電脳筆写『 心超臨界 』

悲しみは二つの庭を仕切るただの壁にすぎない
( ハリール・ジブラーン )

◆「進歩的文化人」という名の国賊《 丸山眞男——国民を冷酷に二分する差別意識の権化(ごんげ) 》

2024-05-23 | 05-真相・背景・経緯
§4-4 戦後の戦争の敵の中にはスターリンの息のかかった共産主義者がいた
◆「進歩的文化人」という名の国賊《 丸山眞男——国民を冷酷に二分する差別意識の権化(ごんげ) 》


丸山眞男は、岩波文化と講談社文化、という謳(うた)い文句を種本(ネタ)にして、この並称を価値観念の油で揚(あ)げる料理法を発明したのです。すなわち、岩波文化の享受者を「本来のインテリゲンチャ」と呼んで持ちあげ、講談社文化の圏域に属する連中を「疑似インテリゲンチャ」と腐(くさ)して、思いっきり見下げる対位法を奏(かな)でたわけです。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p95 )
戦後民主主義の理論的指導者(リーダー)・丸山眞男(まるやままさお)への告発状
第4章 国民を冷酷に二分する差別意識の権化(ごんげ)

  丸山眞男
  大正3年生まれ。東京帝大卒。東大教授を経て、現・東大名誉教授。
  大衆をファシズムの担い手と断じる、「進歩的文化人」のリーダー。

  いわゆる戦後民主主義の理論的指導者(リーダー)として学界に絶大
  な威勢をふるった丸山眞男は、日本国民を「二つの類型」に峻別し
  ました。そして文化人や言論人(ジャーナリスト)や大学教授や東大
  生などは「本来のインテリ」であるが、独立自営業者など額(ひた
  い)に汗して働く国民の中堅層において、人びとを束(たば)ねる立
  場にある者は「疑似(ぎじ)インテリ」であり、この「亜(あ)インテ
  リ」こそ「日本におけるファシズム運動の担い手」であると弾劾し、
  「本来のインテリ」を全面的に免責しました。

■「本来のインテリ」と「疑似インテリ」という差別意識

丸山眞男の人間評価軸がくっきりと現われている一節です。

彼は、まず学生を第一と第二と二種の類型に分けます。第一種の学生は、これは駄目であると烙印(らくいん)を捺(お)されるわけですね。ついで彼は、「皆さん方」つまり東京大学の学生を第二種に数えて、無条件に嘉(よみ)します。

この思いきったふるいわけが、いずれ丸山眞男ご本人にどう降りかかってくるかについてはのちほど言及しましょう。

さて、学生から一般に話をもどして、なぜ、このような「二つの類型」区別が必要であったか、その理由が、次のように説き明かされます。

  わが国の場合ファシズムの社会的地盤となつているのはまさに前者
  (第一の類型)であります。第二のグループを本来のインテリゲン
  チャというならば、第一のグループは疑似インテリゲンチャ、乃至
  (ないし)は亜インテリゲンチャとでも呼ばれるべきもので、いわゆ
  る国民の声を作るのはこの亜インテリ階級です。
                            (64頁)

いついかなる時代においても、国民の組成におのずから幾重にも階層が生まれるのは、いたって自然の勢いです。わが国でも明治以来の社会常識として、知識人(インテリ)と庶民の並存という現象が観察されてきました。大正中期になると、高踏(こうとう)的知識人(インテリ)とを対照させる見方も行なわれるようになります。そういう角度からの社会観察を象徴する視座として生まれたのが「岩波文化と講談社文化」という、それ自体は中立的(ニュートラル)な語感を持つ言葉でした。

徳富蘇峰が大日本雄弁会講談社を「私設文部省」と讃(たた)えた頃の話です。

あえて繰り返しますけれど、国民がいくつかの階層に分かれるのはごく当たり前で、善(よ)いとか悪いとかの価値判断とは関係がありません。したがって「岩波文化と講談社文化」という一種の展望図は文化の多様性を表現した名文句であり、必ずしも講談社を貶(おとし)めるための悪口ではありませんでした。ところが今や丸山眞男は、岩波文化と講談社文化、という謳(うた)い文句を種本(ネタ)にして、この並称を価値観念の油で揚(あ)げる料理法を発明したのです。

すなわち、岩波文化の享受者を「本来のインテリゲンチャ」と呼んで持ちあげ、講談社文化の圏域に属する連中を「疑似インテリゲンチャ」と腐(くさ)して、思いっきり見下げる対位法を奏(かな)でたわけです。すなわち、観察されている社会的文化事象は一つであって二つではありません。

要は、その現実を中立的(ニュートラル)に見るか善玉・悪玉風の価値観念をもって臨むかの違いです。不幸なことに、丸山眞男は生得的に中立的(ニュートラル)な視座を持することのできない体質であるようです。その偏った資質から、まことにどぎつい褒(ほ)めたり、貶めたり、意地の悪い差別論法が生まれます。

「本来の」などという、この嫌らしい褒めそやしの囃(はや)し言葉を自分のことだと受けとることのできる人は、よほど傲慢か、あるいは底ぬけにお人好しの型(タイプ)でしょう。その「本来のインテリゲンチャ」は一律に善玉でありすべて完全に無罪なのです。そして一方「疑似」という用語に込められた限りなき見下し、軽蔑する冷酷な視線は、古今未曾有(みぞう)です。

夏目漱石には明治の実業家を罵(ののし)る癖がありましたけれど、敵視するそれら実業家の数はごくわずかでした。さらには、小説の中で登場人物がぼやいてみせるのですから、作品構成上のご愛嬌という意味もありました。しかし丸山眞男の場合は、事情が根本から異なります。
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