いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

前の続きだけど(追加あり)

2008年01月06日 18時13分42秒 | 俺のそれ
もうちょっと大袈裟な例を書いてみましょう。

個人が意見表明する際には常に多大な努力を強いられ、「本を複数読まないと意見を言うな」、「専門家のレベルになれるように勉強してから意見を言え」、「事実確認を行ってから意見を言え」、「賛否両陣営の論客になって相手側を論破できるようになってから意見を言え」、みたいに、高い要求をする人々がいる。これに同意できないし、こんなことを言う左派っぽい?人々の気が知れない。いくらでも意見を封殺することができてしまうよ。

・増税するな!
「財政の本を何冊読んできたんだ、読んでないなら言うな」
「予算決算の数字も知らないクセに、意見を言うな」
「減税派を論破できるようになってから言え」

・一律救済せよ!
「肝炎の本を何冊読んできたんだ、読んでないなら言うな」
「判決文を全部読んでないクセに、意見を言うな」
「一律救済派を論破できるようになってから言え」


増税するな、と主張している人たちは、全員が国家財政のエキスパートになるまで賛否の表明ができんのですか?相手側陣営を基礎的な数字や資料に基づいて論破できるようになるまで、意見を言ってはいけないんですね?よくデモ隊がいたりしますけれども、大抵は予算の基本的仕組みも知らなければ具体的数字も知らない人たちが大勢いると思いますが、デモに参加する以前の問題なのだ、ということですね?
線引きは許さない、一律救済せよ、という主張をしたり、賛同していた人たちの圧倒的大多数は、多分C型肝炎に関する本だの知識だのも一切なければ、5地裁判決文の中身について知らないし、役人の出してる資料についての知識もない、ということになるだろう。それらの人々が「救済せよ」と意見表明すること自体が極めて不適切だ、ということですね?
南京事件云々言ってる人たちの中に、「一律救済せよ、という意見表明はするな運動」をしていた人たちはどれほどいますかね?(笑)


一般個人の影響力は個々に見れば小さいと思うけれども、大規模デモみたいに多数が集まればほぼ「一つの塊」ということになるので、影響力は大きくなるのは当然だ。その為に、デモをよくやる人々が現れるのだろう。その効果が相加的か相乗的か判りませんけれども、個々の小さな影響力は寄り集まって大きくなり、大臣クラスとか総理大臣クラスの影響力を持つに至るので、「政治決断」みたいなものが引き出されるわけでしょう。デモがないとして、1人の「やる」と決断する総理大臣か厚生大臣が登場したのと、同じ効果をもたらしますからね。


沖縄の「11万人デモ」(笑)の参加者たちの中で、「相手側になって資料に基づき論破できる人」なんて滅多にいないのではないか、と思いますけどね。軽く新書2冊くらいは読んでないとデモに参加しちゃいけないんですかね?そうした個人の意見表明の機会は許されないのですか?

「~事件」について意見表明を行うのはダメで、他の問題に首を突っ込むのが許されるのだとしたら、その区分の基準というのは一体何なのでしょう?


市民運動でも、何とかデモでもいいんですけれど、そういうのをやるのを許容するのに、何故「○○はんたーい」とか「~論者はよくわからーん」とかネット上で表明するのを封じようとするんですかね?そこに「各人最大限の努力をせよ」みたいに義務を課すのは何故なんですかね?とても不思議に思うのですよ。

だったら、他の運動をやってる「本もろくに読まず、資料もろくに読まない」参加者たちにも、等しく(これぞ平等の精神ですか)義務を課せばいいものを、そういう「○○を読んでない者は参加資格なし、とする」みたいにルールを決めてるのは聞いたことがありませんね。

こういうのは、自陣営の都合で使い分ける、とかなんですか?
そうでないなら、ネット上だろうが、現実行動の参加者だろうが、自陣営も含めて平等な取扱いとするのがいいのではありませんかね。そういう義務化運動を推進すればよろしいのではないでしょうか>「本を読んでから意見を言え」派の方々



追加です。


肯定論(者)というのが一体何なのかよく判りませんけれども、こちらから見て外見上「肯定論者」と思しき方々というのは、「否定論(者)」の定義を明確にすることなく、「否定論(者)は~」ということを言っているように見えますね。

例えば、こちら>
ネトウヨの南京事件否定論をおさらいしてみる。|誰かの妄想

(一部引用)

まあ、レベルが低いというか、結論先にありきと言うか、その辺は言わずもがななのですがね。

言うまでもないことですが、南京事件の全体像について考察している歴史家は、日本軍が作成した資料・日中の関係者証言、その他当時発行された公式・非公式の資料などを基にその規模や犠牲者数を推定しているわけです。この際、写真などはあまり重要視されていません(撮影者・撮影日などが明確であれば使えますが、そういったものは占領者のプロパガンダ以外残りにくい)。

一方、否定論者は主に3種類。
Type I .全て捏造、虐殺どころか殺害そのものがなかった。
Type II .殺害は全て合法であって、虐殺ではない。
Type III.戦争なんだから虐殺があって当然、日本だけが悪いのではない。

この他に「30万人という数字が誇張だと言いたいだけ、虐殺がなかったとは言ってない。」とかもあります。

=====


そういうものだったんですね。初めて知りました。
「数字が誇張なのでは」という懐疑派みたいな人たちも所謂「否定論者」ということですか。なるほど。私もこの否定論者に含まれるということになりますね。
となると、秦郁彦の説でも「否定論」という区分なんですね?


上記区分を参考に便宜的に分けてみると、
①完全否定タイプ
②虐殺でなく合法タイプ
③日本以外の国でもあったタイプ
④30万人は誇張タイプ

で、④に該当する場合も「否定論者」(笑)ということで、こんな反応が。

はてなブックマーク - 申し訳ありませんでした南京事件論争における劇場管理人の謝罪文 - 劇場管理人のコメント - 分裂勘違い君劇場グループ

フムフム。
いってみれば、元々「劇場さん」とやらが疑義を呈していたのと同じようなことがここでも起こっている、と。
撃破しやすい論者を撃破したことをもって否定論の敗北を印象付けると伴に、たとえば①が論外なのだ、ということで「ひと括りに」否定論は却下された、とすり替えているのと同じように見えますね。これは個人的感想なんで、どうなんだか判りませんがね。
肯定論者という人たちは、肯定論というものの区分を明確にしてくれればいいし、それら以外を否定論と呼ぶ、というのであればそれでいいのですけれど、「30万人の虐殺が行われた」という主張が肯定論で、それ以下の「もっと少ない○万人くらいだった」であると否定論とか、はっきり言えばよいでしょうね。

で、肯定論者たちは、少ない数字を挙げている研究者の誤りを「資料」を用いて指摘すれば、①~④の全ての「否定論」を退けられるのではありませんか?それをやればよろしいのに、と思うのは、私がこの問題について無知であるからでしょう。

はてなブックマーク - 南京事件論争を中学生でも一目で分かるように図解してみた - 劇場管理人のコメント - 分裂勘違い君劇場グループ

ここで出てくるのも、やはり「30万人」という数字と他の研究者があげている数字が異なっていることを指摘しているのであり、所謂「肯定論者」に説明可能なものであるなら、学問的には既に決着がついていても良さそうに思うのですがね。それを実行せずに、他の論点を否定できたからということで「否定論者は敗北した」と全部を撃破したかのように振舞っているように見えるのですよね。これも個人的印象に過ぎませんが。


何故これほど有頂天になれるのか、私には判りかねます。




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