いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

福島産科死亡事件の産科医を応援します

2007年02月19日 11時25分07秒 | 法と医療
Yosyan先生の企画をうっかり寝過ごしてしまいました。申し訳ございません。
2.18企画だったのに、一日遅れですが、賛同申し上げます。


新小児科医のつぶやき - 218

こうした活動に賛同することくらいしか、私には何もできませんが。


福島産科死亡事件の裁判・その2

これに論点は書いてございます。
裁判での無罪をご祈念申し上げます。



こんな所にも「教科書命」が…

2007年02月19日 09時58分28秒 | 俺のそれ
坂本多聞のソフトウェア業界インサイドアウト

教科書の教えは大事だ。それはそうだよ。一般的な説明としても、必要だ。だが、何が書いてあるか、その考える道筋はどいうなっているか、ということへの理解は、また別だ。私自身経済学素人に過ぎないが、この解説は見当ハズレであることは直ぐに判る。

たこ焼き屋さんを持ってきているのはいいが、全然違う話をしている。

『たこ焼き屋さんの6人目の従事者として時給119円を切る金額で働かないか?と言われてそれを受け入れるか?だ。
(中略)
街のたこ焼き屋さんで雇われるということだと多分これを飲む人はあまり居ないだろう。しかし学園祭の係りとかだったら報酬ゼロでもうけたりするので、やたら人が居るにぎやかな屋台とかができたりする。』

ハァ?(笑)

なんでたこ焼き屋で6人目を時給119円で雇う必要性があんの?坂本氏は脚光を浴びたいとか、アクセス稼ぎとか、何かそういう別な目的でもあるのでしょうか?ちょっとよく判りませんが、どうしてこのような喩えを持ち出すのでしょうか。理解不能です。一体全体何を批判したいのか判りません。

また例で考えてみましょう。
このたこ焼き屋さんでの売上数量は「需給で決まり」ます。従って、たこ焼き100個の需要があれば、その売上以上にはなりません。坂本氏の言ってるのは、新たに生まれる利益が増えつつも、段々と減っていくという話をしていますが、それは違います。一定期間での需給が均衡するという仮定に立てば、それ以上の需要は発生しないのですよ、経済学理論では(笑)。需要をとりあえず100個としましょうか。たこ焼き職人が、この期間に一人で100個焼いて売れるならそれ以上の人員を雇うことはありません。そんな必要性は存在しないからです。例えば、「たこ焼き職人」の基本性能として、期間当たり1人だと30個焼いて売ることができるとして、2人なら70個、3人なら100個、みたいなのが限界原理のお話だと思うのですが。

しかし、坂本氏が勘違いをしているのは、敢えて5人とか6人とかを雇い入れて、わざわざ分担しているのですよ(笑)。5人だと120個売上、6人だと150個とか、そういう想定をしているのだろうと思いますね。意図的に賃金を分割して減らしているのです。そんなたこ焼き屋の経営者はいませんって(笑)。

たこ焼きの価格が1個50円として、この中にはコストの全てと利益が乗っています。需給で必要な量が決まるのですから、100個の需要であるなら5000円の売上ということになります(利益がないとか赤字なら撤退する)。この時の賃金は5000円という売上からほぼ必然的に決まってくる、ということなんですよ。3人分で3000円ならば一人当たり1000円、ということです。しかし、ここで問題となるのは、日本のたこ焼き職人ではなくて、賃金が100円でもできるという国もあります、ということであるなら、「競争が不十分で不当に賃金が高いのではないか」、すなわちたこ焼きの価格も高すぎるのではないか、ということなんですよ。経済学理論のように、時間も空間も関係なく移動できる世界みたいなのだと、日本にいながらにして外国の貧乏な農村地帯にあるたこ焼き屋台からたこ焼きが即買えるし、買ったたこ焼きは瞬間移動してきて購入者の口にすぐに飛び込んでくるのです。これは仮想の理論世界であるから可能なだけで、現実にはこんなことは起こらないのです。競争が不十分というのは、こういう異次元空間みたいなところから飛んでくるたこ焼きと競合しなさい、ということなんですよ。これが可能であるならば、最もコストのかからない地点で焼いたたこ焼きを誰でも常時買うことができるので、それ以外の業者は全て淘汰されるでしょう、と言う話です。「1個5円で売ってる国もあるぞ」、だから日本のたこ焼きは高すぎる=賃金が高すぎるからだ、という話なんですよ(池田氏の批判は概ねそういうことです)。何で賃金が高いのか、と言えば、日本の他の業種(製造業みたいな)で賃金が高いからだろう、ということを山形氏らは言ってるんですよ。


坂本氏の理論の適用方法は、間違っていると思う。理論の字面のみを、取り出してくるからだろうと思う。

これぞまさしく、「エネルギー保存の法則は成り立つ。位置エネルギーは運動エネルギーに変換される。故に高高度から落下してくる雨滴に頭をぶち抜かれる」の典型みたいなものか?



賃金に関する議論~補足編

2007年02月18日 21時23分09秒 | 経済関連
今回の議論は興味深いものだった。「そうだったのかー!」と思えた部分もあった。現実世界を見るときには、自分なりの何かのイメージがあって、理論とどの程度近いのか・間違えて認識しているのか、ということが出てくるように思う。言えることは、「人間というのは複雑なものだ」ということと、ケインズの偉大さ―すなわち経済活動の根本部分を支える人間の欲望・期待といった心の部分に思い至ったこと―を改めて確認できた、ということかな(参考記事)。これを精緻に理論化することは、現状では大変難しいのだと思う。



いくつかの論点について、簡単に触れておきたい。


①「非効率業種はイラネ」?

限界原理に近い効率性の高い業種が経済理論では「正しく」、例えば喫茶店のような生産性の低い非効率業種が淘汰されない(或いは賃金が不当に高い)のは「間違ってる」、みたいな意見も見られたが、どうなんだろうか。

まず、現在「生き延びている」業種というのは、おおよそ経済学でいうところの合理的な結果である。不採算な企業は多くの場合淘汰されるからである。更に、生産性の高い業種から低い業種への賃金移転なんか不要であり、低い業種は残れない、というのも、そうとは言い切れない部分があるだろう。一つには代替可能かどうか、ということがある。何度も取り上げた炭鉱は、淘汰された業種である。「コモディティー化」から逃れられない業種(参考記事)は、淘汰される可能性は高くなるだろう。日本国内の労働者じゃなく、もっと低賃金でできる海外の労働者に置き換わる。プログラマとはそういう業種だろう。

「日本で石炭を掘って調達」するよりも、「もっと安い海外の石炭を調達」する方が得であれば、それに置き換わるというのが経済学的な理屈である。これは石油を掘る仕事の効率と似ている。石油を利用する為に掘るのであるが、石油の1cal の熱エネルギーを調達する為に、1cal 以上のエネルギーを使用しなければ調達できない場合であれば、「掘らない方がマシ」ということになる。掘る為に失われるエネルギーの方が多いからである。そういう”考え方”を教えてくれるのが経済学のモデルである。

だが、代替されにくい業種も有り得る。それが生産性の高くない非効率な業種であるとしても、淘汰されない。例えば、ゴミの回収・収集業務があるとする。この仕事の内容自体はもっと低賃金の労働者でも可能であるが、海外でその仕事を行うといった形をとることができない。数百年前からあったであろう仕事ではあるが、基本的な仕組みは似たようなものである。もしもこの仕事が淘汰されると、ゴミが膨大に溜まった状態で過さねばならない。個人が個々にどうにか処理せねばならない。でも、生産性の高い人々がその作業に手を煩わされると本業に影響し、本業の生産性は低下することになる。ゴミ処理が悪ければ社会全体の感染症の確率が上昇し、不健康という被害によって経済学的損失は増大するだろう。なので、淘汰できないのである。こういう淘汰しにくいサービスというのは、概ね必要なのだが代替性があまりなく、「時間的」「空間的」な物理的障壁が存在するものであると思う。海外の低賃金労働者たちが参入したくても、「今」「ここにある」ゴミを回収してもらわねばならない、という条件を満たせないからである。コールセンター、プログラムを書く、パソコン組立、Tシャツ製造、こういった仕事は「今」じゃなくてもいいか、「ここに」なくても可能な仕事だからである。だが将来は「完全自動ゴミ処理器」みたいなの(映画『Back to the future』に出てきた未来型デロリアンのエンジンみたいなものか?)ができてしまえば、ゴミ回収の仕事は淘汰される。これが技術水準向上ということであり、ゴミ処理に関わる仕事は「完全自動ゴミ処理器」の製造・販売に関わる部分だけになり、そうなれば労働力(雇用者数)を大幅に縮小できるだろう。

◎低生産性業種であっても代替性に乏しければ淘汰されない=これには経済学的合理性がある


②娼婦の稼ぎは絶対評価可能なのか?

