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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(2)


■旧暦閏3月20日、木曜日、

(写真)無題

今日は、いい天気で気持ちがいい。洗濯機を何度か廻す。これからの季節は早朝に起きると、気分良く一日が始められる。今日は、4時に起きてしまった。早すぎて、ブランフレーク、カステラ、珈琲一杯では腹が減る。

poetic collaborations "Fukushima"に新しい展開が! 福島に春が来た! ここから>>>

twitterのbotで、ベンヤミンがニーチェの永劫回帰の思想を評して、歴史的個別性の大量生産と言っている(「セントラルパーク」)のに、感心してしまった。ニーチェは、消費社会のイデオローグ的側面があるのかもしれない。だれも言っていないけれど。これは、個性や質の数量化(数学化)でもあろう。



一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉

股引の朝からぬるゝ川こえて   凡兆

■場所を川沿いと定めての第三の転。なるほどなあ。安東次男は、万葉集を踏まえて「股引の朝からぬゝる」に注目している。これが俳言になる理由を、万葉の歌に見ている。今では、忘れられているが、俳諧がもともと、和歌的な美意識や世界観を変革することをめざしていたことを、思い出させる。


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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(1)



■旧暦閏3月15日、土曜日、、風は強い。立夏、端午、子どもの日

(写真)夏めく夕空

フランス語が難航しているので、最初に、俳諧の検討から。romieと連詩を始めたので、その参考に俳諧や連詩の検討もぼちぼち行っていきたい。

10年以上着た夏用のシャツ類が痛んだので、ユニクロで何枚か新調した。10年もつような商品を作ってくれると、ブランドも重厚になるのだが。

今日は、部屋にある本を数冊発掘しないといけない。震災以来、どこかに紛れてしまった本が結構ある。

連詩は、手さぐりで進めているが、展開があったので、ご興味のある方は、ここから>>>。日本語訳もつけています。




鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
   去来

一ふき風の木の葉しづまる
  芭蕉

■こういう芭蕉の脇を読むと、あまりの見事さに息をのむ。この二句で、一つの世界が広がっている。論理的な展開ではなく、叙景的で時間的な展開なのだろう。俳諧の展開のポイントは、空間構造と時間的履歴(過去へも戻る)との相互対応なのかもしれない。



Sound and Vision

そう言えば、The Bandのドラマー、Levon Helmが先月19日に亡くなった。71歳。



ぼくは、キーボードのGarth Hudsonが好きだった。

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芭蕉の俳句(27)


■旧暦閏3月10日、月曜日、

(写真)花水木

今、そこここで花水木が満開である。いい季節になったが、どうも、気分は晴れない。「『パンセ』数学的思考」(吉永良正著、みすず書房)を読み始める。最初に、パンセから、たぶん、新たに訳出したと思われる断章が引用されていて、改めて、心を打たれた。

神を直感するのは心であって理性ではない。信仰とはそういうものだ。理性ではなく心に感じられる神。

こういう感覚は、汎神論的で、ものとひとの区分が、明確ではなく、連続的な風土にあると、よくわかる気がする。『カムイ外伝』第三部完結篇で、カムイが、仕官のため自分を殺しに来た浪人に最後に述べた言葉。「しょせん人は、多くの生命を糧にこの世に在る。おごるまいぞ...」こういう感覚と、どこかでつながっているような感じがする。

わたしは、人間を礼賛する側につく人たちも、人間を非難する側につく人たちも、気晴らしの側につく人たちも、みな等しく非難する。わたしが認めることができるのは、うめき、苦しみながら追い求める人たちだけだ。

こういう言葉は、現代医学の観点からは、全身に転移した末期がんだったと診断されているパスカルの実存が、普遍的な思想へと昇華されていくプロセスを見るようで感動する。

スイスの詩人、romie lieとのpoetic collaborationsが徐々に始動。今後、2週間に一度のペースで連詩を巻いて行くことになる。コメントもオープンにしているので、ご興味のある方はどうぞ。ここから>>>



行春を近江の人とおしみける   元禄3年

■この句が広がっていくのは、「行春」と「近江の人」という言葉の使い方なのだろう。「近江の人」が過去から現在へと続く人間と自然の相互行為の歴史を感じさせる。時間が琵琶湖全体に空間化されながら、春の最後の気配が、琵琶湖に立ちこめている。「けり」と切れずに「ける」と連体止めになっている句形も、芭蕉の息遣いを、今のわれわれに伝える効果があるのではないだろうか。




