電脳筆写『 心超臨界 』

明日への最大の準備はきょう最善を尽くすこと
( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

◆世界でゆいつ愛国心を敵視する国 《 教育勅語批判の異常さ 》

2024-08-14 | 05-真相・背景・経緯
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する


GHQ占領下で開催された東京裁判により、日本はアジアを侵略した極悪非道の犯罪国家であるという烙印を押されました。こうした自虐史観が東京裁判によってもたらされたことから「東京裁判史観」と名付けられたのです。しかし東京裁判史観の嘘は裁判当時から明らかでした。当時、戦争は犯罪ではありません。そこで「平和に対する罪」という事後法を持ち出してA級戦犯を捏造し処刑したのです。1951年4月、東京裁判を仕掛けた張本人であるマッカーサーは米国上院の軍事外交合同委員会において「日本の戦いは自衛戦争だった」と証言しています。しかし東京裁判史観を否定するこの明白な事実を日本の公の機関は無視し続けたままです。



愛国心を奪われた国は滅亡の一途をたどる
( カダフィー大佐 )
Nations whose nationalism is destroyed are subject to ruin.
( Colonel Muhammar Quaddafi )

教育は世の中を変えるために使える最も強力な武器である
( ネルソン・マンデラ )
Education is the most powerful weapon which you can use to change the world.
( Nelson Mandela )


教育勅語の教材使用をめぐる義家弘介元文部科学省副大臣の発言に続いて、柴山昌彦文科相の発言に対し、産経新聞を除くほとんどのマスコミが一斉に激しく批判した。柴山文科相は就任記者会見で「現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で、道徳の授業などに使える分野が十分にある。普遍性を持っている部分がある」と述べた。これに対して10月5日付の社説で朝日新聞は「見識疑う」という見出しを付け、毎日新聞は「時代錯誤」と断じ「教育勅語は戦前の国家主義を支え、軍国主義を押し進める役割を果たした」と批判した。


教育勅語批判の異常さ――高橋史朗・麗澤大大学院特任教授
(「解答乱麻」産経新聞 H30(2018).11.14 )

教育勅語の教材使用をめぐる義家弘介元文部科学省副大臣の発言に続いて、柴山昌彦文科相の発言に対し、産経新聞を除くほとんどのマスコミが一斉に激しく批判した。柴山文科相は就任記者会見で「現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で、道徳の授業などに使える分野が十分にある。普遍性を持っている部分がある」と述べた。

これに対して10月5日付の社説で朝日新聞は「見識疑う」という見出しを付け、毎日新聞は「時代錯誤」と断じ「教育勅語は戦前の国家主義を支え、軍国主義を押し進める役割を果たした」と批判した。

教育勅語を「唯一絶対化」した過大視の過ちを厳しく反省する必要があるが、道徳規範として「普遍性を持っている部分がある」ことを全面否定する過小視もバランスを欠いている。

田中耕太郎(元文相)は、教育勅語の「古今ニ通シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)」らない人類普遍の道徳規範まで「保守反動視してはばからない憂うべき傾向」が戦後顕著になったことを憂いたが、教育勅語の道徳規範まで危険視するのは「不見識」である。

もちろん、起草者の意図に反して、教育勅語が政治上の命令の如(ごと)く扱われたことは厳しく反省しなければならない。

毎日新聞は「その内容の核心は、国の非常時には天皇のために命を懸けよ、と説いている点にある」と批判しているが、「義勇公に奉じ」というのは万国共通の規範であり、天皇を中心とする日本を守るという「公」のために勇気を奮うのは当然のことである。

教育勅語が軍国主義に悪用されたからといって、「普遍性を持っている部分がある」こと自体を否定するのは、国旗や国歌掲揚、国歌斉唱に反対するのと同じ感情論にすぎない。

歴史には光と影の両面があり、教育勅語と教育基本法が両立していた戦前と戦後の連続性を全面否定することは「歴史に対する欺瞞」であり、両極端なイデオロギーに捉われない、曇りのない目で客観的に光と影の両面を見直す必要がある。

教育勅語の教材使用に関して「教育基本法に反しない限りは、問題のない行為」と衆院内閣委員会で答弁した義家氏に対しても、マスコミは一斉に厳しく批判し、教育学関連学会、
日教組、全教等の教職員組合、出版労連などの労働組合等が連携して次々に反対声明を出した。

しかし、思考停止に陥った日本の教育学会や教職員組合等が繰り返し唱えてきた浅薄でステレオタイプな反対論は学問的検証を欠いた感情論にすぎない。

和辻哲郎は「教育勅語によって宣揚された道徳は、『古今中外』を通ずるところの普遍的に妥当なものであって、我が国民に特殊なものではない」と指摘(「危険思想を排す」『和辻哲郎全集』第22巻、岩波書店)。

また、唐沢富太郎は「形式的には封建倫理の勝利の如く見えて、その内容に於(お)いては近代的な社会道徳に相当な重点」が置かれ、この当時の思想的混乱を救済するものとして、「普遍不党の立場から『古今ニ通シテ謬ラス』『中外ニ施シテ悖ラ』ざるものとして渙発(かんぱつ)された」と指摘している(『教科書の歴史』創文社)。

こうした先行研究を吟味検討することなく、異論を一切許さないというのは、全体主義的な「言論統制」につながり、『新潮45』を休刊に追い込んだ異常な言論状況と共通している。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆日本兵のどこが悪者か――硫黄... | トップ | ◆井伏鱒二現象――「東京裁判史... »
最新の画像もっと見る

05-真相・背景・経緯」カテゴリの最新記事