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諮問会議批判噴出

2005年06月18日 18時22分12秒 | 社会全般
自民党総務会で「骨太の方針」に係る審議について、諮問会議への不満が爆発したようで、特に民間議員への批判が出された模様。気持ちは判らなくはないが、記事に書いたようにかつての政治手法に逆戻りすることは国民としては許し難く、私は経済財政諮問会議を支持している。それは国民の為に働くエージェントとなり得るからであり、政府が真に国民に役立つような政策を考える時には、現在のような統治スタイルが望ましいと考えている。かつての公共事業を引っ張ってきたような時代の、寝技などに頼る古い政策決定方式は、改められるべきである(陳情・議員詣でなどをして議員さんへの直接の働きかけをしたり、鉢巻してくだらんシュプレヒコールなどの現実行動を伴いながら、議員の党内ポジション・実力などで政策論が決められ、省庁・官僚への影響力行使という政官関係を続けるという統治スタイルを続けることは意味がない。しかし、「政治の仕組み」を熟知する一部の元キャリアなどに、こうした手法を肯定している人もいるのかもしれませんけれども)。


経済学への批判ということが一部に誤解を与えているのかもしれませんので、説明したいと思います。また例で申し訳ありませんが、例えば日銀の金融政策について考えてみましょう。

経済学理論に従い、幾つかの学説・理論があるとします。それをそれぞれA、B、Cとします。現在選択するべき政策はこのいずれかであると、ほぼ大多数の経済学者が考えているとしましょう。日銀は金融政策決定会合・金融市場調節方針のような重要な金融政策について決定したりします。その決定は政策委員会メンバーによって決められます。この構成は、日銀総裁、副総裁2名、他委員6名となっており、経済(経営)・金融・財政の専門家達が集まっております。勿論経済学などの学者さんなどの他、実務経験者も入っております。一般国民からすれば、目も眩むような立派な方々です。私などから見れば、その信頼性に疑問などはないわけですね。


さて、日銀はA論に基づき政策を選択したとします。仮にa政策としましょう。ところがですね、経済学の不思議な所は、この論に疑問を呈する学者さんなどがおられるわけですね。A論支持者達は、学者の半数以上いる(とりあえず60%)としましょう。経済学者の全体から見れば、多数決的に言えばA論が支持されている、ということです。A論反対派のうち、B論支持者は残りの35%、C論支持者は5%いるものとします。A論反対派は、「日銀政策は間違っている」「B論に従いb政策を実行するべき」「いや、C論が正しい」などと批判するわけですね。経済学上の論争というのは、終わりが見えないですし、A論がB論やC論に論理的に否定されるのかどうかも不明ですし、結論が出るのは何年か後になってからです。もしも学術的にC論が正しいとするならば、多数決では残りの95%を説得できず、政策自体も誤りとなりますが、C論を学術的に証明しない限りこれを改めさせることはできません。証明が出来ない場合には、それは果たして学術的に正しい理論と言えるものなのでしょうか?


正しいC論を採用しない人達が95%いるのですから、これらの学者達が全員愚かであり、日銀政策委員会メンバーも同様に愚かという結論になりますね。一方C論が正しくない時、これがたった5%しか選ばれないということは、この支持者達が愚かな少数派というか学問上の異端的存在ということになります。学者さん達がだいたい均等な能力を有している時、正誤判断も均等であるなら数的に優位な理論の方が学術的には評価が高いのが普通と思いますから、C論は「ダメな理論」ということもあり得そうです。ですが、一般に国民からはこのような判定は難しいのです。日銀の「政策判断」の結果は、現実の経験から「体感して」いるだけですね。ですから、経済学上の論争がいくら行われたとしても、a政策を変えない限り国民には何のメリットも生じませんね。経済学者はC論が正しいということを学術的に証明するべきですし、もしそれが出来ない理論構造ということであるなら、いくら「A論がいいよ」、「B論が優れている」、「C論が有利だ」などと比較しても単なる徒労に過ぎず、学問的意味はないようにさえ感じます。


