuivais dans ce monde, j'attens toujours celui qui pourrait me dire ce qu'il y poursuit lui-même. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987  

俺は、この世でなにを求めてきたのか、見えたためしがない。だから、この世でこれを求めていると言える人間を、いつも俺は心待ちにしている。

■ある意味で、これは、永遠のモラトリアムだろう。何かを求める強い欲望は、社会から、真底、痛い見目に遭わないと、そして、それを経験化できないと、生まれてこないように思う。だから、仕事をして、家庭を作り、いわゆるモラトリアムから遠い生活をしているように見える人でも、シオランと同じことは起きると思う。求める心が強いければ、それだけ、煩悩も大きいのだろうが...。


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Cioranを読む(63)


■旧暦10月4日、日曜日、

(写真)同志社・クラーク館

今日は、朝から、特養へ、叔母の見舞。痴呆症というのも、いいところがあって、同じ話題も新鮮に受け止めてくれるので、話が楽であるw。夜、久しぶりに夕食を作る。

昨夜は、遅くまで、昶さんの特集をしている現代詩手帖11月号を読んだので眠い。親交のあった人が死ぬと、親が死ぬのとは違った意味で、死が親しくなってくる。いや、生々しくなると言った方がいいかもしれない。もう20年くらい前になるが、何が絶望の種かと昶さんに聞かれたことがある。そのとき、奇しくも「経済と倫理が両立しないこと」とぼくは答えたのだが、昶さんの答えは「死ぬこと」だった。物理の法則は、人間の発明体系の一つで、ある世界観を前提にした相対的な真理だとぼくは思っているが、「エネルギー保存の法則」は、昶さんにも作用したのか、聞いてみたい気がする。



『東国』という詩誌をご存じだろうか。この8月で142号を数える、文字どおり東国の群馬県東部(東毛地域と呼んでいる)から出されている。群馬は詩の国と呼ばれ、萩原朔太郎をはじめ、萩原恭次郎、大手拓次、高橋元吉、山村暮鳥、伊藤信吉など、錚々たる詩人を輩出している。実は、これらの詩人たちは、群馬県西部(西毛地域)の出身で、これまで、なかなか、東部の詩人たちの姿が見えなかった。『東国』は、その東部を代表する詩誌で、その動静を伝えてくれる。ぼく自身、東部の太田市の出身であるから、この雑誌のことは以前から知っていたが、なかなか、実物を手に取る機会がなかった。142号には、愛敬浩一さんの「東毛の詩人たち」という批評があり、さまざまな先人たちがいたことを教えられた。

その142号から江尻潔さんの詩。



とおのとよろぎ


あまたるひ
 ひなみ
  とよほみ
   いすけより

あまち
 かがめく
  とおの
   とよろぎ


意味は、わからないが、音楽に惹かれた。



Dérivatif à la désolation: fermer longtemps les yeux pour oublier la lumière et tout ce qu'elle dévoile. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987 

悲しみを紛らわせる方法。長いこと、眼をじっと閉じていること。光と光が暴きだす一切のものを忘れるために。

■東洋的なものを感じる。マリア像と百済観音像を比較して、前者があらゆるものを思い出させるのに対して、後者はあらゆるものを忘却させると、亀井勝一郎は印象的に語っている。シオランも、理性の解決する力よりも闇の忘却する力を、評価しているように思える。欧州の中の周辺。面白い人です。


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Cioranを読む(62)


■旧暦9月30日、水曜日、

(写真)無題

ある問題と格闘していて、まだ、出口が見えない。午後、少し昼寝。今日は好天だったので、洗濯物がよく乾いた。

北杜夫が亡くなった。なんだか、寂しいですね。中高生の頃、どくとるマンボウ・北杜夫、孤狸庵先生・遠藤周作、ショートショートの星新一の三人が好きで、よく読んだ。北杜夫からトーマス・マンを知り、遠藤周作からグレアム・グリーンを知った。星新一から、SFというジャンルがあることを知った。みな、有名になったが、軌道から外れた人生の味わいを知っていた。秋の最後の日溜りのような懐かしさ。



Excédé par tous. Mais j'aime rire. Et je ne peux pas rire seul. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987 

どいつもこいつも、うんざりだ。でも、わたしは笑うことが好きである。そう、一人では笑えない。

■好きだなあ! この断章。



Sound and Vision

今日も龍笛で。これは現代音楽に近い。ちょっと、凄いと思う。









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Cioranを読む(61)


