電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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現代人の発想法は、見る自分という主体と、見られる雪という客体に相対的に二分して認識するから、論理的人生は描けても、血の流れる生きた人生の真実はつかめない。すべての現象を自分と見るいわゆる“一段論法”の発想の訓練を、禅者は要求する。
◆好雪片々不落別処(好雪片々別処(こうせつへんぺんべっしょ)に落(お)ちず)
――碧巌録(へきがんろく)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p184 )
8世紀のころ、中国の龐居士(ほうこじ)という偉大な禅者が、当時の禅の高僧薬山(やくさん)和尚を訪ねて帰ろうとする。薬山は弟子たちに居士を門まで送らせる(門送という)。
おりしも雪が舞いはじめた。居士は雪空を仰いで、「好雪片々別処に落ちず――きれいな雪が降るが、ほかへも落ちないが、同じところへも落ちない。さて、どこに落ちるか」と公案(禅の命題)を提出する。門送する弟子の一人が「別処に落ちずと言われるが、それなら一体どこへ落ちるのですか」といったような理窟をこねるので、居士から烈しくつっぱねられる。
彼だけではない。とくに現代人の発想法は、見る自分という主体と、見られる雪という客体に相対的に二分して認識するから、論理的人生は描けても、血の流れる生きた人生の真実はつかめない。すべての現象を自分と見るいわゆる“一段論法”の発想の訓練を、禅者は要求する。
今の場合、雪がさらさらと降るのは自分がさらさらと降っているのだ、と対象そのものに成りきったとき、対立の中にあって対立が障害とならぬ人生がはじめて開けることを、この語は示す。
おもえば、古い童謡の「雪やこんこ あられやこんこ 降っても降ってもまだ降りやまぬ 犬はよろこび庭かけまわり 猫はこたつでまるくなる」に、「好雪片々不落別処」の公案に、犬と猫が正しく答えているのを知る。「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句吟者が、ぬくぬくした部屋から往来に飛び出して、はだしになってその子と一緒に樽をひろって歩いたら、それ、そこに雪が落ちる。雪は生きているのだ。
「好雪片々不落別処」を、禅や雪だけに執(とら)われたら、また失格する。浄土宗の碩学(せきがく)、故椎尾弁匡僧正(しいおべんきょうそうじょう)の「ときはいま ところあしもとそのことに うちこむいのち とわのみいのち」の遺詠に、降雪が「とわのみいのち(阿弥陀仏)」となって僧正の脚下に舞っているのをおもう。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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現代人の発想法は、見る自分という主体と、見られる雪という客体に相対的に二分して認識するから、論理的人生は描けても、血の流れる生きた人生の真実はつかめない。すべての現象を自分と見るいわゆる“一段論法”の発想の訓練を、禅者は要求する。
◆好雪片々不落別処(好雪片々別処(こうせつへんぺんべっしょ)に落(お)ちず)
――碧巌録(へきがんろく)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p184 )
8世紀のころ、中国の龐居士(ほうこじ)という偉大な禅者が、当時の禅の高僧薬山(やくさん)和尚を訪ねて帰ろうとする。薬山は弟子たちに居士を門まで送らせる(門送という)。
おりしも雪が舞いはじめた。居士は雪空を仰いで、「好雪片々別処に落ちず――きれいな雪が降るが、ほかへも落ちないが、同じところへも落ちない。さて、どこに落ちるか」と公案(禅の命題)を提出する。門送する弟子の一人が「別処に落ちずと言われるが、それなら一体どこへ落ちるのですか」といったような理窟をこねるので、居士から烈しくつっぱねられる。
彼だけではない。とくに現代人の発想法は、見る自分という主体と、見られる雪という客体に相対的に二分して認識するから、論理的人生は描けても、血の流れる生きた人生の真実はつかめない。すべての現象を自分と見るいわゆる“一段論法”の発想の訓練を、禅者は要求する。
今の場合、雪がさらさらと降るのは自分がさらさらと降っているのだ、と対象そのものに成りきったとき、対立の中にあって対立が障害とならぬ人生がはじめて開けることを、この語は示す。
おもえば、古い童謡の「雪やこんこ あられやこんこ 降っても降ってもまだ降りやまぬ 犬はよろこび庭かけまわり 猫はこたつでまるくなる」に、「好雪片々不落別処」の公案に、犬と猫が正しく答えているのを知る。「雪の日やあれも人の子樽ひろい」の句吟者が、ぬくぬくした部屋から往来に飛び出して、はだしになってその子と一緒に樽をひろって歩いたら、それ、そこに雪が落ちる。雪は生きているのだ。
「好雪片々不落別処」を、禅や雪だけに執(とら)われたら、また失格する。浄土宗の碩学(せきがく)、故椎尾弁匡僧正(しいおべんきょうそうじょう)の「ときはいま ところあしもとそのことに うちこむいのち とわのみいのち」の遺詠に、降雪が「とわのみいのち(阿弥陀仏)」となって僧正の脚下に舞っているのをおもう。