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芭蕉の俳句(26)



■旧暦閏3月4日、火曜日、

(写真)葉桜

早朝から作業開始。局面が変わったので、作業項目一覧を作成する。朝、30分、筋トレなどの運動。今日は、午後・夜に外で仕事。「へうげもの」Vol.14読了。面白かった。戦国時代は、今から見ると、異常な時代だ。暴力が日常的で、暴力をめぐる作法が、思想として確立している。そんな印象をコミックから受ける。民百姓の視点や俳諧連歌の視点があれば、もっといいと思う。



阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍   

■長崎出島のオランダ商館長の将軍謁見は、毎年春に行われたらしい。芭蕉の俳句に記録が残っていて面白い。

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芭蕉の俳句(25)


■旧暦閏3月2日、日曜日、

(写真)無題

このところ、毎日、30分は運動をしているので、寝つきが非常にいい。耳鳴りがひどくて睡眠薬を常用している身としては、結構な状況である。

土曜日は、哲学塾に参加。2007年から参加しているので、早いもので、今年で6年目になる。ずいぶん、いろいろ、眼が開かれたと思う。哲学は難しいものというイメージから、哲学は善く生きるために必要なもの、というふうに大きくイメージが変わった。ヘーゲル、マルクス、ルカーチ、マンハイムに再会したのも、ここだったし、シオランを知ったのも、ここだった。フランス語の勉強を始めようと思ったのも、ここでの経験が大きい。

スイスの友人、romie lieと、Fukushimaをテーマにウェブ上で連詩を巻く計画を練っている。資料を集めて、ルールなどを検討している。早ければ、連休明けぐらいから、月に一、二度くらいのペースで連詩を巻いてゆくことになると思う。言語は、英語、ドイツ語、フランス語、日本語の4カ国語になる。どういう展開になるのか、見当がつかないが、楽しみにしている。詳細は、ここで告知します。



年々や桜をこやす花のちり   元禄4年

■「年々や」という措辞に惹かれた。「桜をこやす花のちり」という認識が、めぐる時間の中に置かれ、単線的な歴史観とは少し趣を異にしている。時とともに、自然も社会も変化するが、変化しながらも、また、季節が、めぐって来るという感覚は、心に、不思議な安心感をもたらすのではないだろうか。



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芭蕉の俳句(24)


■旧暦3月24日、土曜日、

(写真)無題

櫻は、そろそろ散り始めた。花筏が、川に。その川で、鯉が群れて水しぶきをあげているのを見た。

このところ、田辺保さんの『パスカル伝』を読んでいるのだが、ずいぶん、教えられた。パスカルのイメージが変わって来た。17世紀フランスの体制側のイデオロギーは、ソルボンヌの神学部を拠点にしたジェジュイット(イエズス会)だった。パスカルは、新教に志向性が近いポール・ロワイヤルに所属して、反体制的な論争(プロヴァンシアル論争)に関与していく。住居を転々と変えて、体制側の眼を逃れながら、宗教書簡を執筆し刊行していく間のいきさつは、実にドラマティックで、映画のようだ。パスカルの人生は、数学的才能や、デカルトとの対決、計算機の発明、大掛かりな真空実験、「繊細な精神」を教えてくれた社交界でのメレとの出会い、フロンドの乱、決定的回心など、波乱に富んでおり、映画化にむいているような気がする。調べたのだが、今まで映画化された気配はない。不思議である。パスカルは、ジェジュイットの宗教的欺瞞を批判する方向へ進むが、キリスト教それ自体の問題性をえぐるところまではいかなかった。天才といえども、時代の制約からは、のがれがたいのだろう。ただ、パンセでは、無神論者を念頭に、キリスト教の弁証を企てるが、それを越えた射程を持ち得た。「繊細の精神」は、人間の相互関係にまつわる圏域で発生するものだからである。



子に飽くと申す人には花もなし 年次不明

■子どもを大事に思う心と風雅を愛する心は、通底するという芭蕉の考え方は人間的でいい。原発再稼働と原発輸出の推進団体のまとめ役をしている俳人もいるが、そういう人は、本質的なところで、風雅には縁のない人なんだろう。子どもたちを苦しめ、何万年にもわたって自然を破壊することに鈍感で、いい俳句が書けるはずがない。南京大虐殺に想像力が及ばず、祝賀の俳句をしれっと詠んだ虚子と同じ匂いがする。体制のチンドン屋の匂いが。














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芭蕉の俳句(23)