このシリーズの前の記事で書いたが、娼婦の提供サービスというものについて、経済学モデルの中で「絶対価格」を決めることが可能なのだろうか?労働というものについての「絶対価格」というのは存在しないのではないだろうか、というのが私の印象である。ある人間がいて、「イノシシを狩る」のがいいか、「木の実をひたすら集める」のがいいか、「矢じりを生産する」のがいいか、これを決めるのは経済学で言う「価格」(=賃金)ではない。単純に「人間の感じ方」次第である。その感じ方というのは、一定の合理性があって、「危険」とか「効率が悪い」とか、そういうのはある程度判断されているのだと思う。貨幣のない時代に、娼婦が「小麦1袋」で取引に応じるか、「肉一切れ」で応じるかは、計算できない。その社会での生活によるだろう。元を辿れば、「参照情報」によって判断が左右されるのだろうと思う。参照情報というのは、自分の周りの人間の行動や考え方とか、何かの取引があればその取引結果も当然含まれるだろう。その積み重ねが今の経済活動の根本部分だろうと思う。それが全くなければ、価値の判断ができない。或いは、欲望の強さによって、時には判断が狂うだろう。従って、貨幣は参照情報の積み重ねがなければ存在意味はないだろう。

なので、「その社会での生活、生き方」というものから「参照情報」が成り立っているので、相対的な価値判断は可能だが、絶対的な価値尺度というものはきっと「判らない」(測れない)だろうと思う。労働というのは、そういうものである、と。その労働に支えられている「サービス」の価格というのは、やっぱり「相対的な価値」ということでしかなく、その価値を決めるのは「その社会での生活、生き方」であると思う。もしも「娼婦の相場は10ドル」というものしか知らない娼婦ばかりの、とある国があるとする。そこに外国人旅行客が訪れて価格交渉をする場合、価格は10ドル近辺に落ち着いてしまうであろう。他の参照情報、例えば日本人ビジネスマンは「少なくとも100ドルは払えるお金持ち」ということがあれば、値上がりするであろう。サービスというのはそういうものだろう、ということだ。

◎労働の絶対価値は計測できないだろう=サービスの絶対価格も正確には判らない


③サービスの相対的価値を左右するもの

「ある社会での生活、生き方」で相対的な価値に最も影響するのは、「生存するための労力(価格)」の大きさではないかと思う。生存の為に最低限必要な価値を上回る「稼ぎ」がないと、生きていけないからである。未開地域で、誰の土地でもなく、自由気ままに収穫物を得て生きていければ、お金そのものの必要性もあまりないかもしれない。だが、日本みたいな環境であれば、土地の上にいるだけで固定資産税を払え、とか言われる(笑)。「かぼちゃで収めてもいいですか?」とはなりにくいのである。何でもお金で払わねばならないので(税金の中には物納制度はあるけれど)、生存を確保するためにお金が必要なのである。水道や水洗トイレなんかをタダでは利用できない。食糧も勝手には調達できない。もしも「オマエらは外国だと月に200ドルしか稼げない労働者でもやってる生産性の低い仕事だから、低賃金にしろ」ということで、月に25000円程度しか賃金をもらえないとすれば、日本では生存可能性が脅かされる。ケインズの消費関数の中で出てくる「基礎消費」みたいなものだろう。この額を越える賃金が確保されなければ、労働者は「死ぬ」か「日本以外のどこか」に行く必要がある。限界原理では、こうした労働者の存在を想定していないであろう。なぜなら労働力は一様であるし、どこにでも移動可能であろうし、数が余るという考え方は含まれていないからだろう。「労働者の生活」という部分は全く考慮されない「モデル」なのである。

労働者の差ということも無視されているだろう。それは「未開地域の労働者」であろうと、「日本の大学院卒の労働者」であろうと、基本的な扱いは同じなのだろうと思う。労働力の「一部分」ということでしかない。しかし、現実は違う(笑)。

日本の企業は労働者を雇用するが、「日本語が読めて、話せる」労働者には「コストがかかっている」のである。未開地域の労働者を使いたければそうすればいいのだが、日本語を教育したり文字を読めるようにしてやらないと現実の労働力にはならないのである。その為のコストを負担しないとなれば、学校教育システムを「タダで利用」しているということである。これと似ているのは、企業活動を行う時に利用する上下水道であったり電気設備であったり電話線であったり、そういうインフラの利用は当然のように考えるだろうが、それとてタダで利用なんかできないのである。日本で企業活動を行うのに賃金が高すぎるのであれば、どこか「タダ当然」で土地を使えるとか、辺鄙な場所に行けば済むのである(笑)。

だが、そういう場所であればインフラを利用するのに多額の投資が必要であろう。自家発電設備を作る必要があるし、水の濾過装置もいる。水源から水を引いてくるか、汲み上げポンプなんかが必要かもしれない。電話回線を用いるのには、何百キロも離れたケーブルに接続するか、衛星回線を使う為に自前で衛星を打ち上げねばならないかもしれない。それに労働者を集めておくことができない。他に何の設備も金を使える場所もなければ、工場だけあってもしょうがないのである。「労働力」は死んでいることはできない。常に「生きて生活できる環境」じゃなけりゃ、働くこと自体できないのである。限界原理では、そうした労働者の生活までは想定されていないだろう。

いずれにしても、企業が効率的に経済活動を行う上で必要なことは、「社会システム」というインフラを利用させて貰える、ということが大前提なのである。何かを移動したりするにも、便利な物流システムが整っている所じゃなけりゃダメなのである。それには道路も運送システムも必要だ。Fedexといえども、住所も定かでない道路の通じてないようなド田舎には配達できないだろう(笑)。住所を規定して地図表記が可能、ということだけでもかなりのコストがかかってきたのである。日本語のできる労働者を集めてくるのもそうなのである。企業が何でも無償で利用できると考えているのは誤りであろう。そうした「社会システム」というインフラ構築までには、「多大な先行投資」がなされた結果なのであり、その利用料を払うのは当然なのである。

電気料金とか水道料金という形でコストを負担している、という見方もできなくはないが、「社会システム」全体に対するコスト負担は経済学のモデルの中ではあまり考慮されていない、と思われる。もしも「社会システム」というインフラの利用が関係ないのであれば、先進国からは多くの企業が撤退するだろう。日本みたいな「賃金の高い国」でわざわざ薄型テレビを作ったりせずに、どこか辺鄙な国で作った方がはるかに賃金は安いだろう。工場建設の前に、まず莫大な投資が必要になってしまうのかもしれないが(笑)。

こうしてみると、「基礎消費」に該当する部分、つまり生存可能な水準が賃金のベースラインに来るであろう。国によるその水準の違いは、「社会システム」というインフラの違いによるだろう。貧しい国では「社会システム」が未整備であり、車が通れないとか、電気が通っていないとか、学校教育が不十分で文盲率が高いとか、医療が受けられないとか、誰の土地なのかハッキリしないとか、そういう場所であれば、「生存可能な賃金」というのが低いと思うからだ。しかし、多くの先進国みたいになってくると、その場所で生きていくのには「お金」が常に必要になる。社会が便利である代わりに、「社会システム」維持にはお金がかかるのである。なので生存可能な賃金水準は、経済の発展していない国よりも高くなるだろう。市場賃金の基本は、こうした「社会システム」構築にかかったコストや維持コストの大きさによるだろうと思う。その社会の歴史、積み重ねということが、賃金水準(その社会での”相場”ってヤツだ)を左右する、ということだ。

◎生存可能な水準以下の市場賃金は成立しない
◎「社会システム」の構築・維持コストの大きさで賃金水準が変わるだろう


ついでに、これに関して書いておく。
生存可能な賃金は、豊かになればなるほど「収入に占める割合」は低下するだろうと思う。貧乏であればあるほど、占める割合は高くなっていくだろう。

極端な例を想像してみよう。大昔の人間のように、「生きていくためだけ」に毎日活動していれば、その賃金は「いくらなのか」不明ではあるけれども、全部の収入にほぼ等しいだろう。つまり、狩猟生活だけやっていれば、その行動が「労働」であり、その対価=「獲物」ということで、それ以外に消費可能な余剰分は殆どない。稀には獲物を分けてやると石の武器なんかと交換できるかもしれないが、生きていくのに精一杯であれば、ほぼ全部の収入が生活の為だけに消費されるだろう。現在の貧しい国における貧乏生活をしている人たちにも、こうした傾向は当てはまるであろうと思う。得られる収入の殆どを、生きる為だけ(殆どが食べる為だけ、というのが正しいのかもしれない…)に消費するだろう。

しかし、リッチな国になると、食べる為の消費割合が減少する。最低限生きていく為の費用は、もっと貧しい国からみれば高いことは高いのだが、割合としてはかなり減るだろう。仮に平均年収20000ドルの国があるとして、生きていく為だけに必要な収入は5000ドルもあれば可能、というようなことだ。この場合の割合は25%であり、残りは別な消費に回すことができるのである。別な貧しい国では平均年収が1000ドルで、年間500ドルあれば生きていける(全ての利用料が安いはずであろうから)ならば、生存可能な水準はリッチな国の10分の1でしかないが、収入に占める割合は倍の50%である。そういうことが多いのではないだろうか、と。要するにエンゲル係数が下がるのとほぼ同じ意味合いである。

よって、経済発展の進んだ裕福な国では、生存可能な水準が上昇するけれども、収入に占める割合が低下することで、他の消費が多くなっていく。当然平均的サービス価格は貧しい国に比べて上昇する。基本的な部分では効率性が高いだろう。例えば、電力供給とか上下水道とか、そういうものは貧しい国に比べて効率的に供給されているだろう。技術進歩が大きいからである。水を汲む場合に、貧乏な国だと全部人力でやらねばならないが、リッチな国でははるかに効率的に大量の水を使うことが可能なのである。その為の労働力も極めて少なくて済むのである。

近年の日本では、この生存可能な最低水準というのが、以前に比べれば「下がった」という可能性は有り得ると思う。それは格安輸入品が多くなったし、食品も輸入品との競合などで下がってきた部分は多いように思う。ワーキング・プアとは、基礎消費に相当する部分の最低水準に到達しない賃金しか得られない労働者のことであろう(定義ができない、云々という内閣府はちょっとオカシイのではないか?例えば、単純に「一定水準以下の世帯収入しか得られない労働者世帯―但し、「一定水準以下の世帯収入」とは生活保護対象となる世帯の給付額に達しない収入をいう」とか何とか、定義可能なのではないかと思えるが)。


色々と言いたい部分はあったのだが、長くなってきたのと、疲れたので、とりあえず。



続々・賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?

