電脳筆写『 心超臨界 』

我われの人生は我われの思いがつくるもの
( マルクス・アウレリウス )

人間通 《 書評——谷沢永一 》

2024-08-11 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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現代の書評は著者をそっちのけにして、専(もっぱ)ら書評筆者の見識を披瀝(ひれき)する場となっている。昔は如何(いか)に簡潔な要約を提示するかが腕の見せどころであった。今は或る一冊を材料(だし)にしてどれほど巧(うま)く話を持ってゆき、評者がどれほど眼光炯炯(けいけい)たる洞察力の持主であるかを見せびらかす識見展示会(ファッションショー)となった。一般読者が畏(おそ)れいって近寄ろうとせぬ所以(ゆえん)である。


◆書評

『人間通』
( 谷沢永一、新潮社 (2002/05)、p118 )

現代は新聞雑誌週刊誌が空前の熱意を傾けて書評を重視している実に奇妙な御時世である。然(しか)るに書評が手放しで礼賛(らいさん)したところで必ずしも売れ行きが伸びないという奇妙な現象が見られる。扇谷(おおぎや)正造が編集長であった「週刊朝日」の全盛時代、大型書店の走りであった旭屋(あさひや)では、その書評欄を切り抜いて板(ボード)に貼(は)り、勘定場(レジ)のよく見える場所へたかだかと掲げた。そこに取りあげられている本を買う人が多かったのは言うまでもない。その時に較(くら)べると現代の書評は空砲である。実弾をこめずに音だけ聞かせる儀式にすぎない。何故そうなったのか、書評が高尚になりすぎたからである。本来はスーパーやコンビニの如(ごと)く直(す)ぐ間に合う気易(きやす)い店であった筈(はず)の書評が、貴金属店のように瀟洒(しょうしゃ)で豪華な店構えとなり、容易には近寄り難くなったからである。

書評に重きを置き書評文化を高めるのに最も功あったのは昭和十年代の戸坂潤であるが、嘗(かつ)ての書評は或(あ)る一冊の内容を要領よく掻(か)い摘(つま)んで紹介するのを眼目とした。だから親切な摘要を絞りあげるのに筆者はおおいに努めたものである。それとは全く逆に現代の書評は著者をそっちのけにして、専(もっぱ)ら書評筆者の見識を披瀝(ひれき)する場となっている。昔は如何(いか)に簡潔な要約を提示するかが腕の見せどころであった。今は或る一冊を材料(だし)にしてどれほど巧(うま)く話を持ってゆき、評者がどれほど眼光炯炯(けいけい)たる洞察力の持主であるかを見せびらかす識見展示会(ファッションショー)となった。一般読者が畏(おそ)れいって近寄ろうとせぬ所以(ゆえん)である。
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