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賃金に関する議論~補足編

2007年02月18日 21時23分09秒 | 経済関連
今回の議論は興味深いものだった。「そうだったのかー!」と思えた部分もあった。現実世界を見るときには、自分なりの何かのイメージがあって、理論とどの程度近いのか・間違えて認識しているのか、ということが出てくるように思う。言えることは、「人間というのは複雑なものだ」ということと、ケインズの偉大さ―すなわち経済活動の根本部分を支える人間の欲望・期待といった心の部分に思い至ったこと―を改めて確認できた、ということかな(参考記事)。これを精緻に理論化することは、現状では大変難しいのだと思う。



いくつかの論点について、簡単に触れておきたい。


①「非効率業種はイラネ」?

限界原理に近い効率性の高い業種が経済理論では「正しく」、例えば喫茶店のような生産性の低い非効率業種が淘汰されない(或いは賃金が不当に高い)のは「間違ってる」、みたいな意見も見られたが、どうなんだろうか。

まず、現在「生き延びている」業種というのは、おおよそ経済学でいうところの合理的な結果である。不採算な企業は多くの場合淘汰されるからである。更に、生産性の高い業種から低い業種への賃金移転なんか不要であり、低い業種は残れない、というのも、そうとは言い切れない部分があるだろう。一つには代替可能かどうか、ということがある。何度も取り上げた炭鉱は、淘汰された業種である。「コモディティー化」から逃れられない業種(参考記事)は、淘汰される可能性は高くなるだろう。日本国内の労働者じゃなく、もっと低賃金でできる海外の労働者に置き換わる。プログラマとはそういう業種だろう。

「日本で石炭を掘って調達」するよりも、「もっと安い海外の石炭を調達」する方が得であれば、それに置き換わるというのが経済学的な理屈である。これは石油を掘る仕事の効率と似ている。石油を利用する為に掘るのであるが、石油の1cal の熱エネルギーを調達する為に、1cal 以上のエネルギーを使用しなければ調達できない場合であれば、「掘らない方がマシ」ということになる。掘る為に失われるエネルギーの方が多いからである。そういう”考え方”を教えてくれるのが経済学のモデルである。

だが、代替されにくい業種も有り得る。それが生産性の高くない非効率な業種であるとしても、淘汰されない。例えば、ゴミの回収・収集業務があるとする。この仕事の内容自体はもっと低賃金の労働者でも可能であるが、海外でその仕事を行うといった形をとることができない。数百年前からあったであろう仕事ではあるが、基本的な仕組みは似たようなものである。もしもこの仕事が淘汰されると、ゴミが膨大に溜まった状態で過さねばならない。個人が個々にどうにか処理せねばならない。でも、生産性の高い人々がその作業に手を煩わされると本業に影響し、本業の生産性は低下することになる。ゴミ処理が悪ければ社会全体の感染症の確率が上昇し、不健康という被害によって経済学的損失は増大するだろう。なので、淘汰できないのである。こういう淘汰しにくいサービスというのは、概ね必要なのだが代替性があまりなく、「時間的」「空間的」な物理的障壁が存在するものであると思う。海外の低賃金労働者たちが参入したくても、「今」「ここにある」ゴミを回収してもらわねばならない、という条件を満たせないからである。コールセンター、プログラムを書く、パソコン組立、Tシャツ製造、こういった仕事は「今」じゃなくてもいいか、「ここに」なくても可能な仕事だからである。だが将来は「完全自動ゴミ処理器」みたいなの(映画『Back to the future』に出てきた未来型デロリアンのエンジンみたいなものか?)ができてしまえば、ゴミ回収の仕事は淘汰される。これが技術水準向上ということであり、ゴミ処理に関わる仕事は「完全自動ゴミ処理器」の製造・販売に関わる部分だけになり、そうなれば労働力(雇用者数)を大幅に縮小できるだろう。

◎低生産性業種であっても代替性に乏しければ淘汰されない=これには経済学的合理性がある


②娼婦の稼ぎは絶対評価可能なのか?

このシリーズの前の記事で書いたが、娼婦の提供サービスというものについて、経済学モデルの中で「絶対価格」を決めることが可能なのだろうか?労働というものについての「絶対価格」というのは存在しないのではないだろうか、というのが私の印象である。ある人間がいて、「イノシシを狩る」のがいいか、「木の実をひたすら集める」のがいいか、「矢じりを生産する」のがいいか、これを決めるのは経済学で言う「価格」(=賃金)ではない。単純に「人間の感じ方」次第である。その感じ方というのは、一定の合理性があって、「危険」とか「効率が悪い」とか、そういうのはある程度判断されているのだと思う。貨幣のない時代に、娼婦が「小麦1袋」で取引に応じるか、「肉一切れ」で応じるかは、計算できない。その社会での生活によるだろう。元を辿れば、「参照情報」によって判断が左右されるのだろうと思う。参照情報というのは、自分の周りの人間の行動や考え方とか、何かの取引があればその取引結果も当然含まれるだろう。その積み重ねが今の経済活動の根本部分だろうと思う。それが全くなければ、価値の判断ができない。或いは、欲望の強さによって、時には判断が狂うだろう。従って、貨幣は参照情報の積み重ねがなければ存在意味はないだろう。

