電脳筆写『 心超臨界 』

成功はそれを得るために捨てなければならなかったもので評価せよ
( ダライ・ラマ )

安土・桃山文化は、茶道を中心にした産業振興政策

2024-11-16 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
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織田信長は、「土地を給与として与えている限り、やがて限界がくる」と考えた。では、土地の代わりに何を与えるべきか。この頃、堺の商人から茶道を習っていた信長は、茶道で使われる諸道具に、それぞれ名品があることを知る。同時に、茶会の開催権が非常に重要視されていることも知る。やがて信長は、茶道具、あるいは茶会の開催権を、ひとつのパテントとして、土地の代わりに与え始めた。その結果、大名たちの価値観は大きく転換することになる。

堺屋太一さんは、1980年代以降、人間の知恵で創造する価値が、経済成長と企業利益の主要な源泉になる<a href="http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/de2061c58c39d345035d7823a3fec025" target="_blank">知価社会</a>がはじまったという。この定義に従えば、安土・桃山時代にすでに知価革命が起こり、経済の高度成長が達成されたことになる。


◆安土・桃山文化は、茶道を中心にした産業振興政策

<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569553133/kokorowachori-22" target="_blank">『男の磨き方――歴史人物にみる人生の極意』</a>
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( 童門冬ニ、PHP研究所 (1996/9/1)、p186 )

千利休は日本のルネッサンスといわれる桃山時代に、茶道を通じて日本精神界の最高峰に達したが、かれに最初にこの道を開いたのは、実は織田信長である。

織田信長のつくり出した「安土文化」と、豊臣秀吉のつくり出した「桃山文化」とは、それぞれ「茶の道」を軸にした文化だ。文化といっても、実はこの二つは茶道文化を中心にした産業振興政策だといってもいいだろう。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の天下人(てんかびと)が、日本で実現したのは、何といっても戦国時代を終わらせて、日本に平和社会をもたらしたことである。これは、かれら三人が、同時代に生きていた戦国民衆の切実なニーズを捉えたからだ。

織田信長が茶道を経営政策の中心に置いたのには、もうひとつ理由があった。というのは、それまでの戦国大名の給与制度が、すべて「土地」だったからである。それは給与の単位が「石(こく)」という名称によって示されるごとく、米の収穫量をそのままモノサシにして土地を与えていた。しかし、日本列島は狭い。限りがある。天下人の道を進むにしたがって、信長は、「土地を給与として与えている限り、やがて限界がくる」と考えた。

では、土地の代わりに何を与えるべきか。信長は、この頃しきりに接触していた堺の商人から茶の道を習った。同時に、茶道で使われる諸道具に、それぞれ名品があるのを知った。同時に、たかが茶の会と思うような茶会の開催権が、非常に重要視されていることを知った。信長は、「これだ」と思った。

やがてかれは、茶道具、あるいは茶会の開催権を、ひとつのパテントとして、土地の代わりに与えることをおぼえた。大名たちは、これにまんまとひっかかった。だから、信長が手柄を立てた大名に、「おい、土地をやろう」といっても、大名たちは首を横に振った。そして「土地はいりませんから、代わりにあの名器をください」とか、「茶会の開催権を認めてください」などというようになった。

いってみれば、これは、大名たちの価値観が大きく転換したということである。つまり、土地から茶道というソフトな文化に価値を見出したということだ。信長の作戦は当たった。

そして、これを継承したのが豊臣秀吉である。秀吉は、茶道をさらにポピュラー化しようとした。かれが有名な北野の茶会を開いたときには、広く庶民にも「欠けた茶碗でもいい、煎じた茶でもいい。何でもいいから持っているものを持って、この茶会にやって来い」と呼びかけた。

この、信長・秀吉二人の天下人による茶道奨励は、産業政策に発展した。つまり、茶を中心にして、建築様式が変わり、数奇屋づくりの茶室などを含んだ住宅が建てられるようになった。庭づくりが盛んになった。植樹が盛んになった。花の栽培も盛んになった。書画骨董が盛んになった。石に価値が出た。服装が変った。酒が清酒になった。高級な料理が普遍化した。これによって、一斉に内需が高まり、経済は高度成長した。安土・桃山時代は、日本でもまれな経済の高度成長期であった。
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