電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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四十すぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、自己のみの責任になる、というのである。たしかに四十歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように職業に関係した顔が後天的に整ってくる。また、次元の低いところでは暴力団は暴力団らしい、強盗は強盗らしい顔になってくる。時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、そういうのに気品のある面は一つもない。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p35 )
第2章 人品骨柄の人間学
◆顔は精神と肉体の顕微鏡
「人を見る明」の第一は何か、というと「人相」である。
第二次大戦の始まる直前、安岡正篤がドイツに遊び、むこうの学者たちと話し合った。
その中に医大の皮膚科の医者がいて、「うちの大学では日本や中国の人相学の研究がさかんで人相に関する文献を随分と集めた」というので、「何故か」ときいたら、驚くべき答えが返ってきた。
「人間の顔は全身の神経の末端、過敏点で埋まっている。この過敏点を結ぶと過敏線となるから、人相をみるということは、その人間の精神状態、健康状態を顕微鏡でのぞくようなものだ」
日本でも「お前の顔にちゃんと書いてある」とよくいうが、そういわれてみると、顔というものは、いくら表面を繕っても、本当のことがすべて出ているわけで、ごまかしのきかぬものである。
全く、その通りで、人間には精神というものがある。この精神を磨いて、ある心境に達すると、その精神の輝きが自ずと顔にあらわれる。そうなると、醜男(ぶおとこ)が醜男でなくなる。だから、精神の鍛錬を怠っていない人間の顔というものは、何処か違っている。5百人、千人の中にまじっていても、すぐにわかるものである。
有名な話がある。
アメリカ大統領のリンカーンに友人がある人物を推せんしたところが、いっこうにとりあげようとしない。
無視されたと思った友人が「あれほどの人材を何故、君のブレーンとしないのか」となじると、リンカーンは「あの男の面(つら)が気に入らぬ」と答えた。
一層、頭へきた友人が「大統領ともあろうものが、面構えくらいで、人物をとやかくいうのか」とつめよると、リンカーンは言下にいってのけた。
“Man over forty is responsible for his face”
〈人間、四十すぎたら、その面に責任をもて〉
四十すぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、自己のみの責任になる、というのである。たしかに四十歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように職業に関係した顔が後天的に整ってくる。また、次元の低いところでは暴力団は暴力団らしい、強盗は強盗らしい顔になってくる。時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、そういうのに気品のある面は一つもない。
そういえば、シェークスピアにも「神はお前に一つの顔を与え給うた。ところが、お前は自分で別の顔につくり直した」という味な台詞があった。
また、北宋の詩人、蘇東坡(そとうば)と並び称せられた文人で、日本では「東坡(とうば)、山谷(さんこく)、味噌、醤油」と親しまれた黄山谷の一言がいい。
士大夫、三日、書ヲ読マザレバ、則チ、理義、胸中ニ交ラズ、便(すなわ)チ覚ユ、面貌(めんぼう)、憎ベク、語言、味ナキヲ。
人間、三日も聖賢の書を読まぬと、理義の理はものごとの法則、義は行動を決定する道徳的原理で、そういう人生の真理がインプットしないために人間的意味における哲理、哲学が血となり、肉となって体を循環しないからいきおい、面相も悪くなるし、コクのある言葉も吐けなくなる。
例えば、金は掃いて捨てるほどもっているが、何とかして、それ以上に貯めたい。ごまかしてでも金儲けしたい、と朝から晩まで考えている人間は、たしかにそのことが顔つきにまで現われてくる。
第一、眼に落ちつきがなく、瞳に冷酷な光が宿り、雰囲気に和やかさがなく、誰もがそこへよりつかなくなる。そんな主人をもつ家庭はひんやりと冷たい。
初めて訪問した家の玄関に立った途端に〈嫌な家だな〉と感ずることがある。「和気藹々(わきあいあい)」とか「和気満堂(わきまんどう)」という雰囲気が全くないのだ。そういうところの主人は、大体、人相もよろしくない。
たしかに黄山谷の指摘する如く、本を読んで考えた人間と全く読書の習慣のない者とでは明らかに顔がちがう。