■旧暦9月29日、火曜日、

(写真)江戸城址

twitterで話題になった吉本隆明の8月5日の日経記事を読んだ。

quote<原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です>unquote

ぼくが思ったのは、この人には、進歩史観があるということで、それは、吉本さんが、工学系の出身ということや戦後の生産力・技術力の増大と生活の豊かさの一致が実感としてある世代だからなのだろう。進歩史観を信じる気になれないのは、そこに流れる時間とそこに存在する空間が、近代のイデオロギーだからである。時間は均一の労働時間で満たされ、客体として疎外されている。空間は労働時間が凝縮した商品というありかたでしか出現していない。こうした点に科学技術による社会の進歩を信じる人々は、無自覚あるいは肯定的である。しかも、科学技術と政治支配との融合に寛容で、社会の問題は技術的に解決できると信じている。だから、原発問題を、「技術的な問題」に還元してしまい、問題の本質を根本的に考え直すことを退化と考える。原発を考えることは、利権構造や独占構造、安全性の向上といった問題を考えるだけではなく、現存の科学技術が本来的にもっている、人間と自然を、ものとして、操作・支配の対象にするという現存科学技術の本質を問い直すことでもあると思う。むしろ、それが今一番問題なんじゃないだろうか。

quote<労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大を追求せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。
 それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある>unquote

一方で、面白いのは、吉本さんが、とてもいいことも言っている点で、なるほど、そうだなと思わせる。しかし、吉本さんの語ることは、理念論で、理念としては、確かに、そのとおりなのだが、なぜ、その理念が実現しないのか、考えさせない。一言で言うと、社会理論が欠如している。科学技術による社会問題の解決可能性と生産力の増大が幸福につながるという信念、他方で、理念による社会の方向付け。この二つが同居している。

熱心な読者ではないにしても、それなりに、吉本さんを読んできたつもりだが、現状の批判よりも現状の追認が多い。それは、上記のような思想傾向があるからだと、今回の原発をめぐる意見を読んで、わかった気がする。ただ、このインタビューを読んで思うのは、現存の科学技術のあり方の批判は、自然と人間の操作・政治支配を持たない科学技術の構想を含まないと、批判だけで終わってしまう、ということで、この課題が、どれだけ、困難なのかは、だれが考えてもわかるだろう。マルクスの『経済学批判』や『経済学哲学草稿』をモデルにしたような、「存在論的な科学」。そんなことをふと思う...。



Un désastre trop récent a l'inconvénient de nous empêcher d'en discerner les bons côtés. Cioran Aveux et Anathèmes p. 72 Gallimard 1987

まだ生々しい災害には不都合な点がある。災害の善い面が見えなくなってしまうということだ。

■今度の大震災と原発事故を踏まえると、身にしみる断章。善い面とは何だろうか。社会構造の欺瞞性がいっそうはっきりしたということだろうか。ウェブ環境は、いまや、一つの希望なのだろう。世界の庶民がつながれるという意味では。



Sound and Vision














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Cioranを読む(60)


■旧暦9月25日、金曜日、、土用入り

(写真)京都・広隆寺

このところの気温のアップダウンで、風邪気味だったが、葛根湯を飲んで早く寝るようにしていたら、だいぶ回復してきた。朝晩はすっかり晩秋の気配で肌寒い日が続いている。

いつものことだが、レクチャーの原稿作成がだいぶ、難航している。ニュートリノが光速を超えた記事に興味を惹かれて、アインシュタインの相対性理論に関連した資料を検討している。期せずして、特殊相対論の有名な方程式E=mc²は原爆・原発の生みの親である。ぼくのような、物理オンチには、相対性理論を理解するのは大変なことだが、この理論をどう考えるかについては、大変興味を惹かれる。特殊相対論について言えば、主体と客体がペアになって、相互運動(弁証法)を繰り返して、己の時空間を変化させながら、最終的に、これ以上の速度はありえないという光速、すなわち、絶対精神に到達する理論機制は、ヘーゲルの『精神の現象学』とまったく同じだと思っている。これだけでは、なにもまだ言えていない。このことが現実にどういう対応を持つのか、また、何を意味するのか、まだ、これから検討が必要。



Toute forme de progrès est une perversion, dans le sens où l'être est une perversion du non-être. Cioran Aveux et Anathèmes p. 89 Gallimard 1987

進歩はどんな形式であれ、一つの倒錯である。そもそも、存在が非在の倒錯だという意味で。

■進歩史観がいかがわしいのは、そこに流れる時間の均質さと、そこに含まれる隠微な政治支配に鈍感なゆえである。進歩に対して、なんらかの屈折した思いを持っているかいないかは、人間を判断する時の重要なメルクマールになるとぼくは思っている。この意味で、シオランは、きわめてまともだと思う。



Sound and Vision

東日本大震災 福島第一原発元モニターからの証言

※東電が地域社会と作った社会関係の皮相性と欺瞞性。













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