なので、「その社会での生活、生き方」というものから「参照情報」が成り立っているので、相対的な価値判断は可能だが、絶対的な価値尺度というものはきっと「判らない」(測れない)だろうと思う。労働というのは、そういうものである、と。その労働に支えられている「サービス」の価格というのは、やっぱり「相対的な価値」ということでしかなく、その価値を決めるのは「その社会での生活、生き方」であると思う。もしも「娼婦の相場は10ドル」というものしか知らない娼婦ばかりの、とある国があるとする。そこに外国人旅行客が訪れて価格交渉をする場合、価格は10ドル近辺に落ち着いてしまうであろう。他の参照情報、例えば日本人ビジネスマンは「少なくとも100ドルは払えるお金持ち」ということがあれば、値上がりするであろう。サービスというのはそういうものだろう、ということだ。

◎労働の絶対価値は計測できないだろう=サービスの絶対価格も正確には判らない


③サービスの相対的価値を左右するもの

「ある社会での生活、生き方」で相対的な価値に最も影響するのは、「生存するための労力(価格)」の大きさではないかと思う。生存の為に最低限必要な価値を上回る「稼ぎ」がないと、生きていけないからである。未開地域で、誰の土地でもなく、自由気ままに収穫物を得て生きていければ、お金そのものの必要性もあまりないかもしれない。だが、日本みたいな環境であれば、土地の上にいるだけで固定資産税を払え、とか言われる(笑)。「かぼちゃで収めてもいいですか?」とはなりにくいのである。何でもお金で払わねばならないので(税金の中には物納制度はあるけれど)、生存を確保するためにお金が必要なのである。水道や水洗トイレなんかをタダでは利用できない。食糧も勝手には調達できない。もしも「オマエらは外国だと月に200ドルしか稼げない労働者でもやってる生産性の低い仕事だから、低賃金にしろ」ということで、月に25000円程度しか賃金をもらえないとすれば、日本では生存可能性が脅かされる。ケインズの消費関数の中で出てくる「基礎消費」みたいなものだろう。この額を越える賃金が確保されなければ、労働者は「死ぬ」か「日本以外のどこか」に行く必要がある。限界原理では、こうした労働者の存在を想定していないであろう。なぜなら労働力は一様であるし、どこにでも移動可能であろうし、数が余るという考え方は含まれていないからだろう。「労働者の生活」という部分は全く考慮されない「モデル」なのである。

労働者の差ということも無視されているだろう。それは「未開地域の労働者」であろうと、「日本の大学院卒の労働者」であろうと、基本的な扱いは同じなのだろうと思う。労働力の「一部分」ということでしかない。しかし、現実は違う(笑)。

日本の企業は労働者を雇用するが、「日本語が読めて、話せる」労働者には「コストがかかっている」のである。未開地域の労働者を使いたければそうすればいいのだが、日本語を教育したり文字を読めるようにしてやらないと現実の労働力にはならないのである。その為のコストを負担しないとなれば、学校教育システムを「タダで利用」しているということである。これと似ているのは、企業活動を行う時に利用する上下水道であったり電気設備であったり電話線であったり、そういうインフラの利用は当然のように考えるだろうが、それとてタダで利用なんかできないのである。日本で企業活動を行うのに賃金が高すぎるのであれば、どこか「タダ当然」で土地を使えるとか、辺鄙な場所に行けば済むのである(笑)。

だが、そういう場所であればインフラを利用するのに多額の投資が必要であろう。自家発電設備を作る必要があるし、水の濾過装置もいる。水源から水を引いてくるか、汲み上げポンプなんかが必要かもしれない。電話回線を用いるのには、何百キロも離れたケーブルに接続するか、衛星回線を使う為に自前で衛星を打ち上げねばならないかもしれない。それに労働者を集めておくことができない。他に何の設備も金を使える場所もなければ、工場だけあってもしょうがないのである。「労働力」は死んでいることはできない。常に「生きて生活できる環境」じゃなけりゃ、働くこと自体できないのである。限界原理では、そうした労働者の生活までは想定されていないだろう。

いずれにしても、企業が効率的に経済活動を行う上で必要なことは、「社会システム」というインフラを利用させて貰える、ということが大前提なのである。何かを移動したりするにも、便利な物流システムが整っている所じゃなけりゃダメなのである。それには道路も運送システムも必要だ。Fedexといえども、住所も定かでない道路の通じてないようなド田舎には配達できないだろう(笑)。住所を規定して地図表記が可能、ということだけでもかなりのコストがかかってきたのである。日本語のできる労働者を集めてくるのもそうなのである。企業が何でも無償で利用できると考えているのは誤りであろう。そうした「社会システム」というインフラ構築までには、「多大な先行投資」がなされた結果なのであり、その利用料を払うのは当然なのである。

