verse, prose, and translation
Delfini Workshop
芭蕉の俳句(19)
2012-03-24 / 芭蕉

■旧暦3月3日、土曜日、


(写真)ジャクソン・ポロックのイースト・ハンプトンのアトリエの床(1950年くらい)
朝、新聞を読んで洗濯機を廻す。筋トレを再開する。現実が暗すぎて、もろもろ寂しい春である。鴉の声がやけに心に響く。
昨日、紀伊国屋書店で、Paul AusterのTRUE TALES OF AMERICAN LIFEを購う。これは邦訳も出ているが、全米から集まった4,000を超える実話を基に編集したもの。オースターの編集の特徴は、実話の区分に、よく出ているように思った。ANIMALS, OBJECTS, FAMILIES, SLAPSTICK(ドタバタ), STRANGERS, WAR, LOVE, DEATH, DREAMS, MEDITATION(瞑想)。短いものばかりなのも気に入った。このタイミングで、この本に出会ったのも、なにかの符号かもしれない。
☆
春雨や蓬をのばす草の道 元禄7年
■この句は、芥川龍之介が、絶賛していたので、記憶に残っている。「草の道」という措辞に惹かれた。
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芭蕉の俳句(18)
2012-03-20 / 芭蕉

■旧暦2月29日、火曜日、

(写真)河津桜
風邪で一日寝ていた。だいぶ、回復した。陽が落ちると急に寒くなった。ゴミを出した。俳句をいくつか作った。オクラ入り納豆を食べた。川端康成の『掌の小説』を少し読んだ。
☆
不性さやかき起されし春の雨 元禄4年
■よくわかる。「かき起されし」に注目すると、あまりにも、芭蕉が、よく寝ているので、周囲が、心配になったのではなかろうか。初案は「抱起さるゝ」。芭蕉は、自分のことを「不精」と言っているが、感受性の強い人間ほど、世界を深く受け止めるから、心身の疲労はそれだけ大きいのだと思う。
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芭蕉の俳句(17)
2012-03-12 / 芭蕉

■旧暦2月20日、月曜日、

(写真)無題
カムイ外伝も第三部に突入。一、二部よりも、深くて面白いと思う。底辺からの視点がたまらなくいい。
昨日は、3.11忌だったが、世界中で、反原発デモが盛り上がったようである。以下の写真は、スイスの友人が送ってくれたカード。ミューレベルク(ベルンの西方約20キロ、アーレ川沿いに立地)にある老朽原発の即時停止を求める運動のために、スイスのグリーンピースが作ったカードである。タイトルは「放射能立入禁止区域」となっている。首都ベルンが、原発事故でどうなるかを、画像で示している。福島の浪江町などの将来が重なる。

奥のエメラルドグリーンの建物が連邦議事堂。手前は連邦広場。ロックコンサートなど、さまざまなイベントや市場が立ち並ぶ。廃墟と化したbundesplatz。

トラムのベルン駅。だれもいない。蔦が生い茂っている。手前の防毒マスクが不気味。

右に見える波形の建物がパウル・クレーセンター。世界最大のパウル・クレー絵画の収集研究拠点。幹線道路は、完全にストップしている。

キャッチフレーズは「ミューレベルクを包囲しよう、今すぐ」グリーンピースなどの反原発運動は、連邦行政裁判所の稼働停止命令に結実したが、ベルン州電力は、連邦最高裁判所に上告する模様。記事は、ここから>>>
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春なれや名もなき山の薄霞 貞亨二年
■「春なれや」の上5は、現代では、こういう取合せは、しないだろう。「名もなき山」に惹かれた。
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芭蕉の俳句(16)
2012-03-09 / 芭蕉

■旧暦2月17日、金曜日、

(写真)無題
冷たい雨だった。深夜、風も出てきた。碧梧桐の俳句をF/bで読んでいるのだが、あまりいい句がない。どうしてなのだろう。鑑賞眼が悪いのか? 碧梧桐は、もともと、大したことないのか? それを確かめたい。
☆
八九間空で雨ふる柳哉 元禄7年(1694)
■この句は、どうしても眼が行く句。一間は1.82メートル。八九間は柳の占める空間だろう。そこだけ、雨がよく見えたのかもしれない。一見、当たり前のようだが、「空で雨ふる」の措辞はなかなか出てこないと思う。八九間で空間の広がりを言って初めて生きる措辞ではないだろうか。この年の11月、俳聖・芭蕉死去。剣聖・柳生厳包(連也斎、新陰流第五世)も、この年、死去している。
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芭蕉の俳句(15)
2012-03-07 / 芭蕉

