§6 不都合な真実――東京裁判史観に縛られた日本
◆言論統制《 「大東亜戦争」という呼称を使わないNHK 》
録音が終わつたとき、担当の若いプロデューサーが、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」に変へてもらいひたいと、クレイムをつけた。「それはあなた個人の意見ですか」。「いえ、局では“大東亜戦争”といふ用語は禁止になつてゐるのです」。「それは困つたな。“太平洋戦争”では、あの頃の実感に添はないんですよ」。はじめは、そんな調子の、のんびりしたやりとりだつた。若いプロデューサーは、入局したばかりで、深い事情は知らない様子で、とにかく言ひ含められた規則だから守る、と言つてゐる口調だつた。
■「大東亜戦争か太平洋戦争か」――桶谷秀昭・文芸評論家
正論別冊 Extra.20『NHKよ、そんなに日本が憎いのか』
( 産経新聞出版 (2013/12/16)、p46 )
昭和59年6月の何日であったか、私はNHK放送局へ行って、「私の萬葉集」という30分くらゐのラヂオ放送の録音をとつたことがあつた。
「萬葉集」という古典をはじめて読んだのは、昭和18年、当時、国民学校と言つたが、今の小学校の6年生で、斉藤茂吉著『萬葉集』(岩波書店)をテキストに使つた。と言つても、生徒全員がこの本を買ったわけではなく、先生がこの本をテキストにして、説明をしながら読むのを聴くというかたちの授業で、本は買つても買はなくてもよかつた。
自由授業のやうなものだつたが、先生が、歴史や文学が好きだつたやうで、正課の修身の時間に、「萬葉集」を読んだといふ次第だつた。この授業は、固苦しい修身のかはりに、詩、文学の鑑賞といふ雰囲気があつて、心に残る楽しさがあつた。
しかし、昭和18年と言えば、2月に日本軍は死闘のすゑにガダルカナル島を撤退放棄し、以後ソロモン諸島において、米軍の反抗によつて撤退に次ぐ撤退を余儀なくされる戦局の悪化に直面しはじめた年である。
「萬葉集」と言へば、防人(さきもり)の歌である。
「おほきみのみことかしこみ磯にふりうのはらわたるちちははを置きて」の沈痛な声調が、さういう時局の中で、心に沁みた。
さういふことを思ひだして、私は放送局で話しはじめた。
「萬葉集をはじめてよんだのは、国民学校6年生のとき、大東亜戦争たけなはの昭和18年でした。……」
録音が終わつたとき、担当の若いプロデューサーが、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」に変へてもらいひたいと、クレイムをつけた。
「それはあなた個人の意見ですか」
「いえ、局では“大東亜戦争”といふ用語は禁止になつてゐるのです」
「それは困つたな。“太平洋戦争”では、あの頃の実感に添はないんですよ」
はじめは、そんな調子の、のんびりしたやりとりだつた。若いプロデューサーは、入局したばかりで、深い事情は知らない様子で、とにかく言ひ含められた規則だから守る、と言つてゐる口調だつた。
「それでは、念のため、上の方にたしかめてみます」
「さうしてください」
やがて戻ってきたプロデューサーは、言つた。
「やはり、だめだといふことです」
今度はやゝ口調が固くなつてゐた。私は若いプロデューサーと口論したくなかつた。しかし、この禁止令は根が深いことがわかつたので、一層、妥協できなくなつた。
プロデューサーは、やがて、もう一度、上の意見をたしかめに出て行つた。しかし、今度も、上の意見は変はらないといふ。
私はプロデューサーが気の毒になつた。と同時に、上の方にたいして腹が立ちはじめた。妥協案は、事柄の性質からして、ありえない。録音ぜんたいを却下するなら、それもやむを得ない。
「それでは、私の考えへも変はりません」
と言つて、局を出た。
放送日にラヂオを聴いたら、問題の箇処は次のやうになつてゐた。
「萬葉集をはじめてよんだのは、国民学校6年生のとき、……戦争たけなはの昭和18年でした。」