電気料金とか水道料金という形でコストを負担している、という見方もできなくはないが、「社会システム」全体に対するコスト負担は経済学のモデルの中ではあまり考慮されていない、と思われる。もしも「社会システム」というインフラの利用が関係ないのであれば、先進国からは多くの企業が撤退するだろう。日本みたいな「賃金の高い国」でわざわざ薄型テレビを作ったりせずに、どこか辺鄙な国で作った方がはるかに賃金は安いだろう。工場建設の前に、まず莫大な投資が必要になってしまうのかもしれないが(笑)。

こうしてみると、「基礎消費」に該当する部分、つまり生存可能な水準が賃金のベースラインに来るであろう。国によるその水準の違いは、「社会システム」というインフラの違いによるだろう。貧しい国では「社会システム」が未整備であり、車が通れないとか、電気が通っていないとか、学校教育が不十分で文盲率が高いとか、医療が受けられないとか、誰の土地なのかハッキリしないとか、そういう場所であれば、「生存可能な賃金」というのが低いと思うからだ。しかし、多くの先進国みたいになってくると、その場所で生きていくのには「お金」が常に必要になる。社会が便利である代わりに、「社会システム」維持にはお金がかかるのである。なので生存可能な賃金水準は、経済の発展していない国よりも高くなるだろう。市場賃金の基本は、こうした「社会システム」構築にかかったコストや維持コストの大きさによるだろうと思う。その社会の歴史、積み重ねということが、賃金水準(その社会での”相場”ってヤツだ)を左右する、ということだ。

◎生存可能な水準以下の市場賃金は成立しない
◎「社会システム」の構築・維持コストの大きさで賃金水準が変わるだろう


ついでに、これに関して書いておく。
生存可能な賃金は、豊かになればなるほど「収入に占める割合」は低下するだろうと思う。貧乏であればあるほど、占める割合は高くなっていくだろう。

極端な例を想像してみよう。大昔の人間のように、「生きていくためだけ」に毎日活動していれば、その賃金は「いくらなのか」不明ではあるけれども、全部の収入にほぼ等しいだろう。つまり、狩猟生活だけやっていれば、その行動が「労働」であり、その対価=「獲物」ということで、それ以外に消費可能な余剰分は殆どない。稀には獲物を分けてやると石の武器なんかと交換できるかもしれないが、生きていくのに精一杯であれば、ほぼ全部の収入が生活の為だけに消費されるだろう。現在の貧しい国における貧乏生活をしている人たちにも、こうした傾向は当てはまるであろうと思う。得られる収入の殆どを、生きる為だけ(殆どが食べる為だけ、というのが正しいのかもしれない…)に消費するだろう。

しかし、リッチな国になると、食べる為の消費割合が減少する。最低限生きていく為の費用は、もっと貧しい国からみれば高いことは高いのだが、割合としてはかなり減るだろう。仮に平均年収20000ドルの国があるとして、生きていく為だけに必要な収入は5000ドルもあれば可能、というようなことだ。この場合の割合は25%であり、残りは別な消費に回すことができるのである。別な貧しい国では平均年収が1000ドルで、年間500ドルあれば生きていける(全ての利用料が安いはずであろうから)ならば、生存可能な水準はリッチな国の10分の1でしかないが、収入に占める割合は倍の50%である。そういうことが多いのではないだろうか、と。要するにエンゲル係数が下がるのとほぼ同じ意味合いである。

よって、経済発展の進んだ裕福な国では、生存可能な水準が上昇するけれども、収入に占める割合が低下することで、他の消費が多くなっていく。当然平均的サービス価格は貧しい国に比べて上昇する。基本的な部分では効率性が高いだろう。例えば、電力供給とか上下水道とか、そういうものは貧しい国に比べて効率的に供給されているだろう。技術進歩が大きいからである。水を汲む場合に、貧乏な国だと全部人力でやらねばならないが、リッチな国でははるかに効率的に大量の水を使うことが可能なのである。その為の労働力も極めて少なくて済むのである。

近年の日本では、この生存可能な最低水準というのが、以前に比べれば「下がった」という可能性は有り得ると思う。それは格安輸入品が多くなったし、食品も輸入品との競合などで下がってきた部分は多いように思う。ワーキング・プアとは、基礎消費に相当する部分の最低水準に到達しない賃金しか得られない労働者のことであろう(定義ができない、云々という内閣府はちょっとオカシイのではないか?例えば、単純に「一定水準以下の世帯収入しか得られない労働者世帯―但し、「一定水準以下の世帯収入」とは生活保護対象となる世帯の給付額に達しない収入をいう」とか何とか、定義可能なのではないかと思えるが)。


色々と言いたい部分はあったのだが、長くなってきたのと、疲れたので、とりあえず。




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