■旧暦2月15日、水曜日、

(写真)人生
昨日、ジャクソン・ポロック展のテレビを観た。生誕100年ということらしいが、ポロックに惹かれるのは、意識と無意識のあわいで絵画制作をしている点なのだと、改めて思った。ポロックの方法は、詩の方法にも応用できると思う。それは、シュールレアリスムとは異なった形で、すでに、日本の宗教の歴史の中にあると感じている。ポロック。最後、愛人と飲んだくれてないで、奥さんとヨーロッパ行っとけばよかったのにな。これも運命か。44歳で交通事故死。
どうも、曇りの春は、寂しい気分に溢れている。石が寂しい、人が寂しい、川が寂しい、重機が寂しい、神が寂しい。その気分に拮抗でもするように、車谷長吉の徒然草論、『物狂ほしけれ』を読み返している。
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蒟蒻のさしみもすこし梅の花 元禄6年
■句全体の俳味に惹かれた。絶妙の取合せ! 追悼句らしいが、そうだとしたら、余計に、凄い。
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芭蕉の俳句(14)
2011-09-05 / 芭蕉

■旧暦8月8日、月曜日、

(写真)夏雲と秋雲
朝から、銀行など。午後は、特養入居に向けての健康診断。鎌ヶ谷まで。その後、9月下旬から入居予定の特養で仮契約。ユニット形式で、一部屋十畳の広さ。リビングルーム、最新のマンションみたいな食堂、カラオケ・映画鑑賞室、手芸やもろもろの作業ができる学習室、三階の大きな窓から見下ろす樹齢60年の枝垂れ桜。この特養は9月1日にオープンしたばかりなのである。いろいろ、見学していて、ぼくが入居したくなった。こういう経験は二回目w。
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ひや〱と壁をふまへて昼寝かな 笈日記(元禄七年)
■これは、底本によると、初秋の残暑の頃を詠んだものらしい。昼寝だから、夏と機械的に思っていたが、季語の使い方も、芭蕉は、囚われがない。この句は、子どもの頃の壁の触感を思い出させて惹かれる。
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芭蕉の俳句(13)
2011-08-30 / 芭蕉

■旧暦8月2日、火曜日、

(写真)夏の余韻
夏のすさまじきもの。中華料理店に入って、ビールを頼んだとき、出てきたのがスーパードライだったり、居酒屋で生を頼んだら、出てきたのがサントリーだったりする刹那。宅飲みでは、最近は、シルクヱビスかキリンのスタウトがいいように思う。
今年の夏期講習も面白かったが、再発見したものが二つある。一つは、「枕草子」。これ、意外と知らない段が多い。全部で300段以上あるのだ。「徒然草」の243段より多い。もう一つは、魯迅。この人を読むと、人間の勇気というものはどんなものなのか、しみじみわかる。たとえば、「些細な事件」(1920年)を読まれたい。
「枕草子」から、風の段(189)を紹介したい。
風は嵐。三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨のあし横さまに、さわがしう吹きたるに、夏とほしたる綿絹のかかりたるを生絹の單衣重ねて著たるもいとをかし。この生絹だにいと所せく、暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどに、かくなりぬるかと思ふもをかし。暁に格子、妻戸など押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、こそいみじくをかしけれ。
九月晦日、十月のころ、空うち曇りて風のいとさわがしく吹きて、黄なる葉ども、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。櫻の葉、椋の葉などこそ、いととくは落つれ。十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。
■九月は風の月というイメージができたのは、宮澤賢治あたりから、と思っていたが、すでに「枕草子」でそのイメージは決定されていた。注意深く読むと、「枕草子」は宮廷周辺の事柄だけでなく、庶民も登場する。風流の原型が、ここにはあるので、興味を持った。
※9月3日(土)になくそう原発9.3柏デモがある。13:30柏中央公民館、14:30デモ出発。
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塚も動け我泣声は秋の風 「おくの細道」(元禄二年)
■これは追悼句だが、その直情にいつもたじろぐ。芭蕉は、もともと、こういう激しい人だったのではないかと思う。芭蕉-一茶-放哉-山頭火という系譜が、蕪村-子規-虚子の系譜とは別に、現代にも流れ込んでいるように思う。芭蕉の直情は、次第に、間接的になっていき、その分、深みが増してくるように思える。
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芭蕉の俳句(12)
2011-08-29 / 芭蕉