2007年02月16日 21時08分41秒 | 経済関連
以前に触れたが(参考記事、経済学の理論は世の中のことを何でも正確に説明できるわけではない。置かれている仮定、前提みたいなものが必要なのであり、実際の現象というのは理屈通りではない部分もある。そういうことを念頭に話を進めるのが普通だと思う。言うなれば、「エネルギー保存の法則が成り立つのだから、雨滴に頭をブチ抜かれる」みたいな話を信じてるのでしょうか?(笑)


また、ある例を考えてみましょう。
世の中にある金属を採掘する仕事しかないとします。で、「監獄島」というところでは全て人力で掘っているとしましょう。労働者たちが頑張ってもあまり大量に生産できないので、賃金は一人当たり100ギルだとしましょう。この島では労働者たちが生存する為に、必ず80ギルの「生存キット」を購入しなければならないものとしましょう。「生存キット」というのは食糧等の最低限生き延びる為に必要なものです。全員が買うとしますか。すると、賃金は100ギルですが、生存キット購入に80ギル使ってしまうので、残りの使えるお金は20ギルしかありません。

この監獄島に突然売春婦が降って湧いたとしましょう。彼女達は労働者たちの相手をして稼ぐことにしました。彼女たちの価格は、1~20ギルの範囲に収まるでしょう。労働者1人が使えるお金は20ギルが最大だからです。なおかつ彼女たちが生き延びる為には最低限「生存キット」と同額以上を稼がねば死んでしまいます。80ギル以上の売上が必要です。売春婦の価格が需給で決まるでしょうが、この時の価格交渉はどうなるでしょうか?少なくとも、次のルールを知っている、ということになるんじゃないでしょうか。

①労働者1人当たりの賃金
②生存キットの値段
③他の売春婦たちの価格

中には飛びっきりの上玉で、20ギル払ってもいい、という労働者たちが続出するような人もいるかもしれませんし、ブス過ぎて「ブス専」みたいなマニア系以外からは全然稼げない人がいるかもしれません(笑)。それは正確には判りませんが、もしも全員同一条件であればみんなある「価格」に落ち着くことになるでしょう。そして彼女たちの稼ぎは、80ギル以上の大体決まった水準になるでしょう。ここにとんでもなく高い、高級コールガールみたいなのが現れても、商売にはなりません。「最低1000ギル払え」とか言われても、誰も払うことができないからです。こういう売春婦は「撤退」となりますね(笑)。


同じく金属を採掘する別な島があるとします。「ピッチブラック島」とでも名付けますか。この島では強力な「採掘マシーン」があるので、先の監獄島みたいな生産力ではなく、もっと稼げるとします。で、この島ではマシーンのオペレータだけが必要で、監獄島よりも少ない人数で済むはずですね。まあ、数はどうでもよいが、彼らには1人当たり1万ギルの賃金(監獄島の100倍だ!)を払っているものとします。もしもこの島に売春婦が降ってきたらどうなるでしょうか?売春婦たちが知っているのは、「ピッチブラック島」での①~③であるとします。生存キットの値段が同じ80ギルであれば、オペレータたちは9920ギルを自由に使うことができるので、売春婦の価格はそれなりに高くなってしまうかもしれません。

監獄島とピッチブラック島での売春婦の価格差というのは、何故生じてしまうのでしょうか。サービス内容(笑)が同じで、両方の島で売春婦には全く違いがないとしても、恐らくピッチブラック島での価格の方が高くなってしまうでしょう。それは、賃金水準の違いによると思います。結果的に、ピッチブラック島での売春婦の方が生産性は高いということになるでしょう。売春婦が島外からどちらかに自由に行けるという時、予め両方の島の条件①~③を知っていれば大半がピッチブラック島に行くでしょう。その方が多分稼げるからです。供給がかなり過剰になっても、監獄島に行くよりはマシと思うからですね。競争力のない「ブス」は監獄島に行って独占的に稼ごうとしたりするかもしれませんが(笑)。ピッチブラック島では、監獄島では営業不可能であった、1000ギルの「高級コールガール」も登場可能でしょう、きっと。売春婦に固有の生産性というのは、果たしてあるのでしょうか?売春婦の「絶対価格」なんて存在しないのではないかと思えます。

この2つの島での売春婦たちの数とかは無視していますが、現実の社会では人間がいきなり降ってきたり、仕事にあぶれたからといって無収入でも構わない、ということにはなりません。限界原理というのは、失業して無収入になってしまった労働者とかが「生き延びる」ということを想定していないのではないでしょうか。現実の社会というのは、労働供給が過剰になったからといって、その労働者たちを「消し去る」わけにはいきません。生存の為のコストは必ず誰かが負担しなければならないのです。賃金ゼロの労働者は「消えてなくなったりはしない」のです。2つの島の売春婦のように、「別々な労働市場」に分断されている場合も多いと思います。島を移動できなければ、監獄島の売春婦とピッチブラック島の売春婦が寸分違わず同じであるとしても、「別々な価格」ということになり、稼ぎの格差を生じるでしょう。それが現実の社会なのです。国際競争も生産性も無関係に、売春婦の稼ぎは違ったものとなるはずです。新幹線で車内販売されてる缶ビールがバカ高く、量販店では安いのと違いなどないでしょう。現実世界では、マーケットは分断されていたりするし、同一の競争市場なんかではないことは多々あるのです。


補足として、次の資料を挙げておきます。

産業構造変化とその見方

(以下に一部引用)

経済全体の労働生産性は、各産業の労働者構成比と労働生産性という2 つのベクトルで示すことができる。これを簡単な式で示すと、1 国内における全産業の付加価値総計、労働者総計をそれぞれY、L とし、各産業の付加価値、労働者をそれぞれ Yi、Liとすると、全産業の労働生産性は次のように表される。

全産業の労働生産性Y/L=∑(Li/L)・(Yi/Li) ……(1)

一般に、産業間には生産要素の資本集約度や技術特性などに起因する生産性格差が存在する。したがって(1)式は、労働者による産業間シフトが経済全体の生産性の決定に重要な意味合いを持つことを示している。

この「経済成長と産業構造変化」の関係を部門間労働移動の観点から説明するモデルとして、Lewis[1954]、Fei and Ranis[1964]らによる「二重経済モデル」がある。このモデルは過剰労働力を抱える「伝統部門(主に農業)」と、利潤最大化原理に従う「近代部門(主に工業)」という 2 部門(二重経済)から構成され、低生産性の伝統部門から高生産性の近代部門への労働力シフトにより経済全体の(労働)生産性が上昇することを極めて説得的に描写している。このモデルにはいくつかの特徴があり、そのひとつが伝統部門における「過剰労働力(Surplus labor)」の存在である。ここで過剰労働力とは限界生産性が実質賃金を下回る水準にある労働力を指す。この存在により、伝統部門では限界価値生産性が最低生存水準を下回り、通常の経済主体のように限界価値生産性と等しいところで賃金を決定することができない。

そのため、伝統部門では「コミュニティーの原理」により平均生産性に等しい賃金を設定し、近代部門ではそれに若干の上乗せした賃金で伝統部門から労働力を無制限に引き抜くことができる。さらに近代部門では、低賃金コストのために大量の利潤を創出することができ、その利潤を資本投下することにより大量の雇用吸収が可能になる。このとき伝統部門では過剰労働力が減少するため(平均生産性に等しい)賃金が上昇し、それに伴って(伝統部門賃金に若干上乗せした)近代部門の賃金も上昇する。このような労働需給の変動の結果、この経済の主要産業が伝統部門から近代部門にシフトし、それに伴い持続的な経済成長を実現する、というのがこのモデルのストーリーである。



このモデルでの説明で、池田氏の述べていた意見は否定的であろうな、と思います。



追加ですけれども、また池田氏はTBを削除したようだ。この記事の何がマズイのだろうか。批判だから?(笑)

「絶対に許せない」というタイプが私の記事なんだろうか?
非礼は詫びるけれども、実際のところ「どうなのか」ということを真剣に考えたり、探求したりできないということを残念に思う。どうしてそれほど現実の経済や現象について考えてみることを拒否するのか、過去の研究成果なんかを否定するのか、私には理解できない。違うならば違うという意見を出せば済むことなのに。


こうして書いた記事も、ある種の自己満足でしかないのだね。ふと考えると、そうなんだな、と思った。他の経済学とか研究していたり、詳しい人々というのは、どう考えているのか知りたいところだ。



テンプレのこととか

2007年02月15日 21時50分16秒 | 経済関連
池田氏のブログを拝読しに逝ってきました。

すると、どうでしょう!

池田先生、大変光栄に存じます。
なにもテンプレまで、同じのにして頂かなくても……笑
偶然か。
(欧米か!じゃなくて)


池田先生の仰りたいことを、感じられないではありません。ただ、過去のこと(色々なバトル?とか、論争?とか)は判りかねますが、もう少し冷静に「学術的な視点」というところから示して頂いた方が宜しいのでは、と思います。これまでには、良い記事も多くありましたし。先生の芸風ということで、どうしても「剛球」を投げ込みたい、ということならそれも仕方が無いことなのかもしれませんが(笑)。「オマエら、アフォ’だろ’」みたいに(そこまでは書いてないかもしれませんが、心情として伝わってきます)、「タダの素人衆に罵声を浴びせる学者の図」というのも、かなりゲンナリするのですよね。学者が一般人よりも正しく考えられ、専門知識が多いのは、あまりに当然過ぎるので。


今後も普通の人たちの勉強になるような、有意義な記事を書いて頂けるよう、ご期待申し上げます。


続・賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?

2007年02月14日 22時26分49秒 | 経済関連
前の続きですが、字数がオーバーしたので分けました。

池田氏は記事の本文を書き換えたな。
こうだ。
『残念でした。価格は、どんな教科書にも書いてあるように、需要と供給で決まるのだ。その需要を決める要因の一つが所得だが、所得水準が上がれば価格が自動的に上がるメカニズムがあるわけではない(PCのように競争的な製品の価格は所得と無関係に下がり続けている)。ましてウェイトレスの所得と「平均生産性」には、何の関係もない。製造業の生産性が上がっても、たとえばジャズ喫茶の限界生産性が下がれば、そのウェイトレスの時給は下がるのである。』

アレ?『あるわけないだろ』は何処に行ったんでしょう?(笑)
初めにに引用した『残念でした』以下の部分を比較して読んでみて下さい。

『残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。価格は需要と供給で決まるのであって、その需要を決める要因の一つに所得はあるが、所得が上がれば価格が上がるといった1対1の因果関係があるわけではない。まして彼が引き合いに出していたウェイトレスの時給が、経済全体の「平均生産性」で決まるなどというメカニズムがあるはずがない。』

新たにジャズ喫茶まで登場させたようですが、まあ、これはいい。大した問題じゃない。けど、池田氏は有名なブロガーらしいのだが、全然当てにはならんな。
自分の主張に信念があるのであれば、変える必要性なんかないはずだ。正しい、と確信していたのであれば、それを貫けばいいのではないか?何故今更になって変えるのだろうか?他のαブロガーを批判していた割には、変ですね。素人相手だからか?(笑)


