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連載(5)[人生を照らす言葉]
文学博士・鈴木秀子
【 「致知」2009年1月号 】
あすのことを思い煩ってはならない。
あすのことは、あす思い煩えばよい。
その日の苦労は、
その日だけで十分である。
――『新約聖書』マタイによる福音書第6章
【 "◆我が子のありのままを受けいれる"よりつづく 】
◆問題解決のキーワード
「どうでもええ」
セミナーに通い始めた当初、母親の心の中は「このままだと、この子は将来どうなるだろう」「あの時、あんなに厳しく言わなければ、こんなことにはならなかったのに」という不安や恐怖、自責の念が渦巻いていました。
そんな彼女に私は一つの訓練を勧めました。自分を責めそうになったり、将来の不安で頭の中が一杯になりそうな時、「神様、ありがとうございます。命を与えてくださってありがとうございます」と念仏のように唱えて、マイナスの思いが入り込まないようにする。そして、それでも心がザワザワした時には、ひと言だけ「ごめんなさい」と言って雑念を打ち消し、再び感謝の祈りに切り替えていく、というものです。
冒頭に紹介した『新約聖書』の一節を繰り返し声に出して読むことを、併せて勧めたのもこの時でした。
訓練を始めてしばらくすると、息子さんは少しずつ変わり始めました。近所に散歩に出かけるようになり、「おはよう」「お茶飲む?」という家族の問いかけにも黙ってうなずくまでになりました。「水仙の花が咲いていたよ」という何気ない言葉を聞いた時、母親は「この子は自然に目を向けるようになったのか」と驚くとともに、感激に満たされたといいます。母親のプラスの波動が、いつしか息子さんにも伝わっていったのでしょうか。
息子さんの状態が落ち着いてきた頃、母親は嬉(うれ)しそうな表情でセミナーに顔を出しました。この日の講話の中で私は物理学者・寺田寅彦の「どうでもええ」という言葉を皆さんに紹介し、次のように説明を加えました。
「これは投げやりな言葉ではありません。どうあってもいい、こうあってもいいということです。与えられた現状を黙って受け入れること。それが問題解決の道なのです」
すると、その母親が手を挙げて皆の前に立ち、顔を紅潮させながら発言しました。
「自分はこれまで、息子に向かって皆と同じように学校に行かなきゃ駄目、働かなきゃ駄目と言ってきました。しかし、たとえ学校に行かなくても病気もせずに元気でいてくれる。それだけでもいいじゃないか。『どうでもええ』というのが本当の解決の道だと、いま心から思えます」と。
セミナーの翌日は、驚くようなことがありました。息子さんが一人で私の講話会に来てくれたのです。母親がそれとなく勧めてくれたのでした。
「僕は中学校も高校も行っていないから、フリースクールのようなところを探しています。そこを出たら職業訓練を受けようと思っているんです」。彼は私にそのように話してくれました。
「十年以上もの間、辛い生活だったね」
「はい。本当に苦しかったです」
「でも、それがこれから実っていくからね」
「僕もそう信じます」
「無理しないでね」
「大丈夫です」
その清清(すがすが)しい表情と言葉には、どん底にあった彼が、もう一度生まれ変わろうとする強い意欲が込められていました。
◆頭の中で作り出した苦労と
現実の苦労
この実話を通して教えられるのは、私達人間は過ぎ去った出来事を思い出しては後悔し、どうなるか分からない未来のことを思い煩うという、頭の中でつくりあげた苦しみに、いつも苛(さいな)まれ続けているということです。
しかし、過去と未来に心を奪われることなく、目の前にある現実だけに生きていけば苦労は三分の一に減ってしまいます。過去と未来を一緒に背負おうとするから三倍の重荷になるのです。
冒頭のマタイ伝の中で、イエスは「あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だで十分である」とおっしゃっています。それは苦労がなくなるのがすべてではなく、頭で考え出した苦しみを手放し、きょう一日を精一杯生きることが大事だという教えです。
また、「神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい」という言葉があります。「み旨」とは「愛」をいい、それを行う生活とは、神様の愛に応えるような生き方のことです。
愛なる神は、私達に苦労を乗り越えられる力を与えてくださっています。それを信じ、いま、この時の恵に感謝しながらいきることこそ神の国とみ旨を行う生活なのではないでしょうか。
このように『聖書』の言葉は遠い世界の物語ではなく、私達の日常にあって、大きな力を与えてくれるものなのです。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】