■旧暦8月1日、月曜日、

(写真)北千住ルミネの「紅虎餃子房」の葱チャーハン、シンプルでかなり美味だった。しかし、肝心の餃子は62点くらい。
旧暦では、今日が8月1日になる。なるほど、8月になれば、ほんとうに、秋の気配は、自然にしてくる。新暦だと、季節の奥に耳目をこらさないといけないけれど。
家族が旅行に出たので、朝から、鉢の植物に水を遣る。朝顔を、今年から、プランターで、育てているのだが、一日、3回も水やりが必要なのには驚いた。あの紺は、蕪村が「朝顔や一輪深き淵の色」と詠んだみたいに、淵の色なのかもしれない。
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野ざらしを心に風のしむ身かな 「野ざらし紀行」(貞享元年)
■やはり、この句は、眼に留まる。「野ざらしを心に」という措辞は、よほどの覚悟がないと出てこない。文藝の原点のように思われて惹かれる。
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Sound and Vision
ドイツのTV局ZDF「フロンタール21」シリーズが 8/26 放送した番組『Die Folgen von Fukushima』(その後の福島)
日本語字幕付き。政府・官僚、東電、福島県知事、福島大学などが、完全に倫理崩壊しているのがよくわかる。
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芭蕉の俳句(11)
2011-08-23 / 芭蕉

■旧暦7月24日、火曜日、

(写真)無題
午後から、異常に蒸す。暑いので、深蒸茶を冷やして飲んでいるが、結構、いける。
「先生」と呼べる人たちが次々亡くなっていく。夏はどこか寂しい。20日の深夜に、翻訳家の山岡洋一先生が亡くなった。62歳だった。翻訳という荒海を渡るときの灯台のような人だった。まだ、これからと思っていたので、言葉がない。昨年の今頃に、お会いしたときには、お元気そうだったのだが...。主宰されていた「翻訳通信」を読み返してみたいと思う。謹んでご冥福をお祈りいたします。
☆
秋風や藪も畠も不破の関 野ざらし紀行(貞亨元年)
■秋の風も、芭蕉にかかると、いろいろな表情を見せる。廃墟に吹く風にふさわしいのは、「秋の風」だという季感。すんなり納得できる。野ざらし紀行は、「秋の風」を詠む句が多い。
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芭蕉の俳句(10)
2011-08-21 / 芭蕉

■旧暦7月22日、日曜日、

(写真)無題
今日は、ひたすら休む。運動を再開してよく眠れるようになったのが収穫の一つ。トレーナーによると、月に9回~12回、トレーニングした人が、筋力の向上という点では効果があったという。意外に、少ない感じがするが、こんなものなのかもしれない。
芭蕉の『野ざらし紀行』が読みたくなって、再読している。藤田省三が「野ざらし紀行覚書」(著作集5巻『精神史的考察』所収)という興味深いテキストを残しているので、併せて読んでみたいと思っている。
FBは面白いツールで、今日は、自分の書いたドイツ語の俳句に、ドイツの俳人たちがコメントしてくれたので、少し話す(と言っても、自分のドイツ語力では相当時間がかかる)。言語は社会的なものであるから、集団の中で、その言い回しがどう響くかが、俳句や詩を書く上で、重要な要素になると思う。しかし、そういう響きのニュアンスは、言語集団が異なると、なかなか、はっきりわからない。どうしても、いったん、日本語に直して考えたり、感じたりしているからだ。こういうズレに、自分はずっと興味を感じてきたが、FBではそれをじかに知ることができて、とても嬉しい。
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猿を聞く人捨子に秋の風いかに 「野ざらし紀行」
■この句は、芭蕉の発句の中でも、特異なものだと思う。それは、風雅の人を社会的現実で批判しているからだ。こういう批判的な句は、記憶では、ほかにはない(ただし、俳諧は未検討なので除く)。その意味で、いつも、この句は目に留まる。風雅の裏に、こうした現実があることを、忘れるなかれ、と言われている気がしてくるのである。
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