価格は需要と供給で決まる、それはそうだ。だが、全部が真実じゃない。現実には需要側も供給側も財やサービスも「移動制限」がある。原子みたいに(これってナンだけど例えば気体分子みたいに?ってことか)移動できるわけじゃない。池田氏はPCの価格が下がり続けていることを書き加えてきたが、全世界の需要量が増大してきたのであれば多分下がるだろう。インターネットプロバイダ料金は国際競争には無関係に下がり続けてきた。昔のダイヤルアップに比べれば数百倍とか数千倍もの性能になったが、価格は大幅に低下した。「インターネット接続サービス」というものを中国から輸入してきてるわけではないし、国際競争がなくても需要が増大すれば下がるのだ。携帯電話料金もそうだ。加入者が増大して需要が増えれば、価格は下がるだろう。それは経済学の教えに従うところだろう。サービスは、財と必ずしも同一に扱えない部分が必ずあると思っている。特に人的サービスの比重の大きなものはそうなんだろうと思う。それは供給者(労働者)を簡単に移動できないからだ。需要側もそうだろう。移動に大きなコストがかかるからだろうと思う。

最貧国で「ネイルアート」の商売をしようとしても、成り立たないだろう。日本人のネイルアーティスト(?と呼ぶのだろうか、ちょっと判らんけど)を連れて行って、商売をしようとしても需要が殆どないのでダメだろう。しかし、現実に日本国内では商売が成り立つ。ネイルアートという労働、提供サービスは、地域が変わっても内容は基本的に同じであろう。「その仕事に固有の生産性」が変わるとは思われない。だが、ある地域では商売として成り立ち、ある地域では成り立たない。これは当たり前。需要がないのは、その地域の「賃金(所得水準)が安すぎる」からだ。グローバル競争云々で、ネイルアートの仕事が変わるわけじゃない。もしも海外に激安のネイルアートの店があって、日本では1万円かかるのに、そこでは千円でできるとしても、実際には日本人はあまり利用しないだろう。そこに行くまでの時間や移動コストがかかるからだ。千円で営業している店の外国人は、日本に来て営業した方がはるかにお得なのに、中々やってこれない。それは移動コストとか地域的な障壁が存在しているからだろう。現実世界の中では、「誰も原子(分子)みたいに」振舞うことなんてできない。

日本の喫茶店でコーヒー1杯に600円も取る店があり、この店は生産性が低く国際競争力も低いから、グローバル競争に敗れて潰れる、とか言うのかもしれないが、実際にそれで営業していて、そこの従業員には法定最低賃金よりも高い時給(勿論中国の平均なんかに比べればべら棒に高い)をわざわざ支払って「営業している」んですよ(笑)。それは需要があるからで、もしもその価格に不満なのであれば、利用しなければいい。利益がなくなれば企業は必然的に撤退するのですから。しかし現実に営業可能というのは、経済学でいうところの合理的な結果なのであり、グローバル競争だの生産性が低いから云々ということなんかではない。「中国でコーヒー1杯が80円で飲める喫茶店があるからそこを利用します」、なんて言う日本人に出会ったことはないが(笑)。一杯600円の値付けというのは、経営(供給)側が需要者に「聞いて回って」決めるんじゃないんですよ。需要量が減ったからといって、すぐさま価格変動なんかは起こらないですよ(笑)。供給側が勝手に決めてるだけ。想定している利益率から、価格が設定されているのです。利益率算出には当然従業員の賃金(ウェイトレスの時給だな、笑)だって入っているに決まっていますよ。


話は変わるが、物々交換の世界を考えてみよう。
Aという島ではバナナが自然に常時膨大になっていて、誰でも自由に食べられるとする。別なBという島では、バナナを食べたことがなく、バナナの需要があるとしよう。Bの島ではバナナの代わりに、イモが常時大量に自由に採れるとする。で、Aの島で「バナナを採取し、船に運ぶ人」という仕事a1と、「バナナを船でBに運ぶ」という仕事a2というのができたとする(島Bからは島Aに行ける船がないものとする。これは技術水準がAで高く、Bにはそれができる技術がない、ということです)。それぞれ一人が始めたとしよう。Bの島に行き、バナナ10本とイモ10個を交換して返ってくるとする。で、仕事a2の人がイモ7個、仕事a1の人がイモ3個分が取り分だとしよう。その仕事が島Aでは「オイシイ仕事」であると思うのであれば続けられるだろう。

だが、島Aの人たちが別にイモと交換する為に島Bに行かなくてもいいと思うのであれば、誰も運ばなくなる。それは仕事の生産性とか国際競争なんかには関係ないだろう。「労力が大きい」かどうかである。思っているよりも労力が大きすぎる(例えば船が途中で難破したりして死ぬリスクとか)と感じるのであれば、誰もやらないのだ。もっと別な仕事、例えば魚を取るとか、金属を探す為に山を掘るとか、そういったことをやる。それは基本的には島Aでの生活環境・水準によるのである。逆に、イモとの交換がとてもよい商売であると感じる人たちが多ければ、島Aからバナナを運んでいく人々が増えていくだろう。それもある水準に達すると、それ以上はバナナを運ぶ仕事はそれ以上必要とされなくなる。島Bでの需要がいずれ頭打ちになってしまうからだ。多くの人が島Aから運搬するようになれば、交換比率はバナナ:イモが10:10だったのが10:8とかに低下するかもしれない。これは需給で決まる、と言えるが、島Aから運ぶ仕事の手間暇と、貰えるもの(この場合はイモだ)の価値の感じ方でしかない。イモの適正な絶対価格なんてないからだ(笑)。交換比率が1:1であれば継続されるが、バナナ10本に対してイモ5個とかまで落ちてしまうと、「こんなに大変な思いをして運ぶのはイヤ(損)だ」と感じるようになって、やはり誰も運ばなくなるかもしれない。先の仕事a1の人とa2の人の取り分にしても、貰えるイモが余りに少なくてバナナを採取して運ぶのはイヤだ、とa1の人が思うのであれば、Bにバナナを運ぶ商売を止めるかa1の人のイモの取り分を増やすしかないだろう。


なので、絶対価格を需給で決定するのは難しい。島Aでのa1やa2にかかる賃金コスト(労力)は正確に計算できない。イモの絶対価格も実際には存在しない。Bの島ではタダ同然なのだから。結局、ある仕事をやってもいいと思えるかどうか、ということに行き着くと思われ、それは自分が生活している社会環境、生活状況や期待・欲望という判断(つまりは人間の心の問題?)によるのだろうと思う。



賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?(追記あり)

2007年02月14日 13時04分36秒 | 経済関連
これまで専門家という人々が本当に正しいことを言っているかどうか、というのは割りと「当てにならない」というようなことを書いてきました。以前には、「反専門家主義」という記事も書きました。そして、今回も池田氏の論説に、そうした傾向が顕れていたように思えたので、素人なりの疑問を書いておきたいと思います。池田信夫氏は一応「経済学者」ということなのでしょうか?それとも、IT関係や電波関係の評論家なのでしょうか?私には正確に判りませんけれども、専門家なのであれば経済学について正しく理解しておられるはずなのですが、素人衆(あるふぁなブロガーの方も含まれるかもしれない)や学者でもない新進気鋭の評論・翻訳家(=山形氏、by Dr.中西)の言説に、専門家らしからぬ余裕のないツッコミをされているのを目の当たりにして、とても悲しくまた残念に思う次第です。はっきり申し上げれば、「オマエら、間違ってんだYO!」というのを、得意気に書いているのを見て、「何てレベルが…(以下自粛)」と思ってしまい、また期待ハズレでガッカリしました。貸金業関連の時もそうでしたが(笑)。


前置きが長くなりましたが、大変お詳しい方々の議論に参入するのも気が引けますけれども、池田氏の批判が果たして妥当なものと言えるか書いてみます。

池田氏は次のように述べています。

池田信夫 blog 生産性と「格差社会」

(一部引用)

ここで彼は「平均生産性」と「平均所得」が存在することを示している。それは当たり前だ。しかし両者が存在することが、どうして前者が後者を決めることになるのだろうか。たとえば同じように全国民の平均身長も存在するが、平均生産性は平均身長を決めるのだろうか?

経済の各部門の限界生産性は異なり、それによって賃金も異なる。その集計として平均は算出できるが、それは因果関係を意味しない。もちろん「生産性の高い国は所得も高い」ぐらいのことはいえるだろう。こういう関係を私は前の記事で「日本の所得水準が高いぶんだけ、絶対価格は中国よりも高くなる」と(わざと曖昧に)書いた。山形氏は、見事にこれに引っかかって「じゃあ池田くんの言う『所得水準』はどうよ? 所得水準が絶対価格を決めるメカニズムはあるんだよねえ?」という。

残念でした。所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。価格は需要と供給で決まるのであって、その需要を決める要因の一つに所得はあるが、所得が上がれば価格が上がるといった1対1の因果関係があるわけではない。まして彼が引き合いに出していたウェイトレスの時給が、経済全体の「平均生産性」で決まるなどというメカニズムがあるはずがない。



ここで、用語の問題というのがあるかもしれませんので、私なりの理解で書いておきます。池田氏は「所得」と用いていますが(所得水準とか平均所得とか)、以下では「賃金」と書きます。「所得」というと、不労所得なんかも含まれるかもしれないので、全部の人が働いて賃金を貰っている、ということを念頭に書いていくためです。また、所得水準を決めるのはほぼ賃金所得であるということを前提に考えるためです。

まず資料として、以前に書いた記事で取り上げたペーパーがありますので、そちらをよくお読み下さればと思います。

デフレ期待は何故形成されたのか・3の中で示した、ESRI ディスカッションペーパーNo.90です。

このペーパーで取り上げられているアカロフらの論文がありますが(元の論文を読んだ訳ではないので是非ご自身で確認してみて下さい)、ここから見ていきたいと思います。

アカロフらの示した賃金交渉モデルでは、簡単に書くと次のような関数があります。

総合的利得=(V-受取賃金)^α(受取賃金-参照賃金)^(1-α)

