電脳筆写『 心超臨界 』

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( ゲーテ )

◆敗戦以来、日本は植民地的な状況にある

2024-07-24 | 05-真相・背景・経緯
§5-1 公職追放がアメリカの植民地・日本をつくった
◆敗戦以来、日本は植民地的な状況にある


最近、『一度も植民地になったことがない日本』という書物を目にした。しかし、私にいわせれば、日本が植民地状態に置かれた時期はあった。というよりは、今、そういう状態にある。敗戦以来、日本は植民地的な状況にあるといったら、驚く人も多いだろう。しかし、そのこと以上に私は、日本最大の国難は、敗戦後の日本がその状況の中で日本人としての誇りを失ったことにあると考えている。しかし、そのこと以上に私は、日本最大の国難は、敗戦後の日本がその状況の中で日本人としての誇りを失ったことにあると考えている。


◇敗戦以来、日本は植民地的な状況にある

『日本人論』
( 渡部昇一、扶桑社 (2016/7/2)、p16 )

最近、『一度も植民地になったことがない日本』という書物を目にした。しかし、私にいわせれば、日本が植民地状態に置かれた時期はあった。というよりは、今、そういう状態にある。敗戦以来、日本は植民地的な状況にあるといったら、驚く人も多いだろう。

しかし、そのこと以上に私は、日本最大の国難は、敗戦後の日本がその状況の中で日本人としての誇りを失ったことにあると考えている。

植民地にされても民族としての誇りを失わなかった国はたくさんある。それら多くの国々に思いを馳せれば、もしかしたら、現在の日本は「植民地以下」の状況にあるのではないかと思うときさえある。

アメリカは日本の占領政策として、日本という国の歴史を抹殺しようとした。日本人から、日本人としての誇りを根こそぎ奪うことが、当時彼らの最大で根本的な方針だったのである。

本来、こうした政策は、国家が占領状態から脱したときに消滅するはずのものだ。独立国としての地位を回復すれば、それとともに、誇りも回復されるべきだった。

ところが、占領下の7年間に、左翼系の学者が研究の場を席捲した。これも占領軍の政策から出たことだったが、彼らは、日本という国そのものを亡くしてしまおうという方向へ国民をリードしようとした。日本人でありながらなぜか。それは当時の幼稚な共産主義が、本気で世界革命なるものを信じていたからである。

当時、東京裁判という理不尽な裁判とともに、公職追放というこれまた理不尽極まりない政策があった。それにより、国家の中枢となるべき20万人以上の人々が、戦争協力者という名前を冠せられ追放された。その結果空いた重要なポストの大部分を占めたのが、占領軍の民生局にいたC・L・ケーディス(1906~96)やカナダ人ハーバート・ノーマン(1909~57)の眼鏡にかなった人々だった。しかも彼らが占めた地位は、大学教授やジャーナリストなど、長続きするような地位だった。

たとえば、矢内原忠雄(やないはらただお)(1893~1961)という人がいる。経済学博士だった彼は、戦前、反戦思想のかどで東京帝国大学(今の東京大学)教授の座を追われた。彼自身が発行していたキリスト教雑誌『通信』に掲載された「神よ、日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬って下さい」という言葉のために、事実上、東京帝国大学を去ったのである。天皇が建てた帝国大学の教壇にふさわしくないと認められたからである。

それが、戦後東京大学に復帰し、のちに日本の教育の最高峰である総長の地位にまで上り詰めた。マルクス主義者としての植民政策の権威者であり、無教会派のクリスチャンとしても知られる彼は、こうして、日本人に国家としての誇りを持ち得ない多くの自称エリートたちを生み出すことに貢献したのである。

また、東京大学と双璧をなす京都大学(当時の京都帝国大学)には、滝川事件で有名な刑法学者・滝川幸辰(たきがわゆきとき)(1891~1962)がいた。滝川事件とは、戦前、彼の著書『刑法講義』『刑法読本』に書かれた内乱罪などに関する記述が不穏当だとして、その改訂を文部省に求められ、それを拒否して大学を辞めた。これに抗議した法学部全教官が辞表を提出したという事件である。

彼はかねてから、「犯罪は国家の組織が悪いから出る」といった無政府主義的な言動が多く、この『刑法読本』もその点が問題になったのである。帝国大学という国が建てた大学で国家を否定する学説を主張したのだから当然であった。彼は大学を去って弁護士になったが、それはかまわなかった。しかし、彼もまた戦後、京都大学に復帰、のちに総長となった。彼と行動を共にした人たちも、戦後は私立大学の学長などの地位についた。

あるいは、都留重人(つるしげと)(1912~2006)は、アメリカの共産党の秘密党員だったといわれている人で、明らかにコミンテルン(=第三インターナショナル。レーニンによって作られた世界革命を目指す急進的な国際労働者組織)の一員だった前出のハーバート・ノーマンの盟友だった。その力で、一橋大学教授から、やはり学長にまでなった。

一橋大学経済研究所資料室には、「都留重人メモリアルコーナー」が設けられ、史料を常設展示している。今もなお、影響を与え続けているのである。

ここに挙げた人たちはほんの一つまみの例にすぎない。この人たちを復活させたのは、占領軍の民政局という「左翼の巣」であったことを忘れてはならない。こうした人々は、極端な言い方をすれば、日本という国を滅ぼしたいという隠微な欲求をもっていたと思われる人々だった。これらの人々が主要大学の主要な空いたポストを占めたということは、すなわち、その部下の教授たちもその弟子たちも同系の人物だということになる。

だから、教育界の大部分が反日的であり、日本の歴史や日本人のアイデンティティーに嫌悪感を示すメンタリティが生じるのに時間はかからなかった。

ジャーナリズムもまた同じ波にもまれた。たとえば、前出のハーバート・ノーマンは、軽井沢にいたカナダ人宣教師の子どもで、日本のことを知っていた。それでマッカーサー(1880~1964)に重用されたが、彼は鈴木安蔵(すずきやすぞう)(1904~83)をはじめとする日本の学者に憲法の草案を作らせた。

その草案にマッカーサー司令部が手を入れて、日本国憲法ができた。だから憲法のもとになるものは日本人が作ったという主張があったとしても、もとのところで糸を引いていたのがハーバート・ノーマンであることを考えれば、その実態はGHQ(占領軍総司令部)主導であったことは否定できない。

この草案作りに加わった人々の中に、のちに、新聞社や放送局の代表になった人物たちがいた。だから、ジャーナリズムもまた、日本の歴史や皇室に反感を、あるいは少なくとも好意をもたなかった人々に席捲された。

日本の精神に大きな影響を及ぼした元凶がここにあり、それこそ日本の危機の根幹だと私は考えているのである。
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