電脳筆写『 心超臨界 』

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( アントン・チェーホフ )

歴史を裁く愚かさ 《 政治的失敗を道徳的罪として教えるな――西尾幹二 》

2024-05-10 | 04-歴史・文化・社会
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悪いのはすべて日本人とされている。そして本来は戦争をしたくない平和の使徒・アメリカが仕方なく重い腰をあげて日本を懲らしめる正義の戦いを受けて立ったという文脈になっているのだが、これはどう考えてもあまり公平な話とはいえないだろう。ともかく当時の国際情勢を全体として記述し、自国の過誤と暴走をきちんと述べることはもとよりだが、他国の悪意と干渉をも記し、相互関係をできるだけ客観的に説明することがそれにも増して大切なことだろう。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p27 )
第1章 教科書問題を考える前提
1 歴史の分からない歴史教科書

◆政治的失敗を道徳的罪として教えるな

しかしアジアと太平洋における先の大戦の場合には、時代が進んだ分だけ、事情が少し複雑になる。

日本は積極的に膨張し拡大する意図を持っていたし、また自らそうした。単に独立を維持するための軍事的防衛というだけでは説明のつかない面がある。資本主義が世界的に新しい段階に達し、経済的要因が増大した。日本はここでも先発組の欧米諸国の方式をそっくりそのまま模倣し、彼らが先に定めたルールに従って膨張発展を求めていくしかなかった。

当時、近代化に成功した国民国家のなかで植民地経営に無縁な国はひとつもなかった。しかし明治年間にアジア・アフリカはおおむね欧米の勢力下に置かれてしまい、第一次大戦(大正3~7年)以後には、日本のつけ入る余地は少なかった。

日本は先進国に比べればはるかに慎ましやかな野望を掲げたにすぎなかったが、同じような帝国主義的膨張政策を実行し、残り少ない植民地を先進列強と争ったことだけは紛れもない。それが戦争というかたちに拡大したことも紛れもない。日本は日露戦争後のナショナリズムに支えられて、国民的支持の下に、この政策を実行したのである。

しかしながら、それは帝国主義時代における各国民の自己表現の形式でもあったので、現在の基準でとやかく言ってもあまり意味がない。当時はガットもウルグアイラウンドもなかった。野放しの経済競争は、各国の死活に関わる生存競争でもあったのだ。

しかるに教科書では、いわゆる帝国主義についてはどれも判で押したようにわずか1ページていどの範囲内に、現在の基準からみてすべて「悪」であったという見地で述べられている。

中学で用いられるのは世界史と日本史が区別されていない「歴史教科書」である以上、平易なことばであの時代全体の国際環境を述べ、日本をその中に置いて、日本の政策と行動を――なにも全面弁護しなくてもよいが――できるだけ公平に説明することは可能だし、また必要なのではないか。

植民地獲得競争において、先発組の欧米諸国は自らの支配地域を相互に認め合い、あらかじめ利益を確保してしまうと、戦争と平和のルールを変えた。後発の日本はその新しい状況にうまく適応できず、己れを恃(たの)む自尊の念がつよくなっていたこともあって、外交的政治的に失敗をくりかえしていくことになる。

が、ワシントン会議を経て日米開戦にいたるプロセスは、日本にも野望があると同時に、アメリカにも西欧諸国にも野望があり、そして中国にも各政治勢力に相応のエゴイズムがあって、内部対立をかもし、それが三つ巴、四つ巴になって絡み合って展開していく過程だった。この歴史全体の姿は教科書ではまったく描かれていない。

悪いのはすべて日本人とされている。そして本来は戦争をしたくない平和の使徒・アメリカが仕方なく重い腰をあげて日本を懲らしめる正義の戦いを受けて立ったという文脈になっているのだが、これはどう考えてもあまり公平な話とはいえないだろう。

ともかく当時の国際情勢を全体として記述し、自国の過誤と暴走をきちんと述べることはもとよりだが、他国の悪意と干渉をも記し、相互関係をできるだけ客観的に説明することがそれにも増して大切なことだろう。

子供に政治的失敗を失敗として教えることは今後の教訓になる。政治的失敗を道徳的罪として教えることは、自己誤解につながり、ひいては世界と自己との関係を測る認識の目を狂わせる。

そう思っていたとき、ふと気づいたのは、今度の検定7教科書の特異な新しさは次の点だということだった。

私の時代の「戦後教科書」は満州事変以後の日本の政策と行動には批判的に書いていた。けれども日清・日露の両大戦には必然性を認めていた。当時の国際環境の下での国民的努力と苦難を評価していた。

しかるに、今度の検定7教科書では日清・日露の両大戦をまるごと否定し、明治から以後を罪悪の歴史とみなし、先の大戦で犯した悪にまっすぐにつながる「前史」としていることだった。なるほど、ここにははっきりとした相違点が認められる。
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