V:雇用者一人当たりの期待付加価値額
α:企業の交渉力
1-α:労働側の交渉力

総合的利得とは企業側はなるべく労働者を低い賃金で雇って利益を多くしたい、労働側は受取賃金を多くもらいたい、ということです。この交渉の結果、双方の利得が最も大きくなれば一番良い、ということですね。付加価値額については、色々な定義があるかもしれませんが、とりあえず以前に書いた記事中に示していますのでそちらを見て下さい。

この賃金交渉モデルで示された「参照賃金」というのが、池田氏や山形氏の議論の根本にあるのではないかと思います。アカロフらは参照賃金を次のように想定していたようです。

参照賃金=期待機会利得=(1-u)W+uS

W:市場賃金
S:失業手当
u:失業率

これは、その会社に勤めないで別な会社に勤務した場合に得られるであろう賃金と失業手当の大きさで期待されるもの、ということになります。失業率はその確率を表すという意味です(恐らく元の論文では、生産財が一つしかなく、競合企業も同一財しか供給しない市場を想定しているのではないかと思いますが、読んでないので不正確です)。じゃあ、市場賃金って何よ?ということになってしまいますが、平たく言えば「別な会社の賃金」の相場、ということになるでしょうか。競合企業がどの程度あるかにもよりますが(市場全体で2つしか会社がなければライバル社の賃金ということです)、おそらくその平均ということになるでしょうか。失業手当は日本だと政府介入のものであり企業にその決定権限はありません。ここまで見てくると、参照賃金というのが、市場賃金や失業手当というものから想定される、「その社会における適当な相場」ということだと思います(相場というのは、世間並み、という意味合いであって、市場取引に関するものではありません)。ゲームクリエイターだとこれくらい、プログラマだとこの程度、派遣事務員ならこんくらい、メイド喫茶のメイドならこれぐらい…要はそういうようなことかな、と。

このモデルでは財を扱うので、サービスが同じように当てはまるとは言えない可能性はありますが、意味合いはほぼ同じではないかと思われます。もう少し続けます。参照賃金の伸びについては、次のように示されています。

参照賃金伸び率=期待物価上昇率+期待実質賃金上昇率+賃金プレミアム

ここで、賃金プレミアムというのを簡単に言いますと、失業率に関する関数で、失業率が高ければ労働者が企業を移動するのが大変な(リスクは高くなる)のでプレミアムは低下し、失業率が低いと条件の良い企業へ移りやすくなるので労働者を繋ぎとめておくプレミアムが上昇することになります。大事なことは、労働者が「これくらいは貰えるハズだ(貰うべき)」と考える賃金というのは、過去の賃金なんかを織り込んでいて、更に期待物価上昇率も今後貰うべき賃金の参考にしている、ということです。なので賃金低下が持続したり、デフレが継続するというのは、経済活動にとっては深刻な影響をもたらすのです。

現在の参照賃金は、過去の伸びの積み重ねによるので、賃金の高い国というのは低い国に比べればその歴史を積み重ねてきた、ということです。失業手当についても、社会全体の賃金水準が上がれば一緒に高くなるので、例えば最低賃金のような法規制などの影響も受けて高くなってきた、ということだろうと思います。


池田氏の批判を再掲しますが、『所得水準が価格を決めるメカニズムなんてあるわけないだろ。価格は需要と供給で決まるのであって、その需要を決める要因の一つに所得はあるが、所得が上がれば価格が上がるといった1対1の因果関係があるわけではない。』と述べています。これを見る限り、「価格決定は、賃金に関係ない」ということのようにも聞えますが、先のESRI のペーパーを見ていくと、次のようなことがわかります。

ある企業の財の需要関数=需要×(価格/平均価格)^-β
(β:価格弾性値)
平均価格というのは、その産業での平均価格です。また、価格は

価格=β/(β-1)×賃金/限界生産性

で表すことができます。すなわち、ある社会があってそこでの賃金というのがある水準の時、価格にそれが反映されてしまう、ということになります。池田氏のいう限界生産性は間違いではありませんが、理解が不十分なのではないでしょうか。企業の生産量Qが供給と同じであるとして、これは雇用量Nおよび技術水準の関数になります。で、限界生産性(dQ/dN)が与えられることになります。供給は別な言い方をすれば、価格/賃金比率の増加関数だそうですよ。「価格は需給で決まる」という金言を後生大事にするのも結構ですが、雇用者の賃金が上がれば価格は上がりますので。全業種同一に、とまでは言いませんけれども。月給1万円の業種と月給30万円の業種が、日本という社会に同時に存在しうる(最低賃金という法規制がないとして)、ということを現実に想定するのはとても困難であろうと思います。極端に安い業種が存在した場合、労働側の参照賃金は別な業種に変更可能なのであり、労働市場が厳しい移動制限があって移れないということがなければ、そんなに安い仕事に従事する必要性は存在しないでしょう。つまり、「一つの財」だけを扱っている市場ではライバル社しか選択余地はないでしょうけど、現実にはもっと別な業種という選択権が労働側にあるのですから(勿論移動にはそれなりのコストが必要でしょうけれど)。


次に「平均生産性」というものを見ていきます。

ESRI のペーパーでは、生産単位が小さい場合にはこちらの方が現実的、という表現になっています。つまりサービス産業のような小さい企業の多い場合には、限界生産性からのアプローチよりも現実的な考え方、と受け止められなくもないですね。

企業が撤退せずに存在する条件として、次のように表しています。

(pQ-WN)/pQ=r

p:価格
Q:生産量
W:賃金
N:雇用量
r:下限利益率(必要最小の利益率)

書き換えると、p/W×(Q/N)=1/(1-r) となり、平均生産性Q/N、価格、賃金というのはいずれも関連していると考えられます。
更に、

ある期における平均生産性=初期平均生産性×e^p×(供給量/Q')^-1/δ

Q':平均的稼働水準下での潜在的生産能力
-1/δ:供給量と平均生産性をつなぐ弾性値

と表すことができ、「平均生産性」については、これらで基本的な定義をすることができると思われます。

ここでは「日本全国のある財」について扱っているが、これを例えば「メイド喫茶」というサービスについて援用不可能と考えるのはあまり合理的とは思えませんね。


このように見てくると、池田氏が豪語していた(これは前からなのですけれども)、「(賃金が)価格を決めるメカニズムがあるわけないだろ」とか、「「平均生産性」で決まるなどというメカニズムがあるはずがない」とか、そういうのがいかに胡散臭いものであるかは判ったような気がします。勿論、現実には正確な時給や賃金が「一義的」に決定されたりはしませんね。それは「缶ビール市場」というのが日本に存在するとして、たとえ同一製品であっても、1缶210円のもあれば、168円のも、500円のもあるわけで。誰も「たった一つの」需給均衡価格なんて見たことなんかないんですから(笑)。個別の事例・市場を見ていけば、そりゃいろんな場合もあれば、生産性も違うし、業種毎でも大分違ってるでしょう。

でも、山形氏が説明していたのは、「日本という社会全体(=国際社会という枠組みの中の日本)で見たときには、どのように考えてみたらいいのかな」ということを、「経済素人にも判るように易しく書いてある」ということなんですね。池田氏は、ご自身のような「専門的立場」からすると物足りない・誤解を招く、という表現を含むものだ、ということを批判しているのかもしれませんが、そういう「専門的立場」から批判を加えるのであれば、ご自身の論説内容についても当然その水準を適用すべきだしそれが要求されて当たり前でしょう。因みに、池田氏が前の記事で説明に用いていた「要素価格均等化定理」に関して、以前に取り上げたので、参考までに一応挙げておきます(参考記事)。

何かと言えば「経済学、経済学」、「専門、専門」、「教科書はこう教えている」、最終的には「教科書嫁」(爆)、というような定型的な批判が多いのもアレですけれども、理屈を現実世界に適用していこうとする時に「理屈通りではないかもしれない部分については、自分はどういう風に考えるか」というのが、大事なんじゃないかな、と思うのですよね。特に専門を謳うのであれば、結論を豪語する前にまず論文を読むのも当たり前、他人に「何も判ってねーな」と面罵するのであれば、まず自分がやってみた方がいいと思いますね。アカロフなんて、私のような経済学素人でさえブログのネタに取り上げるくらいなんですから(笑)、著名学者の論文を読んでないとか知らないというのは、専門家のレベルとしてどういった評価となるんでしょう?門外漢の私には全く判らない訳ですが。


前に指摘した時の教訓は、全然活かされていないのではないでしょうか?>池田先生


関係ないけど、
TBしても、何故かはてなには届かないね。まあ、しょうがないか。

池田氏はこちらのTBを削除したそうです。「デフレ」の話なんて関係ない、ということですって。上の内容を読んで、価格とか賃金の話を書いているのに、何処にデフレの話をメインにしてるように読めるのでしょう?確かに文中には、ちょこっと触れていますが、殆どは違いますよね。「価格」と「物価水準」の違いを勉強しろ、ってアドバイスを頂戴しましたが、「物価水準」を示す式とか、上に書いてますか?どこをどう読むとそういう読み方ができるのか、不思議ではあります。

自分の都合が悪くなると、無視すればいい、「どうせ何の影響力もないザコブログだから」、ということがよく判りますね(笑)。こういう時こそ、「スルー力を発動!」ということなんでしょう。「デフレ」って、全然違うことを言って誤魔化すというのも、一体なんなんでしょうね。要は自分の評判さえ守ればいい、ということなんでしょう。これがアルファな人、ということです。


懐かしいー!『美味しんぼ』

2007年02月13日 13時16分15秒 | 俺のそれ
例によって、via ボツネタ
マンガネタをハケーン(笑)。麻生親分も好きそうだな(実際どうなのか知らないけど)。

昔、バブル期前後に流行りだしたように思う。
食べ物の薀蓄なんかを聞かされるのって、この影響がかなりあったように思うが、知ったのが学生時代だったので、私自身は大して「美味いもの」というのには縁がなかったな。この影響を受けてたと思うが、美食ブームだとか、『料理の鉄人』番組だとか、そういうのが社会に浸透していったような…何かのブームへの警鐘みたいなのとかもあったな。例えば「ドライビール」とか(「スーパードライ」が売上No.1ブランドになるとは予想だにしてなかったろう)、ワインとか(って、酒ばっか思い出すってのもアレだけど)。