小泉信三は「読書家が精神を集中して細字をみることが、その眼に特殊の光を生ぜしめ、これが読書家の顔をつくるのだ」といったが、あるいはそうかもしれない。しかし、眼光だけに限らない。偉大な作家、思想家の大著を潜心、熟読玩味することは、人をして別人たらしめる。それが人相に現われないわけがない。小島直記は「文字で心を洗い、心のノミで顔を彫る」とよく書くが、その文字とは『論語』であり『孟子』であり、『言志四録』であり、人生の原理原則を記した古典類である。この反対に下品で空疎なポルノ週刊誌ばかり読んでいると、人格も自ら低劣となり、顔も卑しくなってくる。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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四十すぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、自己のみの責任になる、というのである。たしかに四十歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように職業に関係した顔が後天的に整ってくる。また、次元の低いところでは暴力団は暴力団らしい、強盗は強盗らしい顔になってくる。時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、そういうのに気品のある面は一つもない。
『人間学』
( 伊藤肇、PHP研究所 (1986/05)、p35 )
第2章 人品骨柄の人間学
◆顔は精神と肉体の顕微鏡
「人を見る明」の第一は何か、というと「人相」である。
第二次大戦の始まる直前、安岡正篤がドイツに遊び、むこうの学者たちと話し合った。
その中に医大の皮膚科の医者がいて、「うちの大学では日本や中国の人相学の研究がさかんで人相に関する文献を随分と集めた」というので、「何故か」ときいたら、驚くべき答えが返ってきた。
「人間の顔は全身の神経の末端、過敏点で埋まっている。この過敏点を結ぶと過敏線となるから、人相をみるということは、その人間の精神状態、健康状態を顕微鏡でのぞくようなものだ」
日本でも「お前の顔にちゃんと書いてある」とよくいうが、そういわれてみると、顔というものは、いくら表面を繕っても、本当のことがすべて出ているわけで、ごまかしのきかぬものである。
全く、その通りで、人間には精神というものがある。この精神を磨いて、ある心境に達すると、その精神の輝きが自ずと顔にあらわれる。そうなると、醜男(ぶおとこ)が醜男でなくなる。だから、精神の鍛錬を怠っていない人間の顔というものは、何処か違っている。5百人、千人の中にまじっていても、すぐにわかるものである。
有名な話がある。
アメリカ大統領のリンカーンに友人がある人物を推せんしたところが、いっこうにとりあげようとしない。
無視されたと思った友人が「あれほどの人材を何故、君のブレーンとしないのか」となじると、リンカーンは「あの男の面(つら)が気に入らぬ」と答えた。
一層、頭へきた友人が「大統領ともあろうものが、面構えくらいで、人物をとやかくいうのか」とつめよると、リンカーンは言下にいってのけた。
“Man over forty is responsible for his face”
〈人間、四十すぎたら、その面に責任をもて〉
四十すぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、自己のみの責任になる、というのである。たしかに四十歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように職業に関係した顔が後天的に整ってくる。また、次元の低いところでは暴力団は暴力団らしい、強盗は強盗らしい顔になってくる。時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、そういうのに気品のある面は一つもない。
そういえば、シェークスピアにも「神はお前に一つの顔を与え給うた。ところが、お前は自分で別の顔につくり直した」という味な台詞があった。
また、北宋の詩人、蘇東坡(そとうば)と並び称せられた文人で、日本では「東坡(とうば)、山谷(さんこく)、味噌、醤油」と親しまれた黄山谷の一言がいい。
士大夫、三日、書ヲ読マザレバ、則チ、理義、胸中ニ交ラズ、便(すなわ)チ覚ユ、面貌(めんぼう)、憎ベク、語言、味ナキヲ。
人間、三日も聖賢の書を読まぬと、理義の理はものごとの法則、義は行動を決定する道徳的原理で、そういう人生の真理がインプットしないために人間的意味における哲理、哲学が血となり、肉となって体を循環しないからいきおい、面相も悪くなるし、コクのある言葉も吐けなくなる。
例えば、金は掃いて捨てるほどもっているが、何とかして、それ以上に貯めたい。ごまかしてでも金儲けしたい、と朝から晩まで考えている人間は、たしかにそのことが顔つきにまで現われてくる。
第一、眼に落ちつきがなく、瞳に冷酷な光が宿り、雰囲気に和やかさがなく、誰もがそこへよりつかなくなる。そんな主人をもつ家庭はひんやりと冷たい。
初めて訪問した家の玄関に立った途端に〈嫌な家だな〉と感ずることがある。「和気藹々(わきあいあい)」とか「和気満堂(わきまんどう)」という雰囲気が全くないのだ。そういうところの主人は、大体、人相もよろしくない。
たしかに黄山谷の指摘する如く、本を読んで考えた人間と全く読書の習慣のない者とでは明らかに顔がちがう。
小泉信三は「読書家が精神を集中して細字をみることが、その眼に特殊の光を生ぜしめ、これが読書家の顔をつくるのだ」といったが、あるいはそうかもしれない。しかし、眼光だけに限らない。偉大な作家、思想家の大著を潜心、熟読玩味することは、人をして別人たらしめる。それが人相に現われないわけがない。小島直記は「文字で心を洗い、心のノミで顔を彫る」とよく書くが、その文字とは『論語』であり『孟子』であり、『言志四録』であり、人生の原理原則を記した古典類である。この反対に下品で空疎なポルノ週刊誌ばかり読んでいると、人格も自ら低劣となり、顔も卑しくなってくる。