連載(5)[人生を照らす言葉]
文学博士・鈴木秀子
【 「致知」2009年1月号 】
あすのことを思い煩ってはならない。
あすのことは、あす思い煩えばよい。
その日の苦労は、
その日だけで十分である。
――『新約聖書』マタイによる福音書第6章
【 "◆我が子のありのままを受けいれる"よりつづく 】
◆問題解決のキーワード
「どうでもええ」
セミナーに通い始めた当初、母親の心の中は「このままだと、この子は将来どうなるだろう」「あの時、あんなに厳しく言わなければ、こんなことにはならなかったのに」という不安や恐怖、自責の念が渦巻いていました。
そんな彼女に私は一つの訓練を勧めました。自分を責めそうになったり、将来の不安で頭の中が一杯になりそうな時、「神様、ありがとうございます。命を与えてくださってありがとうございます」と念仏のように唱えて、マイナスの思いが入り込まないようにする。そして、それでも心がザワザワした時には、ひと言だけ「ごめんなさい」と言って雑念を打ち消し、再び感謝の祈りに切り替えていく、というものです。
冒頭に紹介した『新約聖書』の一節を繰り返し声に出して読むことを、併せて勧めたのもこの時でした。
訓練を始めてしばらくすると、息子さんは少しずつ変わり始めました。近所に散歩に出かけるようになり、「おはよう」「お茶飲む?」という家族の問いかけにも黙ってうなずくまでになりました。「水仙の花が咲いていたよ」という何気ない言葉を聞いた時、母親は「この子は自然に目を向けるようになったのか」と驚くとともに、感激に満たされたといいます。母親のプラスの波動が、いつしか息子さんにも伝わっていったのでしょうか。
息子さんの状態が落ち着いてきた頃、母親は嬉(うれ)しそうな表情でセミナーに顔を出しました。この日の講話の中で私は物理学者・寺田寅彦の「どうでもええ」という言葉を皆さんに紹介し、次のように説明を加えました。
「これは投げやりな言葉ではありません。どうあってもいい、こうあってもいいということです。与えられた現状を黙って受け入れること。それが問題解決の道なのです」
すると、その母親が手を挙げて皆の前に立ち、顔を紅潮させながら発言しました。
「自分はこれまで、息子に向かって皆と同じように学校に行かなきゃ駄目、働かなきゃ駄目と言ってきました。しかし、たとえ学校に行かなくても病気もせずに元気でいてくれる。それだけでもいいじゃないか。『どうでもええ』というのが本当の解決の道だと、いま心から思えます」と。
セミナーの翌日は、驚くようなことがありました。息子さんが一人で私の講話会に来てくれたのです。母親がそれとなく勧めてくれたのでした。
「僕は中学校も高校も行っていないから、フリースクールのようなところを探しています。そこを出たら職業訓練を受けようと思っているんです」。彼は私にそのように話してくれました。
「十年以上もの間、辛い生活だったね」
「はい。本当に苦しかったです」
「でも、それがこれから実っていくからね」
「僕もそう信じます」
「無理しないでね」
「大丈夫です」
その清清(すがすが)しい表情と言葉には、どん底にあった彼が、もう一度生まれ変わろうとする強い意欲が込められていました。
◆頭の中で作り出した苦労と
現実の苦労
この実話を通して教えられるのは、私達人間は過ぎ去った出来事を思い出しては後悔し、どうなるか分からない未来のことを思い煩うという、頭の中でつくりあげた苦しみに、いつも苛(さいな)まれ続けているということです。
しかし、過去と未来に心を奪われることなく、目の前にある現実だけに生きていけば苦労は三分の一に減ってしまいます。過去と未来を一緒に背負おうとするから三倍の重荷になるのです。
冒頭のマタイ伝の中で、イエスは「あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だで十分である」とおっしゃっています。それは苦労がなくなるのがすべてではなく、頭で考え出した苦しみを手放し、きょう一日を精一杯生きることが大事だという教えです。
また、「神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい」という言葉があります。「み旨」とは「愛」をいい、それを行う生活とは、神様の愛に応えるような生き方のことです。
愛なる神は、私達に苦労を乗り越えられる力を与えてくださっています。それを信じ、いま、この時の恵に感謝しながらいきることこそ神の国とみ旨を行う生活なのではないでしょうか。
このように『聖書』の言葉は遠い世界の物語ではなく、私達の日常にあって、大きな力を与えてくれるものなのです。
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