全巻・全話が検索できる! - 美味しんぼ塾ストーリーブログ


まあ、暇な時に、「ああ、そういえばこういうのもあったねー」みたいに訪れると吉かと。私が読んだのは、食堂とか喫茶店なんかに置いてあるのだけだったので、全巻読んだことはない。大体結婚するあたりか、結婚直後くらいまでかな?その後も続いていたとは露知らず。

シロウの職場は新聞社のままなんでしょうかね。究極のメニュー探しはまだ続いているのでしょうか?(vs至高のメニューも?)今度調べてみようっと。



健保組合の存在する意味とは

2007年02月13日 12時15分25秒 | 社会保障問題
これも前から書いているが、タダの無駄な組織としか思えない。運営事務なんかは「政府管掌」があるのだから、当然一本化した方が効率的に決まっている。おまけに組合理事長だの理事だのと、健康保険料から社長みたいな「給料」を払ってるところも多々ある。個々に「理事長ポスト」を多数生み出して給料をばら撒く必要性なんかないのである。福利厚生事業をやりたいのであれば、医療とか年金の事業は切り離して、統合して行えば済むことである。これを何故推進できないのか?それは、既得権益だからである。

健保組合の運営状況によって、苦しいところもあればリッチなところもある。これも当然のことながら格差を生み出しているのである。国民の基本的な保障基盤にも関わらず、社会保障の「負担が違う」のである。給与水準が高いところでは、当然余裕があるし、副業なんかもできるので規模のメリットも生かせるのである。こんなのがバラバラに数千とか存在する意味はないと思う。だが、彼らは健保組合解体を考えたりはしない。それは厚生労働省が「やりたくない」と考えているからである。役人どもの「天下り先」として、たくさんの「イス」がないとうまみがないからである。要するに、天下りポスト供給先としての「健保組合」とは、役人たちと一致結託しているようなものなのである。

厚生行政の中には、重複組織がゴッソリと隠されているのである。似たような機能、同じような業務内容、そういったことを手間暇かけてやっているフリをしているのである(笑)。

とりあえず存在意義のあまりない組合に「裁量権」を持たせたフリをして、仕事をしてる組織であるという見せ掛けでもやるつもり、ってなところですか。リッチな健保組合―都会の大企業中心ということだ―では、みんなが必ず賛成に回るであろう「少子化対策」の一環として、出産給付を増やそう、ということだな。


NIKKEI NET:経済 ニュース

(以下に記事より引用)

厚生労働省は大企業の社員らが加入する健康保険組合について規制を緩和することを決め、全国の組合に通知した。公的な出産育児一時金(35万円)に各健保組合の判断で上乗せできる金額を倍増。財政に余裕がある組合なら、加入者に公的給付とあわせて計70万円の一時金を支給できるようにする。

健保組合は厚労省が定める運営指針に基づいて事業を運営しており、給付に様々な制約がある。健保組合の財政状況は格差が大きいため、厚労省は運営指針を見直して各組合の裁量権を広げることにした。財政に余裕がある場合は、少子化対策などを独自に実施できるようにする。




大都会で大企業に勤めてる人は、「セレブ出産」(ふざけたネーミングだな。どこのドイツが考えたのか知らんが。アホか、猫も杓子もセレブ亡者)だかができる、ってことにしましょうということですか。これが、厚生労働省官僚の「天下り先シート」(シルバーシートみたいなもんか?)を確保する為の、健保組合に付与する「裁量権限」ですか。将来組合を無くそう、という時の、「反対理由」にする為ですな(笑)。独立してやっている意味がある、それは「個別の裁量権」があり、独自の保険事業を行っているからだ、と。「恵まれる人々はとことん、どこまで行っても恵まれる」ということにしたい、と。なるほど。

大体、大企業に勤務してる人々のうち、自分の親を扶養してない人たちは相当いるのではないか?田舎に住んでるとかで同居もしてなくて、勤務地と同一地域にもいない、とかそういうのが多いのではないか?高齢者の比率が少なければ、財政状況は楽に決まってるよ。若い人の比率が多ければ、あんまり病気にもならないもの(笑)。で、地方に置き去りにしてきた自分達の親たちは、貧乏な地方自治体の国民健康保険なんかで「面倒をみさせてる」ようなもんなんじゃないか?若い加入者たちの殆どが給料の安いパートやらフリーターやらで(社会保険じゃない職場ってことだ)、残りの圧倒的大多数は病気しがちな仕事もしてない高齢者たちだろう。老夫婦か独居老人というのは、自分の子どもがいない場合もあるかもしれないが、大都会に出て行って親の面倒もみない人たちも当然いると思うね。そういう「自分たちの親」を、地方の金もない人々に負担させてるんだろうと思うね。それが全部ではないとは思うけど、そういうのはかなり存在していると思う。介護も同じだ。都会のヤツラは面倒みないで、費用負担だけ地方に押し付けてるんだよ。その分は地方から都会への所得移転と同じ効果を持つことになるだろう。その分都会の人たちは、自分たちが「使えるお金」は増える。

地方自治体で、扶養義務のある人々から確実に徴収する制度とか、そういうのがあればいいのだが、その為のコストは膨大になってしまうだろう。なので、実際都会に住む子どもたちから親の社会保障費をゲットしてくるのは難しい。普通に考えれば、地方ごとなんかではなく、運営主体が一つだけ存在すれば事足りるのである。国が保険者、被保険者は国民全員、これで済む話なのである。だが、これを認めたがらない。組合も厚生労働省も「既得権益が失われる」からだ。ボロボロと存在している他の公的中間組織も、その存在意味が失われるからだ。


公務員共済を見れば判るよね。こういう裏ワザも使えなくなるもんね。全部統合されたら(笑)。


NIKKEI NET:経済 ニュース

(以下に引用)

横浜市や名古屋市など全国65市町村の職員が加入する16の健康保険組合で、労使の折半負担が原則の保険料について、50%を上回る比率で使用者である自治体側に負担させていることが明らかになった。税金を使い公務員を優遇している形で、2005年度の割増負担額は全体で約205億円に上る。




統合によって、一部の既得権益者たちの利益は確実に失われるからな。こういうヤツラが、好き勝手に法律の解釈を捻じ曲げ、自分達のやりたいようにコッソリお手盛りを繰り返してきたんだろ。バラバラに存在すれば、こういうのがいくらでも可能だからだ。そういうのを守りたい連中がいる限り、統合なんて無理か。社会保障番号導入の話も止まったまま放置だしな。

変えていくには、大きなエネルギーが必要なのだ。



続々・イルカはサメになれない~株主と従業員

2007年02月12日 17時10分20秒 | 俺のそれ
少し間が空きましたが、前の記事の続きです。

イルカはサメになれない
続・イルカはサメになれない~幻想崩壊


今でもそうだが、昔の日本企業というのは「株主利益」への配慮というのは、欧米なんかに比べれば少なかったのだろう。よく不満を言われていたな。でも、不満なのであれば「買わなければいい」だけだと思うんだが。何故か海外の投資家が日本株を買っては、「オマエらは株主に配当が少なすぎる」って文句を言うわけだ。よく考えると、そんなに文句を言うなら「買わなければ済む」という話なのですよね。元々会社がどんだけ株主に配当するかは、株主総会なんかで決めればいいことで、多くの日本人の株主たちは「じっと黙って」株を長年持っていたりすることが多かったのでしょう。大株主はみんなある種の「身内」というか「顔なじみ」みたいなもので、何らかの「関係」が築かれていたのだろう。資本関係なのか、ケイレツなのか、ちょっとよく判りませんが、そういうような関係だった、と。

日本企業では、一般庶民の株式投資は多いとは言えず、直接持ってない方が多かったかもしれない。従業員の持株会みたいなのはあったかもしれないが、そういうの以外では株式を保有している、という方が珍しかったかも。主に、資産家・金持ちくらいしか持ってなかったんじゃないかろうか。それはそれで、別な機能をしていた、ということかもしれない。

それはこういうことだ。
会社は株主の資金を入れてるが、その比重は大きいとも言えず、銀行の借入資金が結構な割合であったのかもしれない。株主資本に対する意識はあまり大きくはなかったのだろう。従業員たちは主に株主なんかではないが、会社から「賃金」という形で「配当」を貰えていたのだろう。社会全体として、「株式を持たない者たち」という普通の従業員たちが、あたかも「会社の一部を所有している株主」であるかのような立場にあったのだと思う。なので、殆どの従業員たちは形式的には株主ではないが、会社への帰属意識や会社の利益と自己利益の一致などがあった。運命共同体でもあり、「自分という資本」を会社に投資していた、あたかも株主のようでもあったかもしれない。このような株式を持たない圧倒的大多数のものたち―勤労者たち―に、賃金の一部はある種の「配当」として、割と均等に分配されていたのであろう。株式を通じて会社を所有すること、会社の統制をすること、そういうようなことはあくまで形式論的なことであり、社会全体としては株式を通じない配当や統制の代替的システムがあったのではないだろうか。

ところが、米国の「生まれ変われ」という厳しい要求を突きつけられ、それまで日本社会に浸透してきたシステムの破壊と変更が行われた。株式投資に回せる金を持つ者たち(=株主)への優先的な配当を行わざるを得なくなったのだ。持ってない者たち(=多くの従業員)に回されてきた分を、大金を持っていて株式を大量に買うことのできる連中に奪われたのだ。本質的な問題としては、配当が少ないことが問題だったのではない。企業の成長が鈍化したことが問題であっただけで、成長力が高い企業なんて配当が凄く少なくても十分株価は上がるし、配当利回りがたとえ0.1%未満であっても時価総額がどんどん大きくなることは可能なのだ。人気があって、みんなが買いたいと思う企業なのであれば、別に配当を増やす必要性すらあまりないのだ。株主利益に殊更配慮なんかしなくたって、実力がありさえすれば会社はデカくなっていくのだ。儲かるんだから。配当だって、僅かではあっても増えてきたのだ。

