電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
台湾では、防疫に向かって国民の団結力が発揮されるきっかけになった出来事があった。武漢からチャーター機で帰国した台湾人のうち、「一人が感染していた」ことが確認された時のことだ。台湾は中国から嫌がらせを受け、チャーター機の武漢入りをなかなか中国に認めてもらえなかった。しかし、日本やアメリカなどの第1便から遅れること5日、2月3日にやっと迎えることができたのだ。
◆台湾人がひとつになった「瞬間」
『疫病2020』
( 門田隆将、産経新聞出版 (2020/6/30)、p182 )
チャーター機の第1便は3日深夜に桃園国際空港に到着し、台湾人247人が無事、帰国を果たした。このうち3人に発熱やのどの違和感などの症状があり、そのまま入院している。
翌4日午後8時、記者会見で陳時中・衛生福利部長の口から3人のうち1人が「陽性」であったことが告げられた。陳は、帰国便到着以来一睡もせず、検査結果を待っていた。その残念な結果を国民に報告した時の言葉がその後の語り草となったのだ。
「皆さん、残念ながら陽性者が1人増えてしまいました。皆さんも心配だと思います。しかし、私はこの結果をよかった、と思っています。なぜならこの人の命を私たちは救うことができるからです。私たちが一生懸命、同胞を武漢から連れ帰そうとしたのは、ほかでもありません。陽性となって、本当なら武漢で死んでしまったかもしれない同胞を連れ帰ることによって、その命を助けることができるかもしれないからです」
そう語りながら、陳は涙をティッシュで拭った。堪えきれず、溢れ出した涙だった。
「たしかに感染者が増えるということは望ましくないことです。しかし、それは台湾に帰すことでこの人の命を救える可能性が高くなったということです。私たち医療界が全力を尽くして、この人を助けます。患者の命を救うことができるとしたら、これほど素晴らしいことはありません。私たちはそのためにチャーター機で同胞を台湾に連れ帰ったのです。皆さん、そのことをどうか喜んでください」
説明の途中で何度も声を詰まらせ、マイクを別の登壇者に渡したりしながら、陳は会見を終えた。ずっと起き続けだっただけに、目が充血し、憔悴(しょうすい)しきった陳の表情が台湾人の瞼(まぶた)に焼きついた。
(そうだ。私たちはこれで“失われるかもしれない命”を助けられるんだ)
そのことをダイレクトに伝える陳の言葉だった。
反響は大きかった。衛生福利部の中央感染症指揮センターのフェイスブックに応援と感動のメッセージが殺到した。
あっという間に「いいね!」が20万件を超え、コメントも10万件以上寄せられた。そこには、自分の気持ちを吐露する台湾人のコメントが数多くあった。
「私も泣いてしまいました。陳さん、ありがとう」
「皆にただ健康でいて欲しいと私も祈っていました。会見を見て泣きました」
「“泣いた罰”として、どうか休んでください!」
24時間一睡もせずに検査結果を見届け、そのまま国民への報告の会見に臨み、思わず涙をこぼした大臣。それは、台湾人が“防疫”に向かってひとつになった瞬間だった。
私はこうツィートした。
2月5日(水)
武漢から同胞を無事帰還させた台湾。一睡もせず検査結果を見守っ
た厚労大臣の涙は国民の為に必死で働くことの責務の重さを教えて
くれる。中国を「民主主義国家」と言ってみたり、自党に有利な新
聞だけ「評価」してみたりする政治家とは全く違う。日本の政治家
は原点を思い起こし新型肺炎と全力で闘え。
ちょうど国民民主党の原口一博議員が中国のことを「中国も民主主義国家です。彼らにも人権を守る姿勢があります」とツィートして炎上したり、立憲民主党の安住淳国対委員長が衆議院会派の控室のドアに、新聞各紙を批評し、蛍光ペンで「くず0点」や、「出入り禁止」などと書き込んで貼り出し、顰蹙(ひんしゅく)を買った時期と重なっていた。
(一人の国民も死なせてたまるか)
陳時中の凄まじい気迫と思いは、確実に台湾人に伝わった。武漢便から感染者が出た時の涙の会見で語られた中身を、私は日本の政治家に頭に叩き込んで欲しいと思う。それが「命を守る責務を負った人間」の姿だからだ。
陳もまた立法委員ではなく、本来は歯科医師である。
41歳で歯科医師会全国連合会の理事長になった陳は、台湾の歯科治療の「保険制度」の推進・確立に尽力した人物だ。
その後、行政院衛生署副署長、総統府国策顧問などを経て、2017年2月に衛生福利部長として入閣した。閣僚になった以上は政治家だが、日本とはまったく質の違う政治家なのである。
陳の父親は、台湾で有名な法学者だった。日本統治時代の台湾で“リップンチェンシン(日本精神)”を身につけ、「公」に対する意識が非常に強い人物だったという。
父のことについて、陳はインタビューでこう語っている。
「私はかつて結果論者でした。結果こそすべてである、と思っていました。しかし、父は違いました。そこまでいかに地道に歩んできたのか、という“過程”の方を重んじたのです。私が父から教えられたのは“誠実”ということの大切さでした」
人々から「鉄人大臣」という呼び名を得た台湾の英雄が、日本統治時代の父の生きざまを胸に生きていることは、台湾でのかつての日本人の凄さを伝えてくれるものかもしれない。
台湾総督府の民政局長として台湾での「公衆衛生」を確立させた後藤新平の偉業を説明するまでもなく、日本人から清潔さと勤勉性を学んだ台湾の人々は、今ではその日本より遥かに上をいく防疫体制をつくり上げたのである。
これからは、日本が「台湾から学ぶ時代」なのだ。私は、そのことに深い感慨を覚えざるを得なかった。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