◆言論統制《 「大東亜戦争」という呼称を使わないNHK 》
録音が終わつたとき、担当の若いプロデューサーが、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」に変へてもらいひたいと、クレイムをつけた。「それはあなた個人の意見ですか」。「いえ、局では“大東亜戦争”といふ用語は禁止になつてゐるのです」。「それは困つたな。“太平洋戦争”では、あの頃の実感に添はないんですよ」。はじめは、そんな調子の、のんびりしたやりとりだつた。若いプロデューサーは、入局したばかりで、深い事情は知らない様子で、とにかく言ひ含められた規則だから守る、と言つてゐる口調だつた。
■「大東亜戦争か太平洋戦争か」――桶谷秀昭・文芸評論家
正論別冊 Extra.20『NHKよ、そんなに日本が憎いのか』
( 産経新聞出版 (2013/12/16)、p46 )
昭和59年6月の何日であったか、私はNHK放送局へ行って、「私の萬葉集」という30分くらゐのラヂオ放送の録音をとつたことがあつた。
「萬葉集」という古典をはじめて読んだのは、昭和18年、当時、国民学校と言つたが、今の小学校の6年生で、斉藤茂吉著『萬葉集』(岩波書店)をテキストに使つた。と言つても、生徒全員がこの本を買ったわけではなく、先生がこの本をテキストにして、説明をしながら読むのを聴くというかたちの授業で、本は買つても買はなくてもよかつた。
自由授業のやうなものだつたが、先生が、歴史や文学が好きだつたやうで、正課の修身の時間に、「萬葉集」を読んだといふ次第だつた。この授業は、固苦しい修身のかはりに、詩、文学の鑑賞といふ雰囲気があつて、心に残る楽しさがあつた。
しかし、昭和18年と言えば、2月に日本軍は死闘のすゑにガダルカナル島を撤退放棄し、以後ソロモン諸島において、米軍の反抗によつて撤退に次ぐ撤退を余儀なくされる戦局の悪化に直面しはじめた年である。
「萬葉集」と言へば、防人(さきもり)の歌である。
「おほきみのみことかしこみ磯にふりうのはらわたるちちははを置きて」の沈痛な声調が、さういう時局の中で、心に沁みた。
さういふことを思ひだして、私は放送局で話しはじめた。
「萬葉集をはじめてよんだのは、国民学校6年生のとき、大東亜戦争たけなはの昭和18年でした。……」
録音が終わつたとき、担当の若いプロデューサーが、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」に変へてもらいひたいと、クレイムをつけた。
「それはあなた個人の意見ですか」
「いえ、局では“大東亜戦争”といふ用語は禁止になつてゐるのです」
「それは困つたな。“太平洋戦争”では、あの頃の実感に添はないんですよ」
はじめは、そんな調子の、のんびりしたやりとりだつた。若いプロデューサーは、入局したばかりで、深い事情は知らない様子で、とにかく言ひ含められた規則だから守る、と言つてゐる口調だつた。
「それでは、念のため、上の方にたしかめてみます」
「さうしてください」
やがて戻ってきたプロデューサーは、言つた。
「やはり、だめだといふことです」
今度はやゝ口調が固くなつてゐた。私は若いプロデューサーと口論したくなかつた。しかし、この禁止令は根が深いことがわかつたので、一層、妥協できなくなつた。
プロデューサーは、やがて、もう一度、上の意見をたしかめに出て行つた。しかし、今度も、上の意見は変はらないといふ。
私はプロデューサーが気の毒になつた。と同時に、上の方にたいして腹が立ちはじめた。妥協案は、事柄の性質からして、ありえない。録音ぜんたいを却下するなら、それもやむを得ない。
「それでは、私の考えへも変はりません」
と言つて、局を出た。
放送日にラヂオを聴いたら、問題の箇処は次のやうになつてゐた。
「萬葉集をはじめてよんだのは、国民学校6年生のとき、……戦争たけなはの昭和18年でした。」