株式を持たない従業員たちに分配するシステムは失われ、代わりに、リアルな株主に分配するのが正しい、と言われたのだ。それまで「オレたちの会社だ」と心の何処かに思っていたのに、身を粉にして働いてきた株式を持たない従業員より、「金を出してくれる」株主の方が大事なんだ、と知らされた時、何の為に会社に尽くしてきたのか判らなくなった。「株主の方が偉いんだ」とか言われた時、自分の存在する意味を見失った。従業員たちは、会社の一部ではなくなり、分身でもなくなった。

配当原資を生み出す為には、利益を必要とする。その為に、人件費を削れ、賃金が高すぎるから減らせ、…そうして勤労者たちの多くは分配から漏れて貧しくなっていった。ハケンや偽装や契約社員や…そういうものに置き換わっていった。日本人従業員たちが削りとられた給料の一部は、大量に日本株を買った外国人投資家のような「金を持ってる連中」が分捕っていった。彼らを満足させる配当を得るために、日本の勤労者たちはたくさん切り捨てられた。

イルカはサメに騙されたのだ。
サメの狡猾な戦術に、まんまと引っ掛かってしまったのだ。

本当はサメになる必要性なんてなかったのだ。
イルカに合ったシステム変更のやり方がきっとあったはずなんじゃないか。そう思わずにはいられないのだ。ついつい過去を恨めしく思ってしまうからなのかもしれないが。本当にこれで良かったのだろうか?そう考えてしまうのだ…。



テレビ番組『スタメン』は終了するらしいが

2007年02月12日 12時27分55秒 | 俺のそれ
昨夜ちょっと観てた。番組が終わってしまうのは残念な気がします。
が、キミ達は「もう番組打ち切りだし」とか思って、パクリっぽいのを流しましたね?(笑)ネタ探しにも疲れて、ちょっと手抜きっぽくない?


何で「政治(まさはる)くん」なんだよ!!(笑、判る人には判るね)
まあいいか。偶然だしね。
でも、勉強になったよ。


バレンタインネタも、昔書いてたのに近いじゃねーか、とは思った(笑)。

「バレンタインデー」はいらないか

ツッコミが似てるじゃないか。まあ、これも偶然だな。


次の番組は「栗捨てる」(←落合先生も好きだそうだから。モナから栗から…疑問ではある)とか何とかに期待されているらしいし。

太田さんは残念がってるかもしれん。まあ、元気出せ(笑)。
女子には不人気だと思うが、男子の支持は結構イケてるかもしれんよ。



ちょっと補足というか

2007年02月12日 12時11分30秒 | 俺のそれ
昨日の記事にちょっと追加です。

年金の運用成績に関する文句を書いたのは、これでした。

社会保障改革の文献的考察

3.2%でさえ無理だってのに、何で4%超がそんなに簡単に達成できると思ってるのか不思議ダネ。


全然関係ない話だが、山形氏は大きな勘違いをしているね。記事で毎回間違えてる。
みんな気付いてて誰も指摘しないから書いておくが、
「beewad」氏じゃなく、
「bewaad」氏じゃないですか?(笑)

これって、finalventさんの名前変形ヴァージョンみたいな気が…
「finelvantの日記」とか(笑)。

私もよく誤字脱字はあるが、山形氏の場合には完全な思い込みであろう。
Beebe(S.F.連邦準備銀)みたいな名前ってことで、間違えやすいのだろうか?
英語だと「bee」の綴り(ハチ?に関係ある?)は存在するが、「waa」の綴りは殆どない為とか?

稀にはあるか。オランダ語とか。
「ファン・デル・ワールス力」のワールスさんの名前か。
van der Waals だね。
オランダ人の名前って言えば、水泳選手のファン・デン・ホーヘンバンドも似てるな。
ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド - Wikipedia


これも脱線だな。
オランダ語には何の知識もないし。
マジャール語の猫も知らないし。ああ、これも全く無関係。



所得代替率という「ゴマカシ」

2007年02月11日 17時06分57秒 | 社会保障問題
内田先生が観たフランス映画は、『ヤマカシ』。これは「ゴマカシ」。似て非なるもの。
全然関係なかった。失礼。

まずコレ>中日新聞ホームページへようこそ

(記事より一部引用)

昨年末に公表された新たな人口推計に基づく試算。04年の年金改革の際より合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供数の推計値)が低くなったものの、政府が04年当時に維持可能だとした所得代替率50・2%を上回る結果となったのは、景気の回復や好調な積立金の運用を反映したためだ。前提条件によって数値が変わる微妙な結果ともいえ、国民の関心の高い年金問題だけに、論議を呼びそうだ。

06年度のモデル世帯の年金受給額は22万7000円で所得代替率59・7%。試算によると、代替率は徐々に低下するが経済成長が順調な「基本ケース」では(1)出生率が1・55まで回復すれば20年度以降の代替率54・2%(2)新人口推計通りに1・26だと26年度以降51・6%(3)1・06まで落ち込めば31年度以降49・4%-となる。一方、01-02年ごろの経済動向を踏まえた04年当時の経済見通しのまま、同様の出生率を当てはめた「参考ケース」では(1)29年度以降50・3%(2)35年度以降46・9%(3)38年度以降43・9%-になるとした。

年金財政は、受給者と支え手の人口構成、保険料収入や積立金の運用に影響する経済動向などに左右される。従来は、50年の合計特殊出生率が1・39になるとの見通しだったが、新人口推計では55年に1・26になるとの予測だったため、新たな年金財政試算が行われた。また、経済見通しは、1月に内閣府が発表した「日本経済の進路と戦略」に準拠。「11年度に名目成長率3・9%を達成」と仮定し、長期的な実質成長率を1・0%としている。




中々うまいこと試算していますよね。新たに「基本ケース」と名付けるのも妙味がありますね。何で04年推計の基本線を「基本ケース」と名付けないのか不思議です。厚生労働省の試算というのは、「100年安心、これで大丈夫なんだ」と言っていた割には、たった2、3年で前提条件もあれこれ入れ替える、適当な試算なんですか?(笑)年金試算は技術的に「難しい」というのは判るよ。でも、国民に約束した以上、その責任を負うべきだし(勿論法案可決した国会議員たちもだ)、「計算結果」というのがどれほど重要な意味を持つのかわかっているはずだろう。この前そのことをちょこっと非難したんですけれども(個人消費のこと)、官僚にありがちなのは「過去の失敗」を隠しておきたい、ということなのかもしれんね。間違いだった、ということを決して認めることをしないのが官僚という人種らしいから(←印象論)。

こうして見ると、官僚の傾向ってのがよーく判ります。そういう卑怯さは、見ていて滑稽でもありますね。官僚がこれまでやってきた「過去のこと」を多くの人々に知られたくない、中身を隠そうとする、ということですわな(笑)。都合の悪い発表なんかを隠蔽するという体質なんですよ。小心者というか、小賢しいのか、いい子ぶるのか、自分の名声’だけ’は守りたいってことなのか、何なのか全く判らんのだけれどね。これって、まさしくデジャビュみたいな気がするね。



脇道に逸れましたが、まず、厚生労働省の資料を見てみると、ホントなの?と思える部分はありますね。


長期の設定(2012以降~)はこんな感じ。
今回基本ケースと呼んでいるのは、物価上昇率1.0%、賃金上昇率2.5%、運用利回り4.1%となっており、04年改正時点での設定を今回は「参考ケース」と呼び、物価上昇率は同じ1%、賃金上昇率は2.1%、運用利回りは3.2%だった。この運用利回りについても、全然達成できてないじゃないか、ということを指摘したことがあるが、「いつかいい時も(多分)ある」というようなご意見だったような気がする(本当か?)。昔のことは措いておくとして、この長期設定のポイントは2つ。

①賃金上昇率が2.1→2.5%へと強気設定
②運用利回りは更に強気で+0.9の4.1%


次に足下の設定を見てみよう。
06年は既に過ぎたので、物価上昇率0.3%、賃金上昇率0%、運用利回り1.7%、と大体「実態に近い」数字となっている(笑)。皆さんにもよく知っておいて欲しいのですが、これが実力ってことですから。で、07年以降に並んでいる数字を見ると・・・・

物価上昇率は08年から11年まで1.2~1.9%という見通しです。割と強気。日銀さんは、厚生労働省に何か言ってやれば?(爆)
賃金上昇率は今年いきなり2.5%達成、これが4.1%まで行くという「超ブル」モードです。マジ?団塊世代が大挙して退職すれば、雇用需給は引き締まるかもしれんが、まだまだ失業率は高いし非正規雇用者は多いからね。果たしてここまで賃金上昇が達成できるのか不明ですね。運用利回りもかなり強気で数字を出しているが、本当にそれが達成可能なのでしょうか?あんまり信用できないな。

ここでもポイントは
③賃金上昇率が高い
④運用利回りも高い

ということなんですよね。これら①~④が見込みとしてどうなのか、というのは疑問は残る。よっぽど「上げ潮」になってないと無理なんじゃないか?(笑)本当に日の出の勢いでライジングになっていかないと難しいよ(内閣府の見込みが悪い、って批判もできるかもね、特に財政再建一派からすると)。


あと、所得代替率とか言うのも、夫が40年一定に働き、妻は専業主婦で貰える年金額が基本だから、独身で過ぎた人にしてみれば、代替率はずっと少ないはず。年俸300万円(平均月給25万円)程度の手取り賃金の人が貰える年金額は15万円以下ってこと。共働き世帯で、妻が結婚前と子育て後に合わせて25年以上正規で勤務していても、やはり年金額は代替率は50%以下だ。更にマクロ経済スライドで受取年金額は減額される可能性が高い。なので、「50%を約束します」なんていう言葉は、ほぼウソなのだ。

机上の計算では、保険料は全部入ってくることになっているのだろうし、未納にかかる徴収費用がどれほど計算されているのか不明だが、現実には未納はかなりあるし免除も勿論あるわけで、将来は生活保護とかであっても面倒を見ていかねばならない。そういうのがどの程度織り込まれているのか、ということも疑問ではある。


更に、人口推計の数字を見ると、2055年の前提は総人口8993万人、65歳以上の老年人口3646万人(40.5%)、生産年齢(15~64歳)人口4595万人(51.1%)、15歳未満の年少人口752万人(8.4%)ということだ。これはどういうことか?