■旧暦3月19日、月曜日、

(写真)禅林寺の墓所に咲く老櫻

清水昶さんの墓参りに行ってきた。春の日が燦々と降り注ぐ、とても明るい墓所だった。生前好きだったワンカップを供えてくる。帰りに、禅林寺に寄って、太宰と鷗外の墓所にも詣でる。三鷹は、好きな文学者3人が眠る地になった。

このところ、F/bで虚子の句を読んでいる。虚子の句にある非情さはよく話題になるが、まとまって読んでみると、奇妙なほどの自己保身を句に感じる。他者への非情さと自己への保身。芭蕉や蕪村、一茶には感じない臭みである。虚子を嫌う人は、このあたりに反応するのかもしれない。



しばらくは花の上なる月夜かな 元禄4年

■月と花の競演がしばらく楽しめる。
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芭蕉の俳句(22)


■旧暦3月12日、月曜日、

(写真)子どもは馬鹿に出来ない

夜になって、奇妙に暖かい。明日は大荒れらしい。0時台に寝られると、脳が軽いw



四方より花吹入れてにほの波

■「にほの波」は琵琶湖の波のこと。元禄3年作。「にほの海」で通常は琵琶湖。こうせず、琵琶湖水面の動きを出しているところに惹かれた。実際、こういう場面、観てみたい。






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芭蕉の俳句(21)


■旧暦3月11日、日曜日、

(写真)無題

早朝から、起きてしまったので、早くも眠い昼である。Jaques AttaliのBlaise Pascal ou legénie frnançaisKarl Marx ou l'esprit du mondeが届いたので、ぼちぼち、別館の方で、読んでいこうと思っている。副題は、象徴的。パスカルの方は、「フランスの天才」。マルクスは、「世界の精神」である。二冊とも、シオランと同じように、邦訳がまだないので、自分なりの日本語版を作成しつつ検討する予定。

俳人の長谷川櫂先生のブログで、姜尚中(カン・サンジュン)の吉本隆明追悼文が紹介されていたので、読んでみた。大変共感できるものだった。現状の正当化しか行わなくなった思想は、消費される商品になるほかはない。



一里はみな花守の子孫かや   「猿蓑」元禄3年

■この楽しい想像に、いつも惹かれる。

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芭蕉の俳句(20)


■旧暦3月5日、月曜日、

(写真)河津桜

今日は、「屑」をいくつか、ご覧戴こうと思う。はじめに、これ>>>「東京電力は「深さ60センチの水で冷やされている」と説明しています」 これほど、馬鹿馬鹿しい日本語は聞いたことがない。燃料がメルトアウトして格納容器にとっくにないのだから、温度など意味はないだろう。チャイナシンドロームの現実化でしょうね。ほかのプラントも似たような状況ではないか。

こういう状況でも、原発の再稼働どころか、輸出の推進さえもくろむ団体がある。

首相に有識者ら原発維持を提言

産経新聞 3月16日(金)21時55分配信
 エネルギー政策に詳しい各界の有識者で作る「エネルギー・原子力政策懇談会」(会長・有馬朗人(あきと)元東大総長)の有志が16日、首相官邸を訪れ、中長期的なエネルギー政策についての提言書を野田佳彦首相に手渡した。提言では、原発の安全性向上を図ったうえで、引き続き重要な電源と位置付けることなどを求めた。

 提言書では「福島のような事故が再び起きないよう厳格な安全基準を構築すべきだ」と強調。原発を「準国産エネルギー」と位置付けたうえで、エネルギー安全保障の観点から原発維持を求めた。

 海外への原発輸出についても「日本の技術に対する期待に応えるのが国際的責務」として継続を求めた。

 原発が停止し続けた場合の電力需給の厳しさや、代替火力発電による発電コストの増加にも触れ、「官民が協力して早期に再稼働させるべき」とした。


「エネルギー・原子力政策懇談会」のメンバーをご覧戴きたい。ここから>>>

この爺さん連中の、所属団体をよくご覧いただきたい。誰の利害を代弁しているのか、一目瞭然である。どこに、今、構造的な「悪」が集約されているのかも、よく見えてくる。

だれも悪い人はいないなどと、物分かりのいいことは言ってはいけない。悪の構造のエージェントは、確実に存在するのである。怒りは反復・持続させなければならない。



雲雀より空にやすらふ峠哉   貞亨5年

■「空にやすらふ」に惹かれる。こんな措辞はなかなか出てこない。

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