[ ウィキペディア ]
台湾では、防疫に向かって国民の団結力が発揮されるきっかけになった出来事があった。武漢からチャーター機で帰国した台湾人のうち、「一人が感染していた」ことが確認された時のことだ。台湾は中国から嫌がらせを受け、チャーター機の武漢入りをなかなか中国に認めてもらえなかった。しかし、日本やアメリカなどの第1便から遅れること5日、2月3日にやっと迎えることができたのだ。
◆台湾人がひとつになった「瞬間」
『疫病2020』
( 門田隆将、産経新聞出版 (2020/6/30)、p182 )
チャーター機の第1便は3日深夜に桃園国際空港に到着し、台湾人247人が無事、帰国を果たした。このうち3人に発熱やのどの違和感などの症状があり、そのまま入院している。
翌4日午後8時、記者会見で陳時中・衛生福利部長の口から3人のうち1人が「陽性」であったことが告げられた。陳は、帰国便到着以来一睡もせず、検査結果を待っていた。その残念な結果を国民に報告した時の言葉がその後の語り草となったのだ。
「皆さん、残念ながら陽性者が1人増えてしまいました。皆さんも心配だと思います。しかし、私はこの結果をよかった、と思っています。なぜならこの人の命を私たちは救うことができるからです。私たちが一生懸命、同胞を武漢から連れ帰そうとしたのは、ほかでもありません。陽性となって、本当なら武漢で死んでしまったかもしれない同胞を連れ帰ることによって、その命を助けることができるかもしれないからです」
そう語りながら、陳は涙をティッシュで拭った。堪えきれず、溢れ出した涙だった。
「たしかに感染者が増えるということは望ましくないことです。しかし、それは台湾に帰すことでこの人の命を救える可能性が高くなったということです。私たち医療界が全力を尽くして、この人を助けます。患者の命を救うことができるとしたら、これほど素晴らしいことはありません。私たちはそのためにチャーター機で同胞を台湾に連れ帰ったのです。皆さん、そのことをどうか喜んでください」
説明の途中で何度も声を詰まらせ、マイクを別の登壇者に渡したりしながら、陳は会見を終えた。ずっと起き続けだっただけに、目が充血し、憔悴(しょうすい)しきった陳の表情が台湾人の瞼(まぶた)に焼きついた。
(そうだ。私たちはこれで“失われるかもしれない命”を助けられるんだ)
そのことをダイレクトに伝える陳の言葉だった。
反響は大きかった。衛生福利部の中央感染症指揮センターのフェイスブックに応援と感動のメッセージが殺到した。
あっという間に「いいね!」が20万件を超え、コメントも10万件以上寄せられた。そこには、自分の気持ちを吐露する台湾人のコメントが数多くあった。
「私も泣いてしまいました。陳さん、ありがとう」
「皆にただ健康でいて欲しいと私も祈っていました。会見を見て泣きました」
「“泣いた罰”として、どうか休んでください!」
24時間一睡もせずに検査結果を見届け、そのまま国民への報告の会見に臨み、思わず涙をこぼした大臣。それは、台湾人が“防疫”に向かってひとつになった瞬間だった。
私はこうツィートした。
2月5日(水)
武漢から同胞を無事帰還させた台湾。一睡もせず検査結果を見守っ
た厚労大臣の涙は国民の為に必死で働くことの責務の重さを教えて
くれる。中国を「民主主義国家」と言ってみたり、自党に有利な新
聞だけ「評価」してみたりする政治家とは全く違う。日本の政治家
は原点を思い起こし新型肺炎と全力で闘え。
ちょうど国民民主党の原口一博議員が中国のことを「中国も民主主義国家です。彼らにも人権を守る姿勢があります」とツィートして炎上したり、立憲民主党の安住淳国対委員長が衆議院会派の控室のドアに、新聞各紙を批評し、蛍光ペンで「くず0点」や、「出入り禁止」などと書き込んで貼り出し、顰蹙(ひんしゅく)を買った時期と重なっていた。
(一人の国民も死なせてたまるか)
陳時中の凄まじい気迫と思いは、確実に台湾人に伝わった。武漢便から感染者が出た時の涙の会見で語られた中身を、私は日本の政治家に頭に叩き込んで欲しいと思う。それが「命を守る責務を負った人間」の姿だからだ。
陳もまた立法委員ではなく、本来は歯科医師である。
41歳で歯科医師会全国連合会の理事長になった陳は、台湾の歯科治療の「保険制度」の推進・確立に尽力した人物だ。
その後、行政院衛生署副署長、総統府国策顧問などを経て、2017年2月に衛生福利部長として入閣した。閣僚になった以上は政治家だが、日本とはまったく質の違う政治家なのである。
陳の父親は、台湾で有名な法学者だった。日本統治時代の台湾で“リップンチェンシン(日本精神)”を身につけ、「公」に対する意識が非常に強い人物だったという。
父のことについて、陳はインタビューでこう語っている。
「私はかつて結果論者でした。結果こそすべてである、と思っていました。しかし、父は違いました。そこまでいかに地道に歩んできたのか、という“過程”の方を重んじたのです。私が父から教えられたのは“誠実”ということの大切さでした」
人々から「鉄人大臣」という呼び名を得た台湾の英雄が、日本統治時代の父の生きざまを胸に生きていることは、台湾でのかつての日本人の凄さを伝えてくれるものかもしれない。
台湾総督府の民政局長として台湾での「公衆衛生」を確立させた後藤新平の偉業を説明するまでもなく、日本人から清潔さと勤勉性を学んだ台湾の人々は、今ではその日本より遥かに上をいく防疫体制をつくり上げたのである。
これからは、日本が「台湾から学ぶ時代」なのだ。私は、そのことに深い感慨を覚えざるを得なかった。