主に、生産年齢人口が「働いて稼ぐ、税金を納める、保険料を払う」という世代であるとしよう。生産年齢人口のうち、15~24歳程度の人たちは殆どが働いていないだろう、きっと。学校に行くからね。今後大学院やロースクールみないな教育を受ける人々が増加する可能性が高く、これまで以上に労働に参加する時期は遅くなるだろう。となれば、15~24歳の人たちがざっと800万人と仮定(全く調べてないけど、年少人口の数と大きく違わないかな、ということで)すると、約4600万人のうち800万人が働いてない人ということになり、残りは約3800万人しかいないことになる。この3800万人の人たちが、「高齢世代」の年金や医療の面倒を見て、尚且つ自分達の下の世代約1600万人の人たちの子育て費用や教育費なども払わねばなりません。前に書いた(参考記事)3人で2人の高齢者の面倒を見るどころか、3800万人で3600万人の面倒をみることになります。ほぼ1:1、ということですな。そこにプラスして子どもたちの面倒を見る、ということなんですよ。

税金を投入すればいいとか、積立金があるから大丈夫、というのも、本当にそうなんだろうか、とは思うね。ほぼこれに近い状態を何十年と続けていかねばならんのだし。「日本の年金制度というのは、その制度の性質上、決して破綻することはない。何故なら、支える世代が払った年金保険料を高齢世代に回すだけだから」とかいう説明もあるらしい。そりゃそうだ。仰る通り。じゃあ、「1:1」対応で支えてごらんよ。それでも破綻せずに必ず払い続けられるんですね?


厚生労働省以外の数字はどうなのか、一応挙げておく。

新人口推計を契機に建設的な年金論議を(II)-「日本の将来推計人口(平成18年12月推計)」発表後の年金財政予測 RIETI 経済産業研究所

このシミュレーションは、厚生労働省の昔の「基本ケース」(今回のじゃないよ)に則って条件設定されている。なので違いがあるのは仕方がないだろう。

中身を見ると、厚生年金積立金残高推移があって、2006年中位推計マクロスライド2023年までのケースだと積立金が枯渇することになっている。これが果たしてどうなのか、というのは正確に評価できないが、重要なことが判る。それは、積立金運用益の利回り、そしてマクロ経済スライドの期間ということだ。

今後共済と統合されていくであろうが、各年金の積立金を全部合計すれば額が大きくなることは確かである。その巨額積立金をいかに運用するかによって、相当大きな違いが出てくるだろう。1%台という低レベルでは話にならない、ということなんじゃないか。ああ、でも年金資金で日本国債を買っておかねば買い手が不足するか。もしも償還された国債の資金で新規国債を買わずに、別な投資先に順次資金を振り向けるとすれば、国債の買い手が足りなくなってしまうか、ということだ。このあたりはよく判らない。

たとえば運用部隊として、国内のファンドマネージャーなんかで構成する「ドリームチーム」を結成してもらい、運用報酬をべら棒に高くしても何でもいいので(成功報酬制でいいと思うけど)、一定額の資金を与えて利益を出してもらった方がいいようにも思えるね。恐らくざっと200~230兆円規模の年金積立金が存在すると思われ、その1割くらいを投入してもいいと思うね。20兆円の巨大ファンド誕生、ということですよね。これを更に細かく分散して、日本国債以外に投資させる。VCに1兆円とか。株式市場に3兆円とか。ダメ?そんなに上手く行くなら、誰かがやってるか(でも、役人に金を持たせるとロクなことがないんだよね、本当に。必ず大損させられるから)。

年平均10%程度の利益を上げ続けると、積立金全体の運用利回りを1%近く押し上げることになり、すると持続可能性はかなり改善される。今後年金保険料が上がり続ける間は、年金積立金は増加していくはずで(厚生年金の取り崩し額は現時点でもかなりデカイけど)、その間にいかに運用利益を上げておけるか、というのが大事なんじゃないか。その後に訪れる超高齢社会に「持ってるモノ」が、多いか少ないかでかなり違うのでしょうね。


マクロ経済スライドに関しては、恐らくずーっと続けられるだろう。私は多分2050年までは生きていないと思うけど、今後65歳で受取開始(2031年)となり80歳(2046年)で死ぬとすれば、その間もずっとスライドになっていると思うよ。だって、無理だもの。払う世代はそんなに支えきれないと思うよ。それに行政の「暫定的措置」みたいなのって、面倒だから「このままやっとけ、どうせみんな気付かないから変えずに行っとけ」という感じが多いように思うね。なので、積立金枯渇を先延ばし可能にするスライドは継続されるだろう。

やっぱりこのままではイカンと思うよ。とりあえず年金財源だけ考えたとしても、まだ医療や介護の財源問題は残される。無年金者たちが生活保護とかの対象になれば、当然医療や介護も必要になるのですからね。



大荒れ、「日本の、これから」~団塊世代(更に追加)

2007年02月10日 22時19分38秒 | 社会全般
まだ放送中だが、宮台、金子が暴走。でも、かなりいい。
将来世代の代弁者としては、十分文句をぶちまけてた。

崔監督は、全くの論外。精神論に終始していた感じ。

あと、「経済成長」に対しては、「それは違うんじゃないか」的意見が多いように思われた。
やっぱり、「経済」ということについて理解を求めるのは、難しい面があるな、と思った。

宮台に対して、参加者たちから「下の世代のキミ達がやればいいじゃないか!」の怒号が響いていた。
「何で決め付けるんですか!!」団塊世代から出された不満であった。


丹羽さんは偉いな、やっぱり。意見に説得力がある。行政側の立場として、学者を選択しなかったのは正解であったろう。もしもかつての本間先生のような人とかであったなら(今で言えば立場的に八代先生とかになってしまうかな?)、不満をモロにぶちまけられていたかもしれない(笑)。堺屋さんも「経済成長」ベースの話をしようと何度もトライするも、理屈をほとんど理解してもらえず、不完全燃焼。


年金は誰も当てにできない、ということだった。やっぱりな。


書き忘れたけど、例の「奥谷」さん出てたね。よくNHKは呼んだね(笑)。
本日も「団塊世代の人たちは、サッサと退職して消えればいい」みたいなことを言って、「アナタ、失礼じゃないか」みたいに突っ込まれていた。誰も彼女の相手をしてなかったな。しょうもないことばかり言うんだもの。


更に追加。

ブログを始めた頃に、人口のことを書いたのがあるので、それを挙げておくッス。

新社会保障の重要因子1

「これから」って言っても、どうすんのかね、ホントに。


全然変わるけど、飯田先生がX世代の名称を募集していた(こら!たまには研究しろ!!)ので、考えてみた。
ネーミングセンスは悪いので、あんまり思い浮かぶのがなかったけど。

・ホリエモン世代
ズバリ、これか、とは思ったけど、上限ギリギリ(72年生)でややズレるかな、とも思った。応援していた主な世代もこれより少し下の世代で、大体20代後半~30代前半くらいかな、と。あんまりいい名称ではないか。

・陥溺の世代

陥溺:(Yahoo辞書より)
[名](スル)
1 水の中に落ちておぼれること。
2 酒色にふけること。理性を失って遊びなどに熱中すること。耽溺(たんでき)。
3 窮地に陥ること。

やや聞き慣れない言葉だけど、イメージは近いかな、と。
浮かび上がれそうで中々浮かび上がれない。
非常に苦しい印象。今にも溺れそう、みたいな。
あと、ゲームなどにハマって閉じこもってるような状況とか。
どうなんでしょう。


ヒラリー・クリントンの夫は誰?

2007年02月09日 23時47分46秒 | 俺のそれ
さっき、大爆笑ネタを聞いた。
いやー、中二は結構やるね。見直したよ。ウチの子から聞いた。

テレビでヒラリーが出ていたんだけど、ふとウチの子が「ヒラリーさんの旦那さんって、何ていう名前だったかな?」とか訊いてきた。
「ビル・クリントンっていう大統領だった人だよ」って答えたら、「ああ、そんな名前だった。あのね・・・」って、エピソードを教えてくれた。


こんな話。

時は01年頃。
当時の首相は森さんで、クリントン大統領と会談した時のことだ。

森さんは会っていきなりクリントンにこう言った。

「Who are you?」

するとクリントンは、オヤジの下らないジョークか何かと思ったのだろう。
笑顔でこう返した。

「I'm Hillary's husband.」

すると、森さんは

「Me,too.」

と答えたんだそうだ。


もう、ゲラゲラ笑った。
妻も私も、笑いすぎて涙が出た。
ウチの子は学校の図書室で友達と何かの本を読んでいる時、このエピソードを見つけて、やはり同じようにバカうけだったそうだ。因みに、この事件は、「フーアーユー事件」とか書かれていたそうだ。
それにしても、答えられたクリントンは、ジョークにしては趣味が悪すぎると思ったことだろう。普通は、喧嘩売ってんのか?と思うだろう(笑)。森さんは、失言癖は日米問わずなんですね。



この話の後で、それに似てる話がある、と妻が言ったので、今度はその話を聞いた。

こんな話だ。

昔、NHKに現ジャイアンツ監督の原さんが出ていた時のことだった。恐らく生放送だったのだろう、ということだった。
スタジオに外国人のスポーツ選手か監督みたいな人をゲストで呼んでいたのだった。では~さんどうぞ、みたいに紹介されて登場したその外国人に、原さんはいきなりこう言った。

「See you again!」
「?・・・・・・」

相手の外国人は引きつったような顔で固まっていたそうだ。
原さんの隣に座っていた女性アナも何を言ったらよいか判らず、困った感じになってしまったそうだ。


またしても、ゲラゲラ笑い転げた。
もう可笑しくて可笑しくて、家族で笑った。

私自身英語はからっきしで、全然ダメなのですけど、さすがにこれは言わないな、とは思った。どちらの場面でも通訳の人がいるんだから、そんなに無理して頑張らなくてもいいのに、とは思う。まあ、色々あるのかもしれないけどね。

妻は「原さんって、この一件以来、何だか信じられないっていうか、ちょっと信用できないっていうか・・・」と言っていた。どうやら妻の基準では、あんまりあてにならないらしい(笑)。

こんなに大爆笑になる話があったとは。
どちらも一文字名前の森さんと原さんっていうのが妙に共通しているように思えた。関係ないけど。