電脳筆写『 心超臨界 』

自然は前進と発展において留まるところを知らず
怠惰なものたちすべてにののしりを発する
( ゲーテ )

悪魔の思想 《 久野収――自らを「進歩的文化人の先頭」と称する自尊心の化物/谷沢永一 》

2024-05-04 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


左翼用語では、未熟な党員や一般人を煽動する調子のいい喋り立てを、一服吹く、と言い慣わします。進歩的文化人という嘲り言葉は、ごく初歩の左翼的な演説に類する文章を書きちらして、どうだ俺様はススンデイルだろうと、ご機嫌で胸をそらしている連中を、陰で笑いものにするための、見下げた指示語として発生したのです。ところが、この進歩的知識人、進歩的文化人という蔑称を、年月が経つうち勘違いして、逆に褒めそやし言葉であるかのように敬称として、尊称として受けとり、みずから進歩的文化人の代表を以て任じる道化(ピエロ)が現われるようになりました。それが結構お年をめした久野収なんですから、言葉というものはご本人の好みによって、いろいろに解釈されるものですね。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p171 )
「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収(くのおさむ)への告発状
第7章 恫喝が得意な権力意識の化身

  久野収(くのおさむ)
  明治43年生まれ。京都帝大卒。治安維持法違反で投獄。元学習院
  大講師。現在、『週刊金曜日』編集委員。左翼ジャーナリズムの
  “奥の院”。

  久野収にも何冊かの著作はありますが、これこそ主要な業績と見な
  しうるまとまった研究はありません。彼の精力はもっぱらふたつの
  方面に注がれました。第一には左翼系出版社の編集者に影響を及ぼ
  しながら進歩的文化人の奥の院に君臨することです。第二にはせっ
  せと座談会に出席して、同座する誰もがまだ読んでいないはずの新
  着の原書を誇示(ひけらか)しながら、仲間である進歩的文化人の連
  中を煽動して、反日的言論の模範例を示して尻を叩くことでした。

7-1 自らを「進歩的文化人の先頭」と称する自尊心の化物

進歩的文化人、という呼び名がいつごろ生まれたのかはっきりしません。ただ、丸山眞男が昭和25年9月に出した文章の中で、「いわゆる〈進歩的〉知識人」(『丸山眞男集』4巻315頁)という言い方をしていますので、知識人とか文化人とかのうち、ある種類の連中に「進歩的」とかぶせて指すようになったのは、これより少し前からあったように思われます。

ところで、この場合の丸山眞男がちょっと首をひねるように、「いわゆる」と言い、また「進歩的」の語に鉤括弧(かぎかっこ)をつけて留保の姿勢を示していますように、進歩的知識人(インテリゲンチャ)、進歩的文化人という呼称は、率直(ストレート)な褒め言葉として発生したのではありません。そうではなく、あきらかにちょっと嘲笑(からか)ってほら、ほら、あんな奇体(けったい)な、いい加減な徒輩(やから)がいるよ、と、目引き・袖引きする具合の呼吸で使われていたようです。

左翼用語では、未熟な党員や一般人を煽動する調子のいい喋り立てを、一服吹く、と言い慣わします。進歩的文化人という嘲り言葉は、ごく初歩の左翼的な演説に類する文章を書きちらして、どうだ俺様はススンデイルだろうと、ご機嫌で胸をそらしている連中を、陰で笑いものにするための、見下げた指示語として発生したのです。

ところが、この進歩的知識人、進歩的文化人という蔑称を、年月が経つうち勘違いして、逆に褒めそやし言葉であるかのように敬称として、尊称として受けとり、みずから進歩的文化人の代表を以て任じる道化(ピエロ)が現われるようになりました。それが結構お年をめした久野収なんですから、言葉というものはご本人の好みによって、いろいろに解釈されるものですね。

久野収の姿勢は堂々としていて、「ぼくのような進歩的インテリがだね」(昭和52年12月『諸君!』インタビュー「いま保守とは何か革新とは何か」)と言います。「進歩的インテリ」という言葉を100パーセント好い意味に解して、自分を秀れた存在と見なさなければ、こういう自讃の言葉を吐くことはできないでしょう。

さらに続けて久野収は、「ぼくは、終始一貫進歩的インテリなんだが」(同前)と念を押します。昂然とした羞恥心のかけらもないこの言立ては、世間にはインテリでない普通人が沢山うようよいて、自分はその人たちを指導する秀れた知能の持ち主であるという、強烈な自尊心に支えられているのでしょうね。

しかし久野収もまんざら馬鹿ではありませんから、自分たち進歩的文化人が持てはやされてばかりいるのではないこともよく知っています。これより6年前の対談(昭和46年5月)では、「ここ数年、ぼく自身を先頭に進歩的文化人が評判を落したのも」(『久野収対話史』2巻、マドラ出版、昭和63年6月30日刊、93頁)と認めました。

しかし、それだからますます頑張るぞ、という強硬な心意気なんでしょうね。

なにしろ金魚の糞のように小粒がたくさん連なっている進歩的文化人の大軍を、小手をかざして眺めるように見渡して、誰からも言われたわけではないのに、みずから進んで自分が「先頭」を切っているのだと言い立てる心臓は、相当なものです。何事につけても、人間は自分を高みにおくことで幸福になれるものなんですね。

では、なにゆえに久野収は自分が進歩的文化人の「先頭」を行く顕著な存在であると公言するだけの自信が持てたのでしょうか。ここに、いささか興味ぶかい証言があります。伊藤整の代表的な名論文が生まれたのは俺様のせいだぞという、伊藤整を前においての露骨な手柄話です。

  ぼくは、『中公』の戦後を代表する論文にはいった伊藤さんの「近
  代日本人の発想の諸形式」、『思想』の編集長がきていろいろ話を
  しているうちに、この問題で伊藤さんに書いてもらったらといって、
  示唆したわけです。
  (〈久野収対話集〉『思想史の周辺』人文書院、昭和47年11月1日刊、188頁)

普通、この種の内輪話は、編集当事者の立場のことも考えて、みだりに口外しない心得が言論界(ジャーナリズム)における常識ですが、久野収は、ぜひともこういう話題を記録に残しておきたかったのでしょう。

久野収における権勢の築き方 へつづく
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本史 古代編 《 客観志向の... | トップ | 不都合な真実 歴史編 《 原爆... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事