変なたとえですが、株の予想屋と何が違うのでしょうか?全く適当に書きますが、「テクニカル重視さ、RSIと75日乖離率では買いだ」「でもMACDやサイコロジカルは中立では?」「上の雲が厚いだろ」「ストキャス見たのかよ」「やっぱファンダメンタルさ、ROI低すぎだよ」「PBRが割高」という具合に理屈は色々ありますが・・・。たとえ学術的にはA論が経済学的に有利であると判断する学者さんたちが多くても、現実の結果としてC論の予想が当たってしまったら、これはC論が正しかったと言えるのでしょうか?経済学とはそういう学問なのでしょうか?株の予想も上に書いたように色々な理屈があって、株式評論家等が上がる銘柄を予想したりしますが、外れる事も多いし、逆に当たることもありますね。ですが、一般的原則として認知されている正しい解釈・判断をしたとしても、下がってしまうことも当然あるわけです。経済活動はこれと似ていて、「上がる、下がる」「増える、減る」というようなものが多いように思います。ですので、結果的にC論の示す結果が当たったとしても、これもまた「本当に一般的原理・原則として正しい理論だったから」なのか、という判定が難しいのですね。偶然によって当たった結果との見分けがつかないのです。株で言えば、「ほら見ろ、PBRが低かったからさ、絶対買いだっただろ?」みたいに。後講釈ならば、競馬の予想屋だって出来ますよ。一番人気(A論)を狙わずに、対抗(B論)や大穴(C論)を選んでいるのと、どのように区別できるのでしょう?何故、C論が正しいのに証明できないのか?C論が正しいなら、何故他の95%の学者達はそのことが判らないのか?単に知らないだけなのか?こうした疑問の答えが見つからないのです。


確かに特別な理論の発見などは、特殊な能力が発揮できるごく少数の人達によって明らかにされますが、通常そうした優れた理論というのは、その後に大多数の学者達から理解されたり支持されたりする訳で、支持されない理論の方が正しい場合というのは、圧倒的に支持されない理論の方が誤りである場合に比べて多いのでしょうか?その場合には、他の学者たちが揃って愚かである、ということでしょうか?


日銀ばかりではなく、経済財政諮問会議においても、議員の中に経済学の学者さんが存在するのですが、このような経済論争が続く中で政策決定が行われる訳で、その根拠としては「経済原理・理論」も重視されますね。しかし、いつまで経ってもA論、B論、C論の選択には正しい証明がないまま、例えばB論が選ばれて政策bが決定され、政治的な選択が行われるということになります。今問題となっている、「医療費にキャップ制」ですね。この経済学的意義や正当性は証明できたわけではないと考えています。「経済学的理論」に基づいて政策決定を行う以上、諮問会議メンバーや財政審の経済学者(どちらも吉川先生や本間先生が入っていたと記憶しておりますが)は、その学術的根拠を示せるはずであろうと思います。少なくとも私が例示したような、内閣府経済研究所等で行われた研究報告を否定できる論拠を持って政策決定するべきであり、内閣府でありながら自分達の内部にある成果を否定し政策決定するのは、国民から見れば行政の自己矛盾ではないかと感じます。何のための研究所なのでしょうか?

各研究員の研究成果について、「単なる研究者の個人的見解に過ぎない」というレベルのものに貴重な税金を投入するならば、全くの無駄ですね。それは「マジンガーZの基地建設に関する研究」みたいなもので、趣味との違いがないですね。政策立案・決定等に繋がるものが必要であり、研究成果を活かせることが必要です。勿論全てが理屈通りとはいかないでしょうが、それでも折角研究結果があるならば活用するべきですね。成果は省庁内か専門家に依頼するなり、査読することも可能でしょうから、個人的見解などに留めることなく、研究精度を上げる努力も必要でしょう。そうでなければ、誰の、何の為に研究してるんですか?


全国の経済学教授等の大学教官にしても、漫然と自分の好きな著作を書いたりするのは結構ですが、のんびり好きにやりたいということならば、そういう教官のいる大学は助成金等の税金を用いることなく自前でやってくれ、と思いますがね。研究ばかりではなく教育も行っているので「授業をきちんと行っていればいいんだよ」ということならば、授業の時だけ呼んだ方がお得ですね。現に非常勤の方々もおられるし。無駄に大学へ税金を投入するばかりがいい結果を生むわけでもないですね。文筆業の傍らで授業を少し行う非常勤の人と、少しの授業しかせずに後は自分が原稿を書くのに時間をかけている常勤の人との、明確な違いが判りませんね。著書の印税は教官個人のものだろうし。研究成果と個人の成果の区別が出来ないわけですね。自然科学分野などでは研究論文や業績・結果を求められ、非常に厳しい競争にさらされ、ポスドク問題などが発生したりしています。一方、大した競争にさらされることもなく、自由に時間を使ったり、平凡な自著を学生に買わせて印税を懐にいれる程度の教官も存在するようですね。要するに、何の為に税金を投入するのか、ですね。勿論、無駄な大学教官を養う為